南の島へ
親方に弟子入りした場合、本格的に技術の伝授が始まるまで掛る時間は五年、最初は仕事道具に触れることも許されず、家の雑務をさせられる。
国民の数が少ないポートルコでは、伝統により見習いの期間が短く、さらに極端に人手が足りないオスロでは、役に立たない人員を乗せて積載量を圧迫するより、弟子には雑用と共に技術を教え、早めの独り立ちを促している。
パルミュラ王の教育やヴェツアークでの経験が役に立ったのか、弟子になってから三年目、八回目の航海が終わった頃になると、親方が次の航海の終わりと共に独り立ちを約束してくれた。
このまま一介の船乗りとして一生を過ごすのか、それとも出資者の一人として、信頼できる船長に航海は任せておき、自身は他国の拠点で商品を捌くのに専念する等、富を築く方法はいくつかある。
どちらにしても、暫くの間は雇われの船乗りとして経験を積みつつ、僅かな商品の売買で金を貯めなければならない。
富を築くよりも別の考えが頭の片隅にある、何時の日か西の果てまで船を走らせ、未開の地に何があるのか、その先に何が存在するのか見てみたい、そんな考えがある。
アンネリーゼも幼い頃から教わっていた事が役に立った様で、自分よりも早く職人に成った、暫くは親方の工房で働く事になるが、住み込みや雑用をする必要がなくなったのだ、よほど親方の許で寝泊まりするのが苦痛なのか、彼女は職人に成ったその日に部屋を借りている。
しばらくすれば、別の工房で働く事を許される様になり、作品が認められれば親方として工房を持つ事を許されるのだ。
自分が独り立ちを認められるのを待たずに、連日の様にオスロの街をアンネリーゼと共に歩き回り二人で暮らせる家を捜した。
三年前まで造りかけだった防壁の建造も進み、街は人も商品も多くなり活気が出て来ていたのだが、多くなる人の数に居住区の整備が間に合わず、三階建ての住居を増築した、四階や五階建てが多くなり火事が増えている。その上で家賃が高騰しているので、都市中に貧困が広がっている様に感じられた。
危険な市壁の外に住む気にはなれないし、だからと言って商売をする訳でもないのに、超高級物件である一階や二階を借りる訳にはいかない、三階の部屋は既に誰かが借りている、そうでない物件は又貸しのために家賃が高すぎるのでどうしようもない。
市庁舎の役人に尋ね、丘の上の物件を見に行く事になるのだが、転がり落ちそうになる程の丘の斜面を登り、羊の群れに道を塞がれながら道を進む。
途中に昔からそこに在ったと思わせる小さな家を目撃する、ポートルコが来る前からその場所に在ったのだろう、中には朽ち果てている物もあって不安と疲労だけが募る。
段々畑の丘を殆ど登り切った所に探していた家はあった、その側には陽の光に照らされた背の低い樹が生えていた。
その外見は古く、白かった漆喰は剥げ落ち中の泥壁が見えている、家の中は一室しかなく、家具もなければ竈もない、床は砂を敷き固めただけ。朽ちた小屋よりも少し見栄えが良いだけの廃屋ではないか。そんな風に騙されたと思い呆れている自分とは違い、中を見回していたアンネリーゼ振り返り言った。
「ここにしましょう、私達でこの家を飾るの、自分達の家なんだよ。
家具も小さな物を置いて、扉も直して床も板張りにして、外壁も塗り直しましょう、初めはこれ位小さい方が手も回るし、好きに内装を変えられるじゃない、何より港まで一望できる眺めが良い所じゃない、それにこの木も夏なんかはいい感じに日よけになりそうだし」
確かに木々の間から港が見えるが、時間を掛けて歩いて来たのだからそれは当然の様な気がする。これで景色も何も見えない場所ならば、それは監獄と同じだ。
景色に対して興味がない自分にとって気になるのは、安心て眠る事が出来るかどうかだった。例えば庭には柵と門を取り付けつつ、出入りが可能な場所には鎧戸と二重の鍵を取り付ければ、ある程度は安全だと思えるが、こんな丘の上まで材料を運ぶのは大変な上に、市場まで往復しなければならない事を考えれば、広場に近い五階建ての最上階の方が安全なのではないだろうか、それをアンネリーゼに伝えるが彼女はこの場所が気に入った様で、坂道を少し下った所にある家主の許に行くと、怪しむ小母さんに、身分証の代わりとなる彼女の親方の名前が記された紹介状を提示する。
