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第一人者  作者: 近衛 キイチ
第八章
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お喋りな男

 天井のひび割れから射し込む光は弱々しく、それは目前の掌を見る事もままならない程、水の流れる音がするのは、壁から染み出る水が石造りの床の隅に空いた拳ほどの穴に向かって流れているから、床に敷き詰められた藁は腐敗し、滲み出した水が流れ込む先は獄司が来ないこの地下牢の便所である、しかし、排せつ物を流す程の勢いはなく、空気は常に停滞していることから、腐敗と汚物の臭いで息をするのも苦痛で、寝床として今座っている布はとても薄く、詰められた枯葉や藁には虫が湧き、何所も彼処も心地の良いものではないが、死を宣告された私にとっては、創作を邪魔されない時間と場所を提供する。


 腹が鳴る、ここに入れられてから三日目、その前に何か食べたのは、野菜の屑に薄い肉が一切れ入った塩と生姜で味付けをされた吸い物を一皿だけ。

「一度目の腹の音は水を飲む時間を知らせるための音、二度目の腹の音は寝床を作る時間を知らせるための音、三度目の腹の音はお休みを言う時間を知らせるための音、四度目の腹の音は断頭台の刃が落ちる音、お腹様よこれでサヨナラなのだから、その前に思う存分に叫ぶがいい、舌を切り取られた私の代わりに泣いておくれ」


 いくら気を紛らわせようとしても腹は減るものだ、腹を押さえ黙り込む、明日には処刑さるのだから、その前に腹一杯に何でもいいから食べたい。

「麸を取り除き真っ白になるまでひいた粉を水で練ろう、いやいや、その前にふくらませるために葡萄酒の絞り粕から作った種を入れようか、それとも少し酸っぱくなるけれど代々作り置きしている種を入れようか、味付けには胡桃と乾酪を入れよう、そうそう塩は必ず入れないと。

 牛の肉を大釜でよく煮込み、その後にニンジンやキャベツに空豆、あとはセロリを入れて煮込もう、もうこれだけで美味しい、味付けは何にしようか、生姜に塩は必ず入れよう。

 まだ足りない、そうだ魚が足りない、塩漬けの鮭を水で戻してからじっくりと蒸し焼きにしよう。

 そうだそうだ、飲み物は麦酒にしようか葡萄酒にしようか、いやいやどうせなら両方を飲もう、樽ごと飲み干そう」

 想像すれば一瞬だけ幸せな気分になり、その反動でさらに気が滅入ってくる。溜息の一つでもついて落ち着かせよう。



「忙しい奴だな、都合のいい作り話を喋り続けたり、自分の腹に歯が浮く様な台詞を吐いたり、料理の妄想話を始めたりしたかと思えば今度は溜息を吐いて、どうした気でも触れたのか」

 静かになった牢獄で私のものとは違う人物の声が聞こえて来た。老いている様にも聞こえないが、やや疲れを思わせる静かで低い枯れた男の声だった。


 何という事であろうか、驚きの余り我が耳を疑った、自分独りしかないと思っていたこの地下牢、まさか、まさか、隣の牢から声がするとは、一体何時から、自分が眠っている内に入れられたのか、いやいや、不思議なのはそこでもない、この牢獄に入れられる時に私は確認した。通路の左右に三つずつ在る牢に誰も入れられていない事を、そして、私が今居るのは出入り口から見て右に在る三番目の牢、つまりはこの自分が今いる牢よりも奥には何もないはず、それなのにそちらの方から声がしたのだ。


「私の名はダン・レントス、貴方の名前をお聞きしても宜しいですか」

 好奇心と警戒心を懐きつつ、牢の鉄格子に顔を近づけ声が聞こえて来た右の牢に向かい話しかける。

「……」

 右の方を見ようと目を凝らしても、霧の様に闇が渦巻き、ここ数日暗がりに閉じ込められ闇に慣れた目でも見通す事ができない、これでは外から入って来たばかりの正常な目玉では四番目の牢が見ないのも無理はない。


 声の主からの次の言葉を待つが返事はない、暗すぎただけで思い違いをしたのか、それとも幻聴ではないのかと思った、余りにも人恋しくて自分は幻聴を聞いてしまったのかと、この声の主は前から居たのだろうか、自分がこの牢に連れて来られてから三日の間この牢獄に誰も訪れていない事を考えれば、まさか私には考えられない事だが、彼は三日もの間、息を潜め物音ひとつ立てずに過ごしていたのか、これが事実であれば、異常であろうと正常であろうと、尋常ならざる精神の持ち主だ。


 さらに沈黙の後、声の主はアービエルだと名乗る、しかし自身の家名は言わない。

 アービエルといえばかの大将軍を連想するが、隣の牢に居る男があのアービエルな訳はない、彼は自分の祖母のさらに祖母が幼い頃にその悪名を馳せていた人物だ。

 忌まわしきあの名を付ける親は農民にも奴隷にも存在しない、貴族の家系かそれに近い集団に連なる者ならばその様な名前を付けるかもしれないが、私は今の今迄にその名前を名乗る人物に出会ったことはない、いずれにしても彼は貴族ではないはずだ。

 貴族が入れられる様な牢獄というのは、この様な不潔で薄暗い場所ではなく、風通しがよく陽の当たる塔の高い場所に入れられるはずだ、彼はこの城の家令とか貴族階級の次男などの農民にも市民にも成る事ができない者、若しくは自分と同じく市内の牢獄が満杯でここに入れられた者だと想像できる。


「アービエル殿はここに入れられてから長いのですか」

「……」

 アービエルは何も答えない、ここは自分の方から色々話そう、そうすれば彼も私が話した情報量に応じて口を開いてくれるかも知れない。

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