アンネリーゼの決断
夏が過ぎ市民の間に漂う不穏な空気が消えたのを確認したジョルジュは、再びマニシッサ河に向かうための準備を始めている。
ボナリウスの死後マニシッサ河での戦闘が減ったそうだ、恐らくライオネルが軍の再編を行っているためだろう、魔獣を指揮する司令官達はボナリウスに付き従う元騎士や従士らしいので、彼らが離脱する可能性や、彼らの信頼を得るために、ライオネルは色々と画策しなければならないのだと想像する。
今の事態は一時的なものと考え用心しなければならないのに、ジョルジュはマニシッサ河の宿営地に置いている軍勢の半分を解体すると決めた、それは、市民の不満を完全に払拭させるためでもある、その思惑通り市民は自分達の行動を反省し、戻って来る家族の帰りを待ちわび王に感謝した。
ジョルジュも傭兵に支払う金が減るのでとても機嫌が良かった、そんな父親を見て何か思う事があったのか、アンネリーゼは家庭教師の授業が終わると、何か意を決した様な表情で父が仕事をする執務室へと向かう。
自分は城主と共に仕事をしていた家令と共に、ジョルジュとアンネリーゼの話し合いが終わるを待つ、共に居る家令は自分をユーリーから買い取り、その後も切り分け要員として城の中に迎え入れた人物、彼と年齢や仕事の内容など、他愛もない会話をして時間を潰す、退出してきたアンネリーゼの頬は涙で濡れており、内容は家令との会話に気を取られて良く聞こえなかったが、とても重要な話なのだろう。
執務室でのやり取りの後、アンネリーゼは明らかに落ち込んでいた、侍女との会話も減り食事も手に付かず、城主と会話をする事もなく、誰から見て両者は険悪な雰囲気を醸し出していた。
執務室でのやり取りから数日後の事、今日もアンネリーゼの護衛で朝が終わる、自分と姫様以外は誰もいない室内、何故か今日は侍女達と中庭には向かわずに刺繍を続けるアンネリーゼ、自分は耳の上辺りまで伸ばす事が許された髪の毛を触りながら、窓の外に顔を出して流れる雲を眺める。
「アービエルは幾つになるの」
窓の外を見ていた自分にアンネリーゼが話し掛けて来る、名前を覚えていた事に驚きつつ素直に年齢を答える
「パルミュラの様な大国では、忠誠を誓う貴族も多くて宦官なんて宮廷に必要ないから知らないかもしれないけど、城内に住む騎士に従士に…… あと騎士見習いや従卒なんかの男性以外、つまり奴隷は全員が宦官だってことを知ってる。
外の詰所に控える使用人は、城の中に入る事が許されていないから関係ないけど、キミは宦官にしてこのまま私の護衛とするって家令が言っていたよ。
宦官なら野心によって裏切られる可能性が少ないから、重要な仕事も任せる事もできるし、万が一に蜂起された場合でも、城内の騎士達だけで如何にかできると考えているらしいけど、この前の賊も宦官だったのに、騎士達は何もできなかったんだよね」
それで良いの、と彼女は自分に尋ねる。
自分が城の中で給仕をする事になるのを聞いた折り、下位の使用人がした何とも言えない表情を思い出す、そして自分を宦官にするために、城主は従者にも召し上げてくれないのだと解り、疑問が一つ解けたと同時に。やはり信用されていなかったか。と、残念な気分になった。
話には聞いた事ある、子供を酒に酔わせた上に熱湯の中に入れてしまい、酔いと熱さで気絶した所で棍棒を使い睾丸を叩き潰すのだ、想像するだけで痛そうだが、気絶しているならば余り関係ない様な気がする、その後も痛みが続くのならば嫌だが、付いている意味が良く解らない物だから、特に問題がない様な気がする。
「キミの体は焼印も無ければ鞭に打たれた痕もないから、もしも誰も知らない所に逃げ出せば、解放奴隷と陰口を言われる事もなく、生まれながらの自由民として生活できるんだよ。
キミが本当の身分を言い出さないのか、そう不思議に思っていたけど、今の私には解る、望んでもいないのに崇められた挙句、嫌で仕方がない事をさせられる苦痛から逃げ出したんでしょう、でもそれで良いの、ここで宦官になる事がキミの望みだったの、逃げ出した先がここで良いの、この場所で一生を過ごすの、宦官になってしまえば、普通の人生を過ごしたいと思った時には遅いんだよ」
去勢以外にも、何か気になる言葉をアンネリーゼは言う、自分の正体に感付いているかの様な言葉を言う、聞き直せば確証を与える事になるので聞けない、何とも言えない表情をしている自分を無視して言葉を続ける。
「二年前に私と会った事は覚えてない? 馬上槍試合の時に挨拶したでしょう」
パルミュラ王が馬上騎士試合を開催したのは覚えているが、あの時なにが行われたのか覚えてない、一番つらい時の出来事だから、確かに各国の要人が招かれていたからアンネリーゼとも遭っているかも知れない。
「覚えてなくてもいい、あの時観たキミはとても辛そうだったから仕方ないことかも」
曖昧に頷く自分を無視して彼女は話を続ける。
「わたしと一緒にこの城から出ない。
急ではないの、ずっとそう思っていたことなの」
快適な生活を棄ててまで、外に希望があると思っているのだろうか、とても辛い事ばかりで、何も知らないお姫様には厳しい物になるに決まっている。
