5
最近、本当によくぶつかる。
第4グラウンドへ行く道の途中、曲がり角の水飲み場で、また誰かに激突した。
今度は尻餅を付く前に、腕をガシッと引っ張られて助かったけれど。
「…。」
「…あ。」
澄香はぱちくりと腕を引っ張ってくれた人物を見上げる。
滝井くんは最初少し驚いた顔をしていたけれども、すぐにクシャッと困ったような笑顔を見せた。
なんだろう。
ここの所、幸せ過ぎるぐらい彼の知らなかった色んな表情を見せてもらっている気がする。
「…千葉、ぶつかり過ぎ。」
「あ、…あのね!」
ドキドキと心臓が最大級に高まるまま、澄香は声を跳ねさせた。
そんな切羽詰まった澄香の手を滝井くんはキュッと引っ張る。
「カバン、持ってきてる?」
「え?」
「こっち。」
大きくて、ゴツゴツした手。
マメが何度も潰れて皮膚が所々堅くなっている。
本当に一生懸命野球をしてる人の手だなぁと、どこか他人事のように思いながら、引き寄せられるように澄香は滝井くんについて行った。
制服姿に大きなカバンを肩に掛けた、背の高い男の子。
その隣を歩いてるのがまさか自分だなんて、2日前に想像出来ただろうか。
学校を出て夕焼けの中、人通りの少ない川沿いの道を二人で歩く。
初めに口を開いたのは滝井くんだった。
「今日は、歌、聞こえなかったから。」
ふと視線がこちらに向いて。
「また逃げられたかと思って慌てて走った。」
彼は目を細めて情けなさそうに、でも嬉しそうに笑う。
「すみません、もう逃げません…。」
澄香は昨日の絶叫猛ダッシュを思い出し、顔から湯気を出しながら下を向いた。
ハハッっと笑い続ける滝井くんが、また高い空を見上げる。
「初めは、冗談なんじゃないかって思ってた。」
手をキュッと繋いだままにしてくれているのが嬉しくて、澄香は少し下を向いた。
「だって俺、千葉には嫌われてるって思ってたし。」
「え?!」
なんで?!
目を丸くして彼を見上げる。
「だって、あからさまに避けてただろう?」
「…あーー…。」
心当たりがないわけではないので、澄香は気まずそうに黙り込んだ。
それを見て、意地悪が成功した子供みたいに滝井くんが笑う。
でも決して、嫌いで避けていた訳ではないのだ。
強いて言うなら、“好き過ぎて。”
いつの間にか見るのもドキドキして、いてもたってもいられなくなってた。
「何回も何回も、飽きもせずそういう会話が耳に届いて。」
「…。」
うひゃー…。
「でも、教室じゃ目すら合わない。本当に、いったいどっちなんだよって、気が付いたら千葉ばっかり気にするようになってた。」
手を離し、ぐいっと両手を上に上げて滝井くんはうーんと伸びをする。
「んーっ!はぁ。ところでマフラーは完成した?」
「へっ?!」
あまりにもあっけらかんと話すので、澄香は一瞬なんのことだか分からなかったが、
その1秒後に、したくもないのに理解してしまった。
「あ…う…ぁ…」
「チョコケーキは?上手く焼けた?」
「あ…わ…わ…」
「誕生日のクッキーは結局何味にしたの?プレーン?」
「…あの、…もうそのへんで勘弁してくださ…っ」
筒抜け過ぎて泣けてくる。
半泣きの澄香に滝井くんはまた眉を困ったようにひそめて笑った。
なんだかとっても楽しそう。
不思議だ。
あれだけ見て来たはずなのに。
滝井くんの知らない顔がいっぱい。
本当にいっぱい。
「…不思議だな。」
ポソッと呟いた滝井くんを思わず凝視する。
「なんだか千葉の事、良く知ってたつもりでいたけど、やっぱりどこか新鮮だ。」
あ…。
澄香は胸にポッと暖かい火が灯ったように感じた。
「…私も。…多分“私と”喋ってる滝井くんが新鮮なのかも。そんなのほとんど見たこと無いし。」
「…そうだな。」
あれだけ関わる事自体、気後れしていたのに。
いざ隣に並んで喋ってみると、思いの外居心地は悪くなかった。
多分それは、自分といる滝井くんが思った以上に穏やかだから。
澄香は記憶の中の滝井くんを掻い摘んで引っ張り出してみる。
教室での滝井くんはとにかく眠そうで、少し不機嫌そう。
シャープな顔立ちだから余計に口をムッと閉じていると、どことなく怒っているような…。
友達と会話している滝井くんは時々カラカラと笑う。それはもう爽やかに。普段あんまり見れない大口に、キュンとする。
言葉も今より少し荒くたに使っている気がする。
部活中の滝井くんはそれはもう真剣そのもので。
帽子を取って汗を拭う仕草なんて、眩しすぎてとてもじゃないけど直視出来ない。(でも、やっぱりもったいないから凝視するけど。)
今の滝井くんは…、
なんだか吹っ切れたような、心底楽しそうな雰囲気で、そして喋り方がいつもより柔らかい。
「(“私”と喋る滝井くんて、こんな感じなんだ…。)」
「そんな訳で、」
「あ、は、はい。」
澄香は飛び跳ねて背筋を伸ばした。
「俺はここ一年、…まぁ勝手に期待していた事には変わりないんだけど、とにかく何度も肩すかしを食らって、」
「…。」
「若干、もう諦めかけてた。このまま、うっすらあった接点もなくなって、千葉もだんだん俺に飽きて、そのままフェードアウトするんじゃないかって。」
飽きるだなんて…っ!
