第5話 水と光の縁
レンセリオンと別れ、リリナとエリオンは来賓館への道を歩いていた。
噴水の音が、背後へ遠ざかっていく。
リリナは自分の指先を見た。
もう濡れてはいない。
それなのに、水の中で手を包まれた感触が残っていた。
隣を歩くエリオンの手へ、そっと目を向ける。
あのときも、この手は離れたところにあった。
(……どうやったのだろう)
聞いてみたい。
けれど、彼の顔を見ると、尋ねる言葉が出てこなかった。
「夕食の時間になったら、呼びに行きます」
不意に言われ、リリナは顔を上げた。
「……はい」
来賓館では、皆で食事をする。
案内係から聞いていたはずなのに、迎えに来てくれると思うと、夕食が楽しみになった。
「ほかの方も、いらっしゃるのでしょうか。皆さまが揃い次第、開講式をすると書いてありましたが……」
「セレリオスとテルメナの王子、それからスィルファリオンの姫が来られる予定です。まだ到着されていないようですね」
エリオンは道の先へ目を向けた。
「山を越える道もありますし、スィルファリオンの峡谷は、この時期、風が強いそうです。セレリオスは東の果てに近い国ですから、もう少しかかるかもしれません」
リリナは、霧の中で止まっていた馬車を思い出した。
皆も、それぞれの道を通って、この都へ向かっている。
「エリオン様は、その国々へ行かれたことがあるのですか?」
「いいえ。まだ、すべての国を見たわけではありません」
少し意外で、リリナは彼を見た。
エリオンは微笑んだ。
「いつか、自分の足で見てみたいと思っています」
「……私も、見てみたいです」
今日まで、ルクヴェルの白い街並みも、空を巡る竜も、話に聞くばかりだった。
実際に見ると、聞いていた言葉だけでは思い描けなかったものが、いくつもあった。
「では、アクエリシアにも、いつか来てください」
リリナはうなずいた。
まだ知らない国の名前が、今は、隣を歩く人の帰る場所になっていた。
⸻
部屋へ戻ると、荷物はすっかり片づいていた。
窓辺にはルナの肖像画。
長椅子には、母の肩掛けが畳んで置かれている。
机の書き置きの横に、マルナからの返事があった。
『エリオン様との散策は、いかがでしたか? 夕食に着ていく衣を選んでおきました。明日の朝、またお話を伺いに行きますね。今夜はゆっくりお休みください。――マルナ』
明日の朝、何から話そう。
竜を見たこと。
レンセリオン様に会ったこと。
噴水に願いを投げたこと。
思い返すうちに、指先をそっと握り込んでいた。
あの水のことは、どう話せばよいのだろう。
窓の外では、都の屋根が夕焼けに染まり始めていた。
リリナはマルナの選んだ衣に袖を通し、鏡の前で髪を軽く結った。
肩の皺を伸ばし、もう一度、鏡を見る。
(……レンセリオン様も、いらっしゃるのかな)
それとも、エリオン様とふたりなのだろうか。
扉が叩かれた。
リリナは結った髪へ触れかけ、手を下ろした。
扉を開けると、装いを改めたエリオンが立っていた。
「お待たせしました」
「いいえ。今、支度ができたところです」
彼の視線が、一瞬、リリナの髪へ向いた。
何か言われるかと思ったが、エリオンは廊下へ手を向けるだけだった。
「行きましょうか」
⸻
並んで歩き始めてから、エリオンが言った。
「髪を結われると、雰囲気が変わりますね」
リリナは思わず耳元へ手をやった。
「……変でしょうか?」
エリオンが少し身を屈め、横顔を覗き込む。
「いいえ。顔がはっきり見えて……僕は、好きです」
足が止まりかけた。
彼は何事もなかったように、前へ視線を戻している。
リリナは遅れないよう歩きながら、耳元へ触れた指を、そっと離した。
髪を結ってよかった。
そう思ったことまで知られそうで、しばらく隣を見られなかった。
⸻
会食の間には、ふたり分の席が用意されていた。
レンセリオンの姿はない。
エリオンが椅子を引いてくれる。
礼を言って腰を下ろすと、彼は向かいへ座った。
今度は、目を伏せなければ顔が見える。
リリナは膝の上で手を重ねた。
給仕が白磁の深皿を置いた。
「聖盾の澄み汁でございます」
透き通った汁の表面に、金色の油が揺れている。
リリナは皿を覗き込んだ。
「……ここにも、光があるみたい」
エリオンも自分の皿へ目を落とした。
「ルクヴェルでは、食にも意味を持たせるそうです。その金色は、護りの象徴だとか」
「護るための光……」
噴水で聞いたレンセリオンの言葉を思い出す。
街の眺めだけではなく、食卓にも、この国が大切にしているものがあるのだ。
リリナは匙を取り、ひと口含んだ。
温かな汁が喉を通ると、知らずに力の入っていた肩が下がった。
「……おいしい」
その声に、エリオンが顔を上げた。