「キミはどうなのよ、英雄への道を約束され、栄光を掴み取る全ての条件が揃っていたのに、奴隷になってまで予言の者だという事を隠して生きているじゃない」
今までぼやかしていた言葉を明確に言った、そうか、やはり自分がネイ・レムリニアスだと言う事に気付いていたのか、たしかに自分はコーネス王の道具として、予言の者としての人生が嫌だった、飾り立てた張りぼての中身を知られる前に逃げ出したのだ。嘘偽りの人生から逃げ出したのだ。
「だから、逃げましょう。
後一年もすれば、望んでもいない男と結婚をさせられることになっているの、先日の事件もそれを望まない者達の仕業よ。
どうして望んでもいない事で殺されなければならないの、そんなのはイヤ、どうせ殺されるなら、全部棄てて逃げ出して、やりたい事を全部叶えてから死にたいの」
そう決めた、自分に言い聞かせるように彼女は呟く。
そう言うアンネリーゼの顔を見て、僕は彼女に共感してしまった。
しかしこの城から逃げ出せたとして、その後の生活はどうするというのだ、村の隅で農具を直し、農奴の様に他人の土地を耕し、僅かな収入と実りで暮らして行くのか、大きな街だって楽ではない、市民の紹介と不動産と定職を市域内に持たなければ市民となれず、生涯に亘って嫌煙されながら、貧しい下働きとして生きて行くのか、最終的には、森の中で半分盗賊の様な生活をする羽目になるのではないか。
「だいじょうぶ、紹介状が必要になる場所では、家令の印が押してある物を使うから、彼の発行するものなら国王の印がしている物よりも怪しまれないし、それに彼はよく自分が管理する田園の人達に対して発行しているから、国内では殆ど怪しまれないと思うの、それに国の外に出れば家令の名前なんて誰も気にしないから、あとは関所を通るためのお金を盗まれなければどうにかなると思うのよ」
アンネリーゼは一枚の羊皮紙を自分の前に出す、綺麗に裁断され四隅に公式の物を表す判が押してあり、保証人として左の上部に印と家令の名前がすでに入っているのに、それ以外の部分は空白だ、一体どの様な手段でそんな物を手に入れたのだろうか、確かにこれに出身地と名を書き込めば身分を証明できるだろう。
「オスロを知ってる、レムリア半島の先端に位置する都市の名前、ポートルコ共和国が新しく建設した都市のこと、先生の話では、本国自体の人口が少ない上に、まだ建立して日が浅くて人が少ないから、専門の職人や働き盛りの若者なら、簡単に受け入れてくれるらしいの。
それにあの国は商才のある人物の邪魔をするのを嫌い、大富豪達が政治の舵を取っているって話だから、資産や功績によっては元他国民でも参政権を貰えたりするんだよ、今の私達がこの大陸で目指すべき場所はあの国以外にあると思う」
アンネリーゼは目を輝かせながら、学んだばかりのオスロの話しをする。
ポートルコは南の方に在る、レムリア半島の付け根に位置する国で、元老院を構成する議員は、優秀な政治家であると同時に才能ある商人と教えられていたが、そんな事までは知らなかった。城主に信頼されていない事が明らかになった上に、宦官の話を聞いたせいもあるのだろうが、ポートルコの新しい衛星都市オスロに今すぐにでも向かいたい気持ちになる。
決断を下しても、準備や方法が整っていなければどうにもならない、先ずはどの様に城から脱するのか、どの様な道を通りオスロまで向かえばいいのだろうか、アンネリーゼもそれが解らずに困っていた。
彼女の部屋に在る秘密の通路は、城の中を移動するための物で、脱出するための物ではない、先の暗殺者が用意した脱出方法はどの様なものだったのか、ジョルジュの拷問により暗殺者の生き残りは既にこの世に居ないし、確保していたと思われる脱出路も塞ぐなり、警備を堅くしているだろうから、今現在は使えるのか判らない、自分の頭の中にある知識を総動員して考える。
少し考えていると思い付く、思い出すと表現すべきか、この城はレムリニアスの時代からある砦が基になっていたことを。
改築を重ねて現在の様式に変わってその面影はないが、地下に在る貯水池はどうだろうか、当時のままならば、脱出用の抜け道が存在するかもしれない、存在しなくても、排水用の穴の中を通れば外に出られるのではないだろうか、そう思ったが、そんな物は既に塞がれているのではないか、しかし考え込んでいても仕方がない、行って確認してなければ判らないではないか。
無事に城から出られたとしても、どの道を通ればよいのだろうか、レムリア王国の時代に造られた道は防備の点から石切り場となり残っているものは少ないらしいく、案内もなく道なき道を歩き、暗い森を突き抜けるのは危険すぎる、ヴェツアークの領内であっても国王の直轄領を通り抜けられれば、追手の足は鈍くなるかも知れない。
「この国の地図ならお父様の執務室に置いてあるわよ」
そんなアンネリーゼの言葉に驚きの余り声を失う。
帆船を造ると言って自分も船大工と混じり作業を行い、国民の歯痛を治すために自らその口に手を入れる人物、好奇心旺盛で自分も汗をかき、命じた事業に加わる男、この国の王ジョルジュは、自らの手で測量を行って地図を作ったという。