澄香は首をブンブンと横に振る。
そこまで遠くを見ながらぼんやり喋っていた滝井くんが、またくるりとこちらに顔を向けた。
「でも、ダメだな、と思った。それじゃダメだ。俺、本当に何もしてない。」
あまりに真っ直ぐ頭の中にその真剣な声が響くから、澄香は滝井くんを見つめ返し、ただ黙る事しか出来なかった。
「そんな風に思っていた矢先だった。昨日、千葉が歌ってただろ?“過ぎた過去を後悔するなら、今すぐにでも前に進め”って」
「え?」
澄香は英語が苦手で。
だからいつも先生の趣味に偏った練習符には、英語が苦手な澄香の為に、フリガナがふってある。(どうしても読めませんって泣きついたら、仕方なしにそれからふってくれるようになった。)
意味は聞けばのほほんと教えてくれるけど、昨日は新しく貰ったばかりの楽譜だったから…。
ほとんど音程確認だけのようなたどたどしい歌だったのに。
「…すごいね。聞いただけで…。」
リスニングで意味まで理解するなんて。
「俺、英語9だから。」
おどけたように滝井くんがいう。
「でも歴史は赤点。」
「あはは、私逆だー。」
「あ、やっと笑った。」
笑顔の澄香がびっくりしたように滝井くんを見上げると、彼は嬉しそうにニコッと微笑んだ。
今のは、ヤバい。
こんな一瞬一瞬に、滝井くんの事をもっと好きになる。
空に叫んだ滝井くんも、
慌てて走ってきてくれた滝井くんも、
こんな下手くそな歌を毎日聞いてくれていた滝井くんも、
出来るだけ緊張しないように気を配ってくれた優しい滝井くんも。
どんどん積もり重なって、澄香はなんだか泣きたくなった。
「あのね、」
「うん。」
「クリスマスに渡そうと思って編んでたマフラーは、何故か腹巻きみたいになりまして…、机に眠ってます。」
「あははっ、腹巻き…っ」
「それからチョコケーキは、…家で“お父さん”という大きなネズミが出まして、かじられてしまいました。」
「それはまた…ハハッ、大きなネズミだな。」
「それから、それから…3月の誕生日に渡そうと思ったクッキーは、…私が食べちゃった。」
少し下を向いて、ちょっと前の勇気がなさすぎた自分を思い出す。
どの道、トラブルがなくても、覚悟がなければ渡せない。
渡せなかったのだ。
「でも…っ、でもね!」
澄香はごそごそと自分のカバンを漁り、中から少しよれた小さなプレゼントを取り出した。
「…。」
「…、クッキーは賞味期限があるから食べちゃったけど、こっちは腐らないものだったから…。」
本当はクッキーと一緒に渡そうと…、渡せたらいいなぁと思っていたプレゼント。
両手に持って、澄香は滝井くんの前におずおずと突き出す。
「お、“誕生日おめでとうございます。”」
「…“ありがとうございます。”」
滝井くんも嬉しそうに両手で手のひらサイズのプレゼントを受け取った。
「開けて良い?」
「ど、どうぞ。」
中身は、軟式野球部のユニフォームと同じ色のリストバンドで。
腕につけたそれを、
あんまり幸せそうに滝井くんが見つめるもんだから。
「好きです。」
澄香は唐突に告白してしまった。
不意を突かれたように目を見張った滝井くんは、その後、ぐっと何か堪えられないものを我慢するように口を自らの手で覆う。
彼の頬と耳が、かァァッと赤くなるのを、澄香はただびっくりして見つめた。
次の瞬間、澄香は身体を硬直させる。
彼が、抑えきれなかったようにギュッと澄香を強く抱きしめたからだった。
う
わ
わわ…っ!
彼の、土と汗が混じったような男の子の匂いと。
布越しに感じる強い筋肉と。
幸せに満ちた息を吐く微かな振動が、全力で澄香の心臓を止めにかかって来ていた。
「…やっと、貰えた。」
滝井くんは澄香の肩に顔をうずめてそう呟く。
「ずっと、ずっと、…欲しかったんだ。」
それは澄香の言葉なのか、澄香自身の事なのか。
彼女にはこんな状況下でそんな事、質問出来るわけなかった。
【Fin】