これで家賃を払って終わりかと思ったのだが、アンネリーゼが値段の交渉を始め三割ほど割り引いて貰い契約を結ぶが、この交渉により小母さんの自分達に対する警戒は消えてしまい、常に親切に接してくれるようになった。
「帰って来る頃には、外装も内装も塗り直しも終わって、家具も運び込んでいるから心配しないで、無事に帰って来る事だけを考えて行ってらっしゃい」
九回目の航海へ出港日の朝、アンネリーゼと簡単な会話を交わし港湾へ向かった。
今回の旅は往復で百日余、少し長めの航海だが不安はない。
「今回は何を買って帰ろうか」
船の中で呟く。この前は小さな琥珀が付いた首飾りを贈ったから、装飾品ではなくて実用品の方がいいのかな。
今回乗り込んだ船の名はハッボス、古代の英雄の名が付けられた大型の帆船、これに乗り北東の国アッコンまでの航海だ。
人手が足りないために、同盟を結ぶ海岸の集落で船員を募集しつつ、十二日後ハッボスはルータニアンに寄港する、商品の取引のために一日停泊する予定なので、船員達から受け取った手紙を袋に詰め商館に託す、初めは何を書いたらいいのか判らなかったけれど、最近は自分の体調や何気ない内容でいいのだと思った、ユーリーからの手紙を待ち望んでいた自分を思えば、無事に航海が進んでいる事が解るし手紙が来るとうれしいものだ。
商館の人から、アッコンのポートルコ自治区に向けた手紙の束を受け取ると、後は暇になったので市街地を見て回る、寄港した時から何処からか妙な気配を感じていたからだ。
それは微かに生臭く錆びた鉄の様な腐敗した臭い、露店で並ぶ魚や処理された豚の臭いではない、人々の話声からその臭いのする場所が判った、近づくほど臭いは強くなってゆく、広場に入った所でその余りにも強い臭いに鼻を摘まなければ息ができない程になった。
広場の中央辺りに人だかりができており、明らかにその中に悪臭の根源があった。
人を掻き分けて中に入ろうと思ったが、その必要はなかった、人だかりの中央から槍に突刺された複数の首級が掲げられたからだ、人に似ている骨格をしているが人ではない、それは魔獣のものと思われる顔、集まった人は歓声を上げ一人が叫んだ。
「海の不吉がアンブロア号の勇者によって一つ消えたのだ、これだけの魔獣を狩った者達に対し我々は何らかの感謝の気持ちを伝えなければならない、総督は褒美を上乗して然るべきだ、俺達からも何か彼らに礼をするべきではないか」
人々が首級に向かい金を投げる、そして奇妙な感覚に襲われる、その感覚が何なのかは分からない、でも、あの種族名も分からない魔獣の首はとても悲しそうな顔をしていた。
とても複雑な気持ちだ、こんな事をされなくてもいいのでは、こんな風に晒しものにせずともいいのではないか、どんなに相手が非道を行おうが、自分達が同じ事をしてしまえば人間同士の争いと変わらないではないか。
どんな顔をしていたのかは判らないが、同じ様に広場に来ていた船員に腕を掴まれハッボスに戻る。
「ウリンダロスが血の臭いを嗅ぎつける」
事情を聴けばそう言われ、船長は事情を聞くと直ぐに船員を集め出航の準備に掛かる、このままこの港に長居すれば、ウリンダロスに行く手を塞がれる可能性があるとのことだった。
二日の間、不安と恐怖を感じながら船を進めるが、三日後にはウリンダロスの脅威が去ったと感じたのか、船員達は夕食が終わると酒に酔い浮かれ騒ぎ始めた。
船が暗礁に乗り上げない様に、自分は甲板で深度を計る手伝いをしながら皆が歌っているのを聞いていた、何も考えずに遠くの方に見える陸地を眺めていた。
時折見える陸の影に意識を奪われていると、隣の航海士が海に松明の明かりを向けている、彼は海の中で何か動いたような気がしたと答えた。
彼の言葉を聞いて、背筋に冷たいものが走る、主柱の上に居る見張りに尋ねるが、彼は気付かなかった様で、苛立った声色で否と応える、しかし、航海士はそれでも不安を拭い切れない様子だった。
