第6話 遺産分割協議
遺産分割協議は、午後一時からだった。
事務所の会議室。
六人掛けのテーブル。
湯気の立たない紙コップの茶。
エアコンの音だけが、やけに響いている。
被相続人は、田所 茂雄。
享年八十二。
奈良市内で小さな工務店をやっていた男だった。
相続人は長男、長女、次男の三人。
典型的な案件。
のはずだった。
◇
「では、本日は遺産分割のお話し合いということで」
俺は資料を並べた。
預金。
自宅土地建物。
少しの有価証券。
相続税が問題になるほどではない。
揉める額でもない。
最初は、そう思っていた。
長男が頷く。
「はい」
五十代後半。
スーツ姿。
腕を組み、神経質そうに資料を見ている。
長女は無言。
四角いバッグを膝に置き、ほとんど視線を上げない。
次男だけが落ち着きなく貧乏ゆすりをしていた。
開始から三十分。
話し合いは静かだった。
不自然なくらいに。
◇
「預金については、法定相続割合を基本に……」
俺が説明している途中だった。
次男が鼻で笑う。
「結局、均等ってことやろ」
長男の眉が動く。
「何か問題あるか」
「問題?」
次男が椅子にもたれた。
「兄貴、親父の介護、何もしてへんやん」
空気が変わる。
長女が視線を落とした。
長男は小さく息を吐く。
「またその話か」
「またって何や」
次男の声が強くなる。
「俺と姉ちゃんがどんだけ動いた思ってんねん」
「お前、自分から実家来てただけやろ」
「は?」
「勝手に通って、あとから恩着せがましく言うな」
次男が机を叩いた。
紙コップの茶が揺れる。
◇
こうなる案件は珍しくない。
相続で揉めているように見えて、実際には違う。
争っているのは金じゃない。
感情だ。
しかも何十年も前から積み重なったもの。
「親父が倒れた時、お前何回来た?」
「仕事してたんや」
「俺も仕事してたわ!」
「お前は独身やろ!」
長女が、小さく「やめて」と言った。
だが二人は止まらない。
「施設の契約も俺!」
「病院も俺!」
「葬式も俺!」
「だから金多く寄越せってか!」
「そうは言ってへん!」
「同じやろ!」
怒鳴り声が会議室に響く。
俺は黙って聞いていた。
ここで下手に止めると、余計悪化する。
◇
やがて話は、介護から昔へ遡り始める。
いつもの流れだった。
「昔からそうやったやん」
次男が吐き捨てる。
「兄貴だけ大学行かせてもろて」
「お前が勉強せんかっただけやろ」
「は?」
「親父はずっとお前に甘かった」
長男も感情的になり始める。
「車の金も出してもろてたやんけ」
「それは親父が!」
「借金返したん誰や思ってんねん!」
長女が突然泣き出した。
「もうやめて……」
だが止まらない。
「姉ちゃんばっか家のこと押し付けられてたやろ!」
「お前は逃げただけや!」
「兄貴こそ一番逃げてたやんけ!」
机を叩く音。
椅子が鳴る。
一瞬、次男が立ち上がった。
長男も立つ。
殴り合い寸前だった。
◇
「座ってください」
俺は低い声で言った。
二人がこちらを見る。
「今日は喧嘩をする場ではありません」
次男が舌打ちする。
「先生は関係ないから、わからんでしょうけど」
「ええ、わかりません」
俺は静かに答えた。
「ですが、遺産分割協議は、皆さんが合意しない限り終わりません」
沈黙。
「今ここで感情的になっても、手続きは止まるだけです」
長男が椅子へ座る。
次男も乱暴に腰を下ろした。
◇
白い線が見えていた。
三人の頭上。
同じ両親から伸びる線。
幼い頃は、もっと近かったはずだ。
一緒に飯を食って。
一緒にテレビを見て。
一緒に育った兄弟。
だが時間は、人を別々の人生へ運ぶ。
結婚。
仕事。
金。
介護。
嫉妬。
我慢。
言えなかった言葉。
積もった感情が、親の死をきっかけに噴き出す。
相続は、時々おかしい。
亡くなった人間より、生きている人間の感情の方が重い。
◇
結局、その日の協議はまとまらなかった。
「今日は一旦、持ち帰りましょう」
俺がそう言うと、三人とも疲れ切った顔をしていた。
長女は目を赤くしている。
次男は無言。
長男だけが、最後に小さく頭を下げた。
「先生、すみませんでした」
「いえ」
謝る案件でもない。
よくあることだった。
◇
三人が帰ったあと、静かになった会議室で俺は一人資料を片付ける。
机には、まだ茶の染みが残っていた。
遺産争い。
世間はそう呼ぶ。
だが実際には違う。
あれは人生の清算だ。
親に愛されたかった記憶。
認められたかった感情。
許せなかった過去。
全部が最後に噴き出す。
法律は財産を分けることはできる。
だが感情までは分けられない。
俺は窓の外を見る。
夕暮れの街を、人が歩いている。
その頭上にも、今日も白い線が浮かんでいた。
繋がったまま。
切れないまま。
まるで、人は最後まで家族から逃げられないみたいに。




