第2話 霧の峡谷と水の王子
丘を越えると、王都は見えなくなった。
窓から入る風には、まだ花の香りが残っていた。
リリナは膝の上の書を開き、挟んだ葉が折れていないことを確かめた。それから、そっと閉じる。
街道の先には、見慣れない山並みが連なっていた。
馬車が進むにつれ、花咲く野は遠ざかり、道の両側に岩肌が迫ってくる。
やがて、窓の外が白く霞み始めた。
「霧……?」
「霧の峡谷と呼ばれる道です。ここを抜けて、ルクヴェルへ向かいます」
マルナの言葉を聞きながら、リリナは外を覗いた。
少し先の木々さえ、輪郭がぼやけている。
馬の蹄が湿った石畳を踏む音だけが、近くに聞こえた。
不意に、馬車が速度を落とした。
やがて止まる。
前方には、もう一台の馬車の影があった。
「どうしたのかな?」
マルナが窓から様子を確かめる。
「前の馬車が、動けなくなっているようですね」
リリナにも、車輪のそばで屈み込む人の姿が見えた。
しばらく待ったが、馬車は動かない。
「……私たちも、何かできるかしら」
リリナはマルナを振り返った。
「少し、行ってみてもいい?」
マルナは外へ目を向けてから、うなずいた。
「足元にお気をつけください。私も参ります」
扉を開けると、冷たい霧が頬に触れた。
⸻
馬車のそばには、三人の男たちが立っていた。
片側の車輪が石畳の端から外れ、ぬかるみに沈んでいる。
「車輪の前を、もう少し空けましょう。そこからなら、道へ戻せるかもしれません」
落ち着いた声が聞こえた。
話していたのは、銀色の髪をした長身の青年だった。
外套の裾を片手で押さえ、車輪を覗き込んでいる。その周りだけ、霧が水面のように揺れて見えた。
リリナが近づくと、彼は顔を上げた。
灰青の瞳が、まっすぐこちらを向く。
一瞬、青年の目が見開かれた。
リリナも足を止めた。
初めて見る人のはずなのに、視線が重なった途端、胸の奥に何かが触れた気がした。
「あの……一緒に押しましょうか?」
用意していた言葉が、少し遅れて口をついた。
青年は立ち上がり、微笑んだ。
「お気持ちは嬉しいです。ですが、リリナ姫様に無理をさせるわけにはいきません」
「……私をご存じなのですか?」
思わず尋ねたとき、車輪のそばから声がかかった。
「殿下。こちらは、もう押せそうです」
殿下。
リリナは青年を見上げた。
隣で、マルナがそっと囁く。
「アクエリシアの第二王子、エリオン様でございます」
「エリオン様……」
彼はリリナへ向き直り、小さく会釈した。
「ご挨拶が遅れました。僕も、ルクヴェルの学舎へ向かうところです」
「では、ご一緒に学ぶのですね」
「ええ。到着する前にお会いできましたね」
そう言って笑う顔を、リリナはつい見つめた。
左目の下に、小さなほくろがあった。
「お足止めしてしまって、申し訳ありません。もう少しだけ、お待ちいただけますか」
エリオンの視線が、車輪へ戻る。
リリナも、ぬかるみに沈んだ車輪を見た。
彼の声を聞いているうちに、自分が何のために馬車を降りたのか、忘れかけていた。
「……私にも、押すことならできると思います」
エリオンが振り返った。
「少しでもお力になれたら。私たちも、同じ道を通りますから」
彼は一度、リリナの足元へ目を落とした。
それから馬車の後ろへ回り、石畳の残る場所を確かめる。
「では、こちらをお願いします。足を置くなら、この辺りに」
リリナはうなずき、示された場所へ立った。
すぐ隣に、エリオンも並ぶ。
「動き始めたら、無理に追わず、手を離してくださいね」
「はい」
マルナが袖を押さえながら加わると、侍従の青年が場所を空けた。
「ありがとうございます。こちらは少し滑りますので、お気をつけて」
「はい。助かります」
マルナが会釈する。
