第35話 裂け目の風
湿地を抜けると、空気が変わった。
冷たいのは同じなのに、質が違う。
肌の寒を通り越して、骨が痛くなるような冷え。
ヤギの蹄が硬い地面を打つ。
今度は泥ではない。
薄く凍った乾いた土だ。ひび割れが細かく走っている。
「ここからだ」トールが短く言った
裂け目は、前方に口を開けていた。
谷ではない。
地面が、縫い目を失敗したように、
一直線に割れている。
冷気がそこから吹き上がる。
だが、匂いが違う。
凍った空気の奥に、
焦げたような乾いた匂いが混じる。
「冷たいのに、熱い匂いがする」顔を挙げて不安そうに雪乃が言う
「北と南が喧嘩してるようだな」ロキが笑った
俺は荷車の横板から少し乗り出して裂け目を覗き込んだ。
裂け目の下は暗い。
底が見えないわけではない。
だが、距離の感覚がつかめない。
足元の石が、勝手に転がり落ちる。
見ていると吸い込まれそうになる。怖い。
風が吹き上げる。
湿った匂い。どこか、古い氷の匂い。
タングニョーストが足を止めた。
片脚をかばう仕草が、わずかに強くなる。
「無理するな」シャールヴィが荷車から降りて、ヤギの首を軽く叩く。
そして、安全な足場を見分けてタングニョーストを誘導する。
「補うのか」俺はその巧みな姿を見て言った
「そうだ。足代わりだ」シャールヴィは軽い調子だ
谷を迂回する道を進むと、地面に奇妙な跡があった。
巨大な足跡。
あの五十メートルを超えるような巨人のものではない。
だが十メートルはありそうだ。
背丈が2メートル半はあるトールの足の大きさの4、5倍はある。
「そこそこ大きい連中だな」トールが淡々と言う
「腹が減ると動くって、あの老いぼれが言ってたな」ロキが肩をすくめて薄笑いをする
足跡の向きは北。
だが、一つだけ、逆向きのものがあった。
他のよりだいぶ小さい。
谷の奥へ向かっている。
「何で一つだけ逆なのかな」雪乃が小さく呟く。
「賢い奴が揺れを見に行ったんだろう」雪乃を興味深そうに見つめてロキが言った
「ヨッツンは馬鹿なんでしょ?」俺が聞くと、
「大きいのはな。小さいのは少しは頭がある」ロキは目を細めた
「ここを進む」トールが槌を握り直す
「ヨッツンを倒すの?」レスクヴァが楽しそうに言う
「様子を見る」
しばらく裂け目に沿って進む。
何かいる。
彼方に人影。
たぶん、3メートルほどの背丈。
ヨッツンの中では小さい方なのだろう。
利口そうな目。
雪乃が身を縮めた。
「雷の神か」穏やかな口調
「揺れはどこからだ」顔を少し歪ませてトールが言った
「北が深く息を吐いている。ニブルヘイムの霧が濃い」ヨッツンは裂け目の奥を指す
冷気が一段強くなる。
「南も騒がしい。ムスペルヘイムの火が走っている」ヨッツンはチラッとその方向を見た
今度は、焦げた匂いがはっきりした。
氷の匂いと火の匂いが同時に漂う。
ヨッツンは続ける。
「昔、氷と火が空白で出会った。穏やかだった。だが今は混じり方が荒い。ぶつかり合って、縫い目が裂けた」
ロキが小さく笑う。
「空白...あの時と似た構造か」トールが低く言った
「ああ、小さなギンヌンガガプだ」ロキが目を細め、妙な語を口走った
「世界が原初に戻ろうとしている」トールが槌を硬く握り直す
その名が語られた瞬間、裂け目の奥で南北の音が重なった。
パキッ、と氷が割れる音。
ゴオォ、と遠くで炎が鳴る音。
巨大な裂け目。
冷気と炎の匂い。
石がガラガラと落ち続ける。
ヨッツンが肩をすくめる。
「根だ。世界の根が冷えて、焦げている」
世界の根...?
裂け目の奥から低い唸りが響いた。
地面がわずかに波打つ。
同時に俺の視界が歪んだ。
——教室——
場違いな光景が浮かぶ。
机の列。
黒板の前に立つ教師。
え!?中学の!
「一条、お前は空気を乱す」冷たい声
胃を冷たい手で掴まれたような痛み。
まばたきをすると、今までいた谷の端に戻っている。
「爽太?」雪乃が俺を見つめる。瞳が驚きと困惑の色を宿している
「うん...大丈夫...」
地面はまだ揺れている。
ロキがちらりとこちらを見るが、何も言わない。
裂け目は広がっている。
「行くぞ」トールが前に出る
「縫い直す気かい、雷坊主」ロキが肩をすくめる
「縫う」そして「雷坊主はやめろ」
ヨッツンと別れ、荷車に乗った。
「ヨッツンにも知恵のあるやつがおる」猫背のトールが荷台に座り床板を爪で引っ掻く
「ロキよ、お前が言うか」トールが珍しく微笑んだ
裂け目を迂回する道へ進む。
地面がわずかに震えた。タングニョーストが鳴く。
肩掛けの内側で、雪乃の指が俺の袖をそっとつかんだ。
北の霧。
南の火。
その間に、俺たちはいる。
風が吹く。北と南から。
冷気と、焦げた匂い。
裂け目は確実に広がっているようだ。
トールが裂け目の先を見据えていた。