「船長を呼んで来る」そう言い走り出そうとした時、船体が大きく揺れた、波に煽られて左右に揺れるのではなく、足が浮く程に上下に動いたのだ。
策具が動き回り、置いてあった樽が転がる、中では鍋や椅子が散らばる音、慌てて船員が甲板に上がって来る。そして先ほどまで異常に気づいていなかった見張りが叫ぶ、最も出遭いたくない魔獣の名前を。
見張りの叫び声を聞き、皆が松明と短剣や斧を抜き警戒するが、辺りは静けさに包まれ、聞こえるのは波の音ばかり、誰もが恐怖の余り現実とは思いたくない様で、海の中を覗き込んでいた船員は笑いながら。勘違いだ。と呟き、その言葉を聞いた者の半分が頷く。
しかし、船体が再び揺れ動く、今度は黒く大きな縄の様なモノが右舷と左舷の水面から飛び出る、自分の身長を越える太さを持つ、黒く巨大なそれは主柱を砕き船に巻き付いた。
船が割れるかと思わせる程の音と衝撃、落ちない様に必死に船縁にしがみ付くが、対応に遅れた何人かが海へ落ちて行く、それを免れた多くの者も、飛び散った木片や切れて暴れる縄が当たり負傷する、そして幾人もが黒いそれの下敷きになり動かなくなる。
船に巻き付く黒いそれに向け、船員達は剣や斧を振り下ろすが、そのどれもが弾き返されてしまい、傷一つ負わせる事ができない、この巨大な蛇の胴体を引き剥がせなければ、如何にかしなければ船が沈む、こういう時の対処はどの先生からも教わっていない、ともかく船からこの蛇を剥がさなければならない、自分も斧を掴み取り、黒い鱗が重なりあっている巨大な蛇の胴体へ向かうが、その鱗は斧を弾き薄皮の一枚も削り取る事ができなかった。
一呼吸する間に目の前にある大蛇の胴体をよく観察する、そして単純な事に気が付く、その鱗は蛇ではなく魚に近い事に。
鱗の間に剣を突き刺す事ができれば、少しはこの大蛇に痛みを感じさせる事も可能ではないのか、そう思い腰に差している短剣を抜く、短くて幅はないがその分だけ尖端が鋭い短剣だった、これを逆手で持ち静かに剣先を鱗の間に差し込む、短剣の先が肉に食い込む感触、ウリンダロスはまだ気付いていない、短剣を鱗の隙間に挟んだまま手を放し、両手で持った斧を短剣の柄頭に少し当て狙いを定めると、力の限り振りかざした。
短剣は根元まで突き刺さり、そこからは緑色の血が吹き出て体中にかかる、そんな事を気にしている場合ではない、口に入った血を吐き出し、その生臭い臭気を我慢する。
今度は柄頭を蹴り上げ刃をさらにその胴体にねじ込ませると、近くに落ちていた木の棒をねじ込んで左右に動かし、その鱗を剥ぎ取る。すると途端にウリンダロスは船を締め付ける力を弱める、船から離れ逃げようとしているのかと思った、がそうではなかった、水を弾く音と空を切る音がしたかと思えば、今まで船を締め付けていた物が何だったのか、そう思う程に、途轍もなく巨大な何かが船に打ち付けられた。
投げ出されたのは自分を含め多数、周囲の闇から助けを呼ぶ叫び声が聞こえるが、自分は全身の痛みで叫ぶ事もできず、腹筋に力を入れると、口の中に血の味が広がり息をするのも辛かった。そばに板切れ浮かんでいるのに気付き、そこまで泳ごうと試みるが、やはり体は全く動かなかった。
そして薄れてゆく意識の中で見た。
ウツボと蛇を混ぜた様な恐ろしい頭部を持つ黒く巨大な魔獣がハッポスを打ち砕くのを。
目が覚めた時に見えたのは板葺屋根の天井だった。
見た事のない光景ではないものの、目覚めた瞬間あのパルミュラの宿屋に居るのではないかと思ってしまった。
ダリネスも自ら命を落とすことなく、エリザによって奴隷に売られた事もアンネリーゼとの出会いも、夢なのかと思った。
しかし夢ではない、一間の板葺屋根の小屋である。強烈な磯の香りと大きく炭によって黒ずんでいる梁、板張りの床に麻を編んだ硬い敷物の上に寝かされていた。そして、また動かす事ができない程に痛む身体には、軟膏の様な物が塗りたくられていた。
「サルウェー ウト ワーレスッ」
目覚めた自分をのぞき込む様にして、今はもう誰も話す事のないレムリア時代の言葉で彼女は話しかけた。




