第1話 黎光、はじまりの日
「リリナ姫様、お待ちください!」
呼び止められ、リリナは花咲く坂道で足を止めた。
振り返ると、侍女のマルナが手籠を抱えて丘を上ってくる。先を歩いていた子犬のルナも引き返し、リリナの足元へ駆け寄った。
「ごめんなさい。ルナと歩いていたら、つい」
「ルナのせいになさって。先に登っていらしたのは、姫様でしょう?」
リリナは笑って、手籠へ手を伸ばした。
「少し持つわ」
「では、こちらをお願いします」
渡された敷物を抱え、並んで坂道を上る。
その先には、セレフィア王国の象徴、“息吹の母”と呼ばれる大樹がそびえていた。
枝葉の間に、金色の羽が見える。
神獣アウル・ルミナリエは、今日もお気に入りの枝に羽を休めていた。
リリナは胸元に手を添えた。
(今日も……ちゃんと、ここにいる)
枝の上で、アウルが首を動かす。
目が合った気がして、リリナは小さく手を振った。
マルナが敷物を広げると、ルナが真っ先に前足を乗せた。
「こら。まだ途中よ」
リリナはルナを抱き上げ、マルナが布の端を整えるのを待った。
手籠が開かれ、花の香りを含んだ包みが取り出される。
「今日は、花蜜焼きと花露茶をご用意しました」
「ありがとう。……マルナも一緒に」
「姫様、恐れ多いです」
「ここでは、ただの野遊びよ」
リリナは隣を空け、花蜜焼きを一つ差し出した。
膝の上では、ルナが鼻をひくひくさせている。
「あなたにも、少しだけね」
小さく割った欠片を差し出すと、ルナは嬉しそうに尻尾を振った。
そのとき、頭上で羽音がした。
見上げると、アウルが枝を離れ、大樹の周りをゆっくりと旋回していた。
金の尾羽が、葉の間をすり抜けていく。
「……アウル様の光が、揺れておりますね」
マルナも空を仰いだ。
「うん。枝の向こうを回って……あ、戻ってきた」
リリナの視線を追いながら、マルナは目を細めた。
「私には、光が広がったようにしか見えません」
リリナはマルナを見た。
同じ空を見上げているのに、彼女には金の羽も、長い尾も見えていない。
幼い頃から知っていることだった。
それでも、ときどき不思議になる。
「……羽を広げると、とても大きいの。枝に止まっているときとは、全然違って」
両手を広げてみせると、マルナは微笑んだ。
「ええ。姫様のお話を聞くたびに、見てみたくなります」
リリナはもう一度、空を見上げた。
アウルは大きく弧を描き、元の枝へ戻っていく。
その姿を、いつかマルナにも見せられたらいいのに。
そう思いながら、リリナは冷めないうちに花露茶へ口をつけた。
⸻
ルクヴェルの学舎について聞かされたのは、その日の午後だった。
父王セリウスの手元には、一通の親書があった。
封蝋に刻まれているのは、竜を象った盾の印。
「各国の王子や姫君を招き、共に学ぶ場を設けたいという申し出だ。お前にも、セレフィアの代表として赴いてほしい」
「私が……ルクヴェルへ?」
リリナは父を見つめた。
ルクヴェルの名も、光の都の話も知っている。
けれど、そこへ自分が行くことになるとは思っていなかった。
「どのようなことを学ぶのですか?」
「それぞれの国の教えや暮らしだ。書を読むだけでは分からぬことも、そこで暮らしてきた者の話を聞けば、見えてくるだろう」
リリナは親書へ目を落とした。
まだ会ったことのない王子や姫君。
その人たちは、何を見て育ったのだろう。
自分がアウルを見上げるように、その国の神獣を見上げている人もいるのだろうか。
「……私、お話についていけるでしょうか」
隣に座る母、ユスティーナが、そっとリリナの手へ触れた。
「初めから、何もかも知っている必要はありません。分からないことを、学びに行くのですもの」
「でも、セレフィアの代表なのですよね」
母の手を握り返す。
父は親書を卓上へ置き、リリナに向き直った。
「お前が見てきたセレフィアを、伝えてくればよい」
大樹の下で過ごした朝が浮かんだ。
マルナには見えない羽を、両手を広げて伝えようとしたこと。
言葉だけでは、あの美しさを少しも伝えきれなかった。
けれど、マルナは聞いてくれた。
「……ほかの国の方のお話も、聞いてみたいです」
リリナは顔を上げた。