「セリオ、そちらはどうですか?」
「大丈夫です、殿下」
皆が馬車へ手を添えた。
リリナは指先に力を込め、足を踏ん張る。
「では、押します」
エリオンの声に合わせ、身体を前へ傾けた。
車輪が重く軋む。
動いた、と思ったが、すぐに止まった。
「もう一度」
リリナは息を吸い直した。
今度は、手のひらに伝わる重さが少し変わった。
車輪が回る。
泥水を跳ね上げながら、馬車がゆっくりと石畳へ戻っていった。
「あ……!」
リリナは慌てて手を離した。
隣のエリオンも手を下ろし、道へ戻った車輪を見ていた。
「動きましたね」
リリナが言うと、彼は顔を向けた。
「ええ。助かりました」
少し弾んだ息のまま、微笑んでいる。
リリナも笑った。
自分の力がどれほど役に立ったのかは、分からない。
それでも、一緒に動かせたことが嬉しかった。
「お怪我はありませんか?」
「はい。……少し、靴が汚れただけです」
つま先へ目を落とすと、泥が跳ねていた。
エリオンは自分の靴を見て、それからリリナを見た。
「僕もです」
ふたりは顔を見合わせ、小さく笑った。
⸻
馬車へ戻ってからも、リリナは窓の外を見ていた。
前方を進む馬車が、霧の中へ入っていく。
見えなくなりかけるたび、少し身を乗り出して、その影を探した。
「姫様」
マルナに呼ばれ、リリナは振り返った。
「どうかされましたか?」
「ううん。何も……」
答えてから、また前の馬車へ目が向いた。
その様子を、マルナは何も言わずに見ていた。
リリナは窓枠から手を下ろした。
「……素敵な王子様だなって」
小さくこぼすと、マルナが微笑んだ。
「お優しそうな方でしたね」
リリナはうなずいた。
手伝いたいと言ったとき、ただ待つように言われることもある。
けれど、エリオンは自分の立つ場所を探し、一緒に押させてくれた。
それが嬉しかった。
それから、もう一つ。
リリナはマルナへ向き直り、自分の左目の下を指でなぞった。
「左目の下に、小さなほくろがあったの。……それが好き」
マルナが小さく吹き出した。
「まあ。そこまでご覧になっていたのですか」
「……笑わないで」
リリナは手を引っ込めた。
言葉にしてから、急に恥ずかしくなる。
けれど、マルナの笑顔を見ていると、もう少しだけ聞いてみたくなった。
「私にも、好きになってもらえるところ、ある?」
「もちろん、ございます」
迷いのない返事だった。
リリナは少し身を乗り出した。
「どこ?」
「笑顔です」
「……笑顔?」
思っていたより普通の答えで、少しだけ肩が落ちた。
マルナが、リリナの口元を指した。
「姫様は、笑ったときだけ、ここに小さなくぼみができるんですよ」
リリナは自分の頬へ触れた。
指先では、よく分からない。
試しに笑ってみると、マルナがうなずいた。
「そう。そこです」
「ここ?」
「もう少し、口元の方です」
指を動かすうちにおかしくなって、リリナは笑い出した。
マルナもつられて笑う。
「そのお顔です。私の好きな、姫様の笑顔」
リリナは頬に触れたまま、マルナを見た。
「だから、それは姫様だけの光です」
胸の内に、そっとしまっておきたくなる言葉だった。
リリナは窓硝子へ顔を向けた。
薄く映る自分の口元に、まだ笑みが残っている。
「……たくさん笑って、たくさん学んで帰ろうね」
「ええ。お土産話を、たくさん持って帰りましょう」
霧の向こうが明るくなっていた。
前の馬車が、再び姿を現す。
同じ学舎へ行くのだ。
到着したら、また話せるだろうか。
今度は、自分から名前を呼んでみたい。
リリナは頬から手を下ろし、前を行く馬車を見つめた。
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『霧に沈む峡谷で、その名を知った』