「よかった」
微笑まれて、リリナも笑った。
ようやく、落ち着いて向かいを見られた。
次の料理が運ばれてきた頃、リリナは口を開いた。
「エリオン様。以前、セレフィアへいらしたとき……城にあるセレナス湖の絵を、ご覧になりましたか?」
彼の手が止まった。
「ええ。回廊の途中にある絵ですね」
「はい。母の故郷の絵なんです。私も、よく見ていました」
エリオンは懐かしそうに目を細めた。
「よく覚えています」
「本当の湖も、あの絵のようなのですか?」
「ええ。ただ、朝には霧が出ますから、向こう岸が見えなくなることもあります。水面が澄むと、建物が逆さに映るんです」
リリナは、絵の中の白い尖塔を思い浮かべた。
その向こう岸が、霧に隠れていくところも。
「……見てみたいです」
「それから、セレフィアの黎光の川は、あの湖へ注いでいるんですよ」
「私たちの国の川が?」
「ええ。国境を越えて、セレナス湖へ。アクエリシアでは、アリエスの流れとも呼ばれています」
リリナは目を瞬かせた。
故郷で見てきた川の水が、彼の国を流れている。
絵の中の遠い景色が、急に近づいた気がした。
「水は、行ったり来たりする人よりも、先に国を知っているのですね」
エリオンが小さく笑った。
「そうかもしれませんね。両国は古くから、祭にも人を送り合っています。セレフィアの黎光祭には、アクエリシアの楽師が参ります」
「あ……水の調べを奏でる方たちですね」
「ご存じでしたか」
「はい。聴いたことがあります」
知っているものが、彼の話の中にあった。
それが嬉しくて、リリナは少し身を乗り出した。
「アクエリシアのお祭りにも、セレフィアの者が行くのですか?」
「静水祭には、祈祷師の方々が光の花弁を供えてくださいます。生命と慈愛の祈りを交わす、古い習わしです」
「生命と、慈愛……」
リリナはその言葉を繰り返した。
エリオンがうなずく。
「その慈愛は、僕自身にも関わるものなんです」
彼は左胸へ手を添えた。
昼間、広場へ向かう道で見たのと、同じ仕草だった。
「僕は、聖湖セレナスの神獣、氷鱗の鯨セレーネに選ばれた者です」
「……鯨なのですか?」
「ええ。氷鱗をまとい、水底を巡る神獣です」
リリナは、空を飛ぶアウルともルクシオンとも違う姿を思い描こうとした。
湖の底を泳ぐ、大きな鯨。
いつか自分にも、その姿が見えるのだろうか。
「ルクシオンの姿が見えたのも、エリオン様が印を持っていらっしゃるから……」
「はい。神獣の輪郭を見ることができるのは、印を持つ者です」
リリナは、自分の胸元へ目を落とした。
「私と繋がる理由があると仰ったのは、そのことなのですね」
「ええ。リリナ姫様が黎光の器なら、僕はその光を包み、癒す、慈愛の魂です」
光を包み、癒す。
リリナは顔を上げた。
エリオンは静かにこちらを見ていた。
その言葉が、自分たちに何を求めるものなのかは、まだ分からない。
けれど、同じ神獣を見上げたときの嬉しさを思い出した。
故郷を離れた先にも、自分と同じものが見える人がいた。
そして、その人と今、向かい合って食事をしている。
給仕が甘い一皿を運んできた。
リリナは皿へ目を落とし、驚いた。
もう、食事が終わろうとしていた。
⸻
部屋へ戻る廊下は、来たときより静かだった。
窓の外に、都の灯りが見える。
扉の前で、エリオンが足を止めた。
「とても楽しい食事でした」
「私も……たくさんお話を聞けて、嬉しかったです」
「では、おやすみなさい。リリナ姫様」
彼が一礼する。
リリナは扉へ手を伸ばした。
けれど、開ける前に振り返った。
「……エリオン様」
彼はまだ、そこにいた。
「はい」
呼び止めたのに、その先がすぐには出てこなかった。
明日も、食事の席では会えるかもしれない。
それでも、ただ待っているだけではなく、約束が欲しかった。
「……明日も、会えますか?」
エリオンが少し目を見開いた。
リリナは扉の取っ手を握り直した。
やがて、彼が微笑む。
「明日は、ルク=セリアを案内しましょうか?」
「……はいっ」
返事が弾み、リリナは口元へ手を当てた。
エリオンの笑みが深くなる。
「では、また明日。会いに来ます」
「……待ってます」
彼が廊下を歩いていく。
その背中が角を曲がるまで見送ってから、リリナは部屋へ入った。
扉を閉め、そっと息を吐く。
広い部屋には、ルナの肖像画や母の肩掛けがあり、戻ってきたリリナを迎えてくれた。
窓辺のルナへ目を向ける。
「……明日、都を見てくるね」
そう言ってから、リリナはひとりで笑った。
どこへ行くのかは、まだ聞いていなかった。
けれど、誰と行くのかは決まっていた。
⸻
『甘い視線、温かなひと匙』