「私の知らないものを、たくさん知っていらっしゃるのでしょうね」
ユスティーナが微笑んだ。
その手は、まだリリナの手を包んでいた。
⸻
旅立ちの朝。
王都セレ=リスがまだ目覚めきらぬうちに、リリナは大樹の根元へひざまずいた。
胸元には、昨日母から渡された護符がある。
左胸に宿る印と同じ、花弁の形をしていた。
――道を照らす光になりますように。
母の言葉を思い返し、護符をそっと握る。
枝の上では、黎光鳥アウル・ルミナリエが羽を休めていた。
「行ってきます、アウル。……ちゃんと戻ってくるね」
アウルは羽を一度だけ震わせた。
降りてきた光が、金の髪をかすめる。
「姫様、そろそろ……」
旅装を整えたマルナが声をかけた。
リリナが立ち上がると、足元で柔らかな鳴き声がした。
ルナだった。
首に小さな花飾りを結び、いつものようにリリナを見上げている。
しゃがみ込むと、ルナは指を舐め、衣の裾を引いた。
「今日は、一緒に行けないの」
抱き上げ、柔らかな毛並みに頬を寄せた。
「少しのあいだ、待っていてね」
腕の中で、ルナが尻尾を振る。
リリナはもう少しだけ抱いてから、ゆっくりと地面へ下ろした。
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馬車の前では、父と母が待っていた。
セリウスは娘の姿を確かめ、静かにうなずいた。
「リリナ。どんな影に包まれても、己の内にある光を忘れてはならぬ」
「はい、お父様」
ユスティーナが歩み寄り、リリナを抱きしめた。
「多くを見て、多くを感じてきなさい。帰ったら、あなたの話を聞かせてね」
リリナは母の背へ腕を回した。
「……はい。必ず」
身体を離すと、母はリリナの胸元の護符を整えた。
その指先を見ているうちに、急に、ここを離れるのだという実感が湧いた。
リリナは唇を結び、もう一度、両親へ頭を下げた。
馬車が動き出す。
王都の通りには、花枝を手にした人々が集まっていた。
「黎光の姫に、祝福を!」
リリナは窓から手を振った。
見慣れた店先も、白い石畳も、今日はいつもと違って見えた。
ふと後ろを振り返り、息を呑む。
ルナが走っていた。
小さな身体で、必死に馬車を追っている。
「ルナ……!」
身を乗り出しかけると、マルナがそっと腕へ手を添えた。
「姫様、危のうございます」
リリナは窓枠を握った。
ルナはまだ走っている。
呼べば、もっと追ってきてしまう。
名前を呼びたいのに、声が出なかった。
そのとき、一枚の葉が窓から舞い込んだ。
淡い金色に透けた葉は、リリナの膝へ落ちた。
顔を上げる。
遠くに見える大樹の枝が、風に揺れていた。
「……アウル」
リリナは葉を両手で包んだ。
ルナが足を止める。
小さく吠える姿が、少しずつ遠ざかっていった。
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城門を抜けると、車輪の響きが変わった。
窓の外には、春の野が広がっている。
リリナは膝の上の葉を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「ねえ、マルナ……少しだけ怖いの」
マルナが顔を向けた。
「知らない国へ行くのも、知らない人たちと過ごすのも。……昨日までは、楽しみだったのに」
「今も、楽しみではありませんか?」
リリナは少し考え、うなずいた。
「楽しみよ。でも、怖いの」
「では、両方でよろしいのではありませんか」
思わず顔を上げると、マルナはいつもの顔で微笑んでいた。
「私もご一緒します。困ったときは、お呼びください」
リリナは小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
葉を傷めないよう、手元の書の間へそっと挟む。
それから窓の外を見た。
遠くの丘へ、街道が続いている。
その向こうに、どんな景色があるのだろう。
リリナは、今度は進む先を見るために、窓へ少し身を寄せた。
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『小さな足音、旅立ちの朝』




