第7話 残高不足
不動産決済は、独特の緊張感がある。
売主。
買主。
仲介業者。
銀行担当。
司法書士。
全員が揃って、数千万円を一日で動かす。
一つでも狂えば、決済は止まる。
◇
その日の決済は、奈良市内の地方銀行だった。
午後一時。
住宅ローンセンターの小さな応接室。
硬いソファ。
低いテーブル。
壁の時計の秒針だけが妙に響いている。
売主は七十代の夫婦。
長年住んだ戸建てを売却し、老人ホームへ入る予定だった。
買主は三十代前半の夫婦。
中古戸建の購入。
銀行の住宅ローン利用。
よくある決済。
のはずだった。
◇
「それでは、本人確認からお願いします」
俺は淡々と進める。
免許証。
印鑑証明書。
登記識別情報。
固定資産評価証明書。
売買契約書。
問題なし。
売主夫婦は少し緊張している。
買主夫婦は落ち着かない様子だった。
仲介業者だけが、場を和ませるように笑っている。
「今日で終わりですね」
売主の夫が小さく頷いた。
「長かったです」
◇
決済は、段取りがすべてだ。
司法書士が書類確認を終える。
銀行が融資実行。
買主口座へ着金。
そこから売主へ残代金送金。
仲介手数料支払い。
登記費用支払い。
固定資産税等精算。
全部終わってから、鍵の引渡しになる。
順番を間違えれば揉める。
だから全員、静かに神経を尖らせている。
◇
銀行担当がパソコン画面を確認する。
「それでは融資実行します」
キーボードを叩く音。
買主夫婦が緊張した顔で画面を見ていた。
住宅ローンの金が、いったん買主口座へ入る。
その時だった。
「あれ……」
銀行担当の指が止まる。
空気が少し変わった。
「どうされました?」
仲介業者が聞く。
銀行担当は画面を見たまま言った。
「買主様口座の残高が、少し不足しています」
一瞬、部屋が静まる。
「……え?」
買主の夫が固まる。
「諸費用分が不足しております」
銀行担当が事務的に続けた。
「登録免許税、司法書士報酬、仲介手数料等含めまして、あと二十八万円ほど必要です」
買主夫婦が顔を見合わせる。
「いや、入れてますよ?」
「現在残高では不足しております」
再び沈黙。
こういう時、空気は一気に重くなる。
◇
原因は大体決まっている。
別口座へ入金。
振込限度額。
税金分の失念。
諸費用計算の勘違い。
今回も、その類だった。
「ちょっと待ってください」
夫がスマホを取り出す。
「昨日移したよな?」
「私はやったよ?」
「いや、この口座じゃなくて……」
奥さんの声が小さくなる。
売主夫婦も不安そうだった。
当然だ。
残代金が入らなければ、今日の決済は終わらない。
鍵も渡せない。
引越業者だって、もう動いているかもしれない。
◇
「別銀行です!」
夫が言った。
「別の口座にあります!」
だが銀行担当は静かに答える。
「こちらへの資金移動が必要になります」
「今からできますか?」
「限度額次第ですね」
時計を見る。
午後一時四十分。
嫌な時間だった。
◇
夫が慌てて電話を始める。
「お義父さん、今ちょっと……」
横では奥さんがネットバンキングを確認していた。
「限度額超えてる!」
「え?」
「一日上限ある!」
仲介業者が青ざめる。
「変更できます?」
「たぶん……」
“たぶん”が一番怖い。
◇
俺は黙って書類を整理していた。
だが内心ではかなり焦っている。
決済は、流れが止まると危険だ。
売主の感情も悪くなる。
仲介業者も苛立つ。
銀行の予定も押す。
だが司法書士は、慌てた顔を見せない。
こちらが焦ると、全員焦るからだ。
「先生、今日いけますかね……」
仲介業者が小声で聞いてくる。
「まだわかりません」
俺は淡々と答えた。
◇
十分後。
「いけました!」
奥さんが声を上げる。
「限度額変更できました!」
夫がすぐ送金操作を始める。
だが今度は銀行担当が言った。
「反映まで少しお時間かかります」
また沈黙。
売主夫婦が時計を見る。
誰も雑談しなくなっていた。
◇
三分。
五分。
十分。
やがて銀行担当が画面を更新する。
「あ、着金確認できました」
全員が一斉に息を吐いた。
仲介業者が「よかった……」と呟く。
買主夫婦は、完全に疲れ切った顔だった。
◇
そこからは早かった。
売主への残代金送金確認。
仲介業者への仲介手数料支払い。
領収書への押印。
固定資産税等精算金の確認。
俺は登記費用と必要書類を預かる。
所有権移転登記。
抵当権設定登記。
申請はこのあと法務局で行う。
決済が終わっても、登記はまだ終わっていない。
最後に、俺が売主へ確認する。
「それでは、鍵のお引渡しよろしいでしょうか」
売主の夫が、小さく頷く。
鞄から鍵束を取り出した。
玄関鍵。
勝手口。
物置。
古いキーホルダーが付いている。
長年使い込まれた金属の擦れる音。
それを仲介業者が確認し、買主へ渡す。
「本日からこちらをお使いください」
買主夫婦が頭を下げる。
「ありがとうございます」
売主の妻は、少しだけ目を赤くしていた。
◇
その時、ふと思った。
売主夫婦と買主夫婦の間に、白い線が見えるような気がした。
もちろん、本当に見えているわけじゃない。
俺に見える線は、血の繋がりだけだ。
だが人は時々、血縁じゃないものまで受け渡していく。
長い時間。
思い出。
生活。
誰かが積み重ねた場所を、別の誰かが引き継ぐ。
家は、ただの箱じゃない。
人の時間が染み込む場所だ。
◇
銀行を出る頃には、外は夕方になっていた。
仲介業者が苦笑する。
「いやー、今日はヒヤヒヤしましたね」
「よくあります」
俺はそう答えた。
本当によくある。
不動産決済は、表面上は静かだ。
だがその裏では、いつも誰かが焦っている。
金。
時間。
感情。
全部を止めずに流し切る。
司法書士の仕事は、書類を書くことじゃない。
人と人の間で、止まりそうな流れを最後まで繋ぐことだ。
夕暮れの街を、人が歩いていく。
その頭上に、今日も白い線が浮かんでいた。
切れない線。
見えないまま繋がっていく線。
人は知らないうちに、誰かの人生を引き継ぎながら生きている。




