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第45話 トールと角杯

長過ぎる。

トールがこれから飲み干さねばならない角杯。

スイスの長いアルペンホルンを、五倍くらい大きくしたような、馬鹿みたいに長い角だ。


白っぽく磨かれた表面が、火の明かりをぬらりと反射している。

角杯の口は太い。巨人の胴ほどもある。けれど先へ行くほど細くなって、ずっと奥の暗がりへ伸びていた。


「長っ! デカっ!」レスクヴァは目を丸くしている

「酒を飲ませる器にしては、趣味が悪いね」ロキがニヤニヤと笑った


巨人の王が、ゆっくりと手を上げる。

広間のざわめきがすっと細くなった。

「飲め。神ならばな」

低い声が、床の下を這うみたいに響いて来る。


巨人たちの口元がゆっくり歪む。笑っている。

でも、宴の時みたいな陽気さじゃない。

何かを、静かに待っている感じだ。


雪乃が小さく息を吸ったのが分かった。

俺も息を詰める。


トールは何も言わず、角杯を見下ろしていた。

それから腕を回し、持ち上げる。

その瞬間、腕と肩の筋肉が盛り上がった。

やっぱり重いんだな、あれ。

見た目の大きさだけじゃない。持ち上げた時の鈍い動きで分かる。

中身がたっぷり入ってる。巨人たち用の酒だ。


トールが角の口を唇に当てた。

床がグラッと揺れた。

角杯の根元がわずかに動いたせいか、こっちの足元まで振動が来る。

雪乃の身体が少し傾いた。

俺は反射でその手を取っていた。

ひやっとした。雪乃の指、冷たい。


雪乃がこちらを見る。

俺も見る。

ほんの一瞬だ。すぐに手を離した。

何も言わない。

でも、雪乃がほんの少しだけうなずいた気がした。


ゴボォォォォッーーー

トールの喉を鳴る音が、広間いっぱいに広がった。

ただ飲んでるだけなのに、地鳴りみたいだ。

角の内側を液体が流れる音まで混ざって、床の上に低い振動が伝わってくる。


巨人たちが身を乗り出す。

「トール、すごっ…」レスクヴァが両手を握った

「一気にいく気だ」シャールヴィはじっと見ている


トールはそのまま飲み続けた。

長い。

長すぎる。

俺なら、とっくに息ができなくなってる。

けれどトールは止まらない。

首筋が張って、肩が固まり、腕の筋肉がゴワゴワと盛り上がる。


ようやく、角杯が下ろされた。

ドン!

床が揺れた。テーブルの皿が、カタカタ鳴った。


すぐに巨人たちが角の中を覗き込む。

それから、笑った。

ブボフ♪ ゴボボ♪ ブボボボボボ♪

気持ちの悪い笑い声が重なり、空気が震え、石壁が低く唸る。


「え...?」酒が、ほとんど減っていない。

あんなに飲んだのに? それで、あれだけ?


トールの眉がわずかに歪んだ。

「もう一度だ」

「そう来ると思った」ロキが口元を押さえた


二度目。

トールは深く息を吸って、また角杯を持ち上げた。

今度はさっきより強い気合いがみなぎっている。

肩も、腕も、背中まで筋肉が盛り上がって固まる。


ゴボォォォッーーー

喉の音がさっきより荒い。

液体が吸い上がっていく。


広間が静まり返った。

さっきまで笑っていた巨人たちも、今はじっと見ている。

あるいは、また笑うタイミングを待ってるみたいな表情。


俺は、何となく鼻をひくつかせた。

酒の匂いが、妙に薄い。

肉の脂。焼けた石で沸騰するスープ。人いきれ。

そういうのは濃いのに、角杯の中身だけ、酒らしいつんとした匂いが弱い。


トールが角杯を下ろす。

ドォーーーン。

また、床が響く。


巨人たちが覗き込み、そしてまた笑う。

今度はさっきよりは確かに減っている。

でも、ほんの少しだ。気のせいじゃないかと思うくらいしか減ってない。


「ええっ!?」レスクヴァが素っ頓狂な声を上げた

「今のであれだけ?」

シャールヴィも首をひねる。

「おかしいな」


うん、なんかおかしい。

俺だってそう思う。

トールの飲みっぷりはものすごかった。なのに、何でほとんど減っていないんだ?


雪乃が、横で角杯を見ていた。

さっきから、ただ見てるんじゃない。

何かを探るみたいに、少し目を細めて。


トールの顔が赤い。

怒ってるのか、酒なのか、両方かもしれない。

「もう一度だ」


三度目だ。

広間の空気が変わる。

巨人たちも、もう笑わない。

トールも何も言わない。

ただ角杯を持ち上げる。その動きがさっきより重く見えた。

ゴボォォォォォォーーー

今までで一番長い。


喉が激しく震動している。

こっちの胸の骨まで響く寄せては返す空気の揺れ。

角杯を持つ腕がぴくりとも揺れないのがすごい。

どれだけ飲んでるんだ、これ。


トールの足元で、石の床がわずかにきしむ。

やがて、角杯が下ろされる。

ドォオン。

今度は一段大きく響いた。


巨人たちが覗き込む。

俺も見た。

...まだ、たっぷり残っている。

確かに最初よりは減ってる。

でも、飲み干したなんてとても言えない。半分にも届いてないように見える。


広間のあちこちから、低い笑いが広がった。

ゴボ…♪ ゴボボ…♪ ブボボボボ…♪


王は静かに言った。

「悪くない」


トールは角杯を見下ろしたまま、何も言わない。

黙って腕を組んだ。その顔がいつもより硬い。

トールは神らしい。

でも、神でも飲みきれないとは。


雪乃が小さく言った。

「変...」

「え?」

雪乃はまだ角杯を見ている。

「お酒の匂いがしない」

俺も鼻を寄せてみた。

近づいた瞬間、つんと来るはずの酒気が無い。

代わりに、湿った、塩っぽい匂い。

冷たい風の強い日に堤防へ行った時の、あの感じ。

唇に細かい水気が触れるような、広くて暗い匂い。


「潮...?」

「うん。海の匂い」雪乃がうなずく

雪乃の横顔を見る。

冗談を言ってる顔じゃない。

真剣だ。少し不思議そうで、でも妙に確信しているみたいな目。


俺はまた角杯を見る。

なんで酒の角から、海の匂いがするんだ。

なぜ。

分からない。

でも、ここでは分からないことがただの見間違いで終わらない。

それが嫌だった。

いや、ん? 嫌、というのとも少し違う。

ゾッとするのに、目が離せない。


雪乃がこっちを見た。

俺も見る。

言葉は無い。

でも、その顔を見ると少し落ち着く。

雪乃も、同じように訳が分からないんだと分かるから。



「次だ」巨人の王が、厳しく口を開いた。

その一言で、広間がまたざわめいた。

「走りか」

「誰がやる」

「小さいのがいるぞ」


シャールヴィの顔が少し上がる。

その目が、さっきまでよりずっと生き生きしていた。

「走り?」レスクヴァが兄を見る

「なるほど。そう来たか」ロキが顎に手を当てて苦笑した


雪乃が俺の袖をそっとつかむ。

細い指が、布越しに少し震えている。

「颯太...」

「うん」

「巨人たち、失敗するのを待ってる気がする...」


俺は広間を見回した。

笑ってる巨人。

黙って見ている巨人の王。

赤い顔で腕を組むトール。

前に出ようとしているシャールヴィ。


宴の続きなんかじゃない。

ここは、きっと最初から、試す場所だったんだ。

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