第34話 老ヨッツン
朝になっても空は低い。
ヤギの吐く白い息が盛大に広がりすぐ横を流れて行く。
骨を傷めたタングニョーストの歩みはまだ少しぎこちない。常に片脚を庇う歩調だ。
俺は荷台から、ヤギ達や徐々に姿を変えていく景色を見ていた。
シャールヴィは御者台の脇に立ち、何事もなかったように風を受けている。
目が合った。
「気にするなよ」振り向きもせず言う
「いや、慰めるのはこっちだろう...補うんだろ?」シャールヴィはやっぱり調子が狂う相手だな
「補うさ。足りない分は足で払う」軽い。シャールヴィが気楽な調子で答える
「強いのか、鈍いのか分からないね」不思議なものを見るような目でシャールヴィを見ていた雪乃が小声で俺にささやいた
「そういうものでしょ、人間って。定めの通りに生きる。怒られても寝れば忘れるし」レスクヴァは鼻で笑う
人間ってそういうものなのか?
俺と雪乃は目を合わせて首を傾げた。
俺たちとここの人間は、人間ではあっても、やはりどこか...
湿地に入った。
氷の張った水溜りが点々と続く。
車輪が踏むたび、薄氷が割れて水が跳ねる。白いヤギ達が黒く汚れていく。
遠くに、黒い影が見えた。
丸太と枝を乱雑に組んだ家。
壁は歪み、屋根は曲がり、穴から煙が細く出ている。
「寄る」トールが言った
「ヨッツンだろ」ロキが笑う
「知っている」
あの巨大なヨッツンがあのサイズの家に?
それにヨッツンは敵じゃ無いのか?
「なんで寄るんですか?」訳がわからなくなり聞いてみる
「裂け目の近くに住むやつは、揺れを知る」トールは短く答える
やっぱり、よくわからない。
家の前で荷車が止まり、ヤギが「ベェエ〜」と大声で鳴く。
しばらくして家の戸がきしみ、
中から出てきたのは、曲がった巨体。
三メートルほどの背丈。腰が曲がっているせいで顔は地上二メートルくらいの高さにある。
灰色の髭が胸に垂れ、大きな鼻が赤い。
「おや、雷坊主か」声は低く、気だるそうだ
俺たちは家の中に招かれた。
中は穴蔵のようだった。
床には骨や皮、壊れた道具。鍋がすすけている。干した何かが梁に吊られている。匂いは強いが、火のそばは落ち着く。
不潔だが、老ヨッツンにとっては住みやすそうなのが判る。
座る場所が自然に空いている。必要な物がその周りに集まっている。
長年使いこなされた風情が漂う椅子や道具類。
「最近、揺れている」トールが炉の前に立ち、ぶっきらぼうに言った
「大きい連中が北へ動いとる。腹が減ると動く」老ヨッツンは鼻を鳴らす
「数は」
「多い」
短いやり取り。
「ずいぶん上等な毛皮だな」ロキが棚の上を眺め、顔を歪めて笑った
二枚の肩掛けが無造作に置かれている。
老ヨッツンが目を細める。
「なぜこんな所に人間の作った肩掛けがあるのだ」肩掛けを手に取ってロキが聞く
「昔、拾った」カエルのような無関心な目で老ヨッツンが答えた
「拾った?」ロキが首をかしげる。
「落ちていた」
「人間の背中に落ちていたのか?」ロキが笑う
「いや、ワシより大きくて頭のとろいヨッツンが人から奪った。そいつは大きなカマスを獲ろうとして川に流されて死んだ。河岸にこの毛皮が残った。だから拾った」
毛皮の肩掛け、二人分だ!俺と雪乃は暖かそうな毛皮から目絵が離せなくなった。
制服は冬服でも寒過ぎる。
ロキがわざとらしくため息をつく。
「この毛皮、今にも腐りそうだ。俺がもらっておいてやろう。あと半年もすれば毛が溶けて皮はヌルヌルに腐るだろう。臭くなるぞ。人の子が掛けていれば長持ちするものを」
「しかし、まだ腐り切ってはいないじゃろう」老ヨッツンが不機嫌な顔をする
「腐りかけのボロをもらう代わりに、雷坊主が今年は屋根を壊さないと約束しよう」ロキが胸を張って言った。猫背だが
「壊す気だったのか」老ヨッツンが笑う。歯が欠けている
トールは何も言わない。
「まぁ惜しくもないわ。持っていけ」老ヨッツンは完全に興味を無くした表情だ
ロキが毛皮の肩掛けを俺と雪乃にポイと投げてきた。
厚い。茶色と金色が混ざり合った綺麗な毛。
肩にかけると冷気が遠のく。トールのマントといい、ここの防寒具は見た目以上に寒さを和らげる。
「あったかい」雪乃が小さく息をはく。目を細めて嬉しそう
老ヨッツンがじっと俺たち二人を見る。
「人間は小さいな。だが、目が忙しい」
意味は分からないが、どこか探るような視線。
外へ出ると、空気がさらに冷えている。
タングニョーストが地面を踏み直す。
トールが御者台に戻る。
老ヨッツンの声が背後から飛ぶ。
「揺れは止まらんぞ、雷坊主」
「止めに行く」トールは振り返らずに答えた
荷車が動き出す。
湿地を抜けると、風の向こうで地面がわずかに震えた。
肩掛けが暖かい。
「ねぇ、これ本当に腐りかかっているんですか?」
「そう見えるか?上等だぞ」ロキがにらむ
「いえ、腐っているようには...え!?それじゃ?...」
「そういうことだ。ヨッツンは根性は悪いが頭も悪い」ロキは涼しげな顔をしている
遠くで、また低い軋みが鳴る。
「裂け目が近い」トールがポツリと言った




