表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/9

第6話 遺産分割協議

 遺産分割協議は、午後一時からだった。


 事務所の会議室。


 六人掛けのテーブル。


 湯気の立たない紙コップの茶。


 エアコンの音だけが、やけに響いている。


 被相続人は、田所 茂雄。


 享年八十二。


 奈良市内で小さな工務店をやっていた男だった。


 相続人は長男、長女、次男の三人。


 典型的な案件。


 のはずだった。


     ◇


「では、本日は遺産分割のお話し合いということで」


 俺は資料を並べた。


 預金。


 自宅土地建物。


 少しの有価証券。


 相続税が問題になるほどではない。


 揉める額でもない。


 最初は、そう思っていた。


 長男が頷く。


「はい」


 五十代後半。


 スーツ姿。


 腕を組み、神経質そうに資料を見ている。


 長女は無言。


 四角いバッグを膝に置き、ほとんど視線を上げない。


 次男だけが落ち着きなく貧乏ゆすりをしていた。


 開始から三十分。


 話し合いは静かだった。


 不自然なくらいに。


     ◇


「預金については、法定相続割合を基本に……」


 俺が説明している途中だった。


 次男が鼻で笑う。


「結局、均等ってことやろ」


 長男の眉が動く。


「何か問題あるか」


「問題?」


 次男が椅子にもたれた。


「兄貴、親父の介護、何もしてへんやん」


 空気が変わる。


 長女が視線を落とした。


 長男は小さく息を吐く。


「またその話か」


「またって何や」


 次男の声が強くなる。


「俺と姉ちゃんがどんだけ動いた思ってんねん」


「お前、自分から実家来てただけやろ」


「は?」


「勝手に通って、あとから恩着せがましく言うな」


 次男が机を叩いた。


 紙コップの茶が揺れる。


     ◇


 こうなる案件は珍しくない。


 相続で揉めているように見えて、実際には違う。


 争っているのは金じゃない。


 感情だ。


 しかも何十年も前から積み重なったもの。


「親父が倒れた時、お前何回来た?」


「仕事してたんや」


「俺も仕事してたわ!」


「お前は独身やろ!」


 長女が、小さく「やめて」と言った。


 だが二人は止まらない。


「施設の契約も俺!」


「病院も俺!」


「葬式も俺!」


「だから金多く寄越せってか!」


「そうは言ってへん!」


「同じやろ!」


 怒鳴り声が会議室に響く。


 俺は黙って聞いていた。


 ここで下手に止めると、余計悪化する。


     ◇


 やがて話は、介護から昔へ遡り始める。


 いつもの流れだった。


「昔からそうやったやん」


 次男が吐き捨てる。


「兄貴だけ大学行かせてもろて」


「お前が勉強せんかっただけやろ」


「は?」


「親父はずっとお前に甘かった」


 長男も感情的になり始める。


「車の金も出してもろてたやんけ」


「それは親父が!」


「借金返したん誰や思ってんねん!」


 長女が突然泣き出した。


「もうやめて……」


 だが止まらない。


「姉ちゃんばっか家のこと押し付けられてたやろ!」


「お前は逃げただけや!」


「兄貴こそ一番逃げてたやんけ!」


 机を叩く音。


 椅子が鳴る。


 一瞬、次男が立ち上がった。


 長男も立つ。


 殴り合い寸前だった。


     ◇


「座ってください」


 俺は低い声で言った。


 二人がこちらを見る。


「今日は喧嘩をする場ではありません」


 次男が舌打ちする。


「先生は関係ないから、わからんでしょうけど」


「ええ、わかりません」


 俺は静かに答えた。


「ですが、遺産分割協議は、皆さんが合意しない限り終わりません」


 沈黙。


「今ここで感情的になっても、手続きは止まるだけです」


 長男が椅子へ座る。


 次男も乱暴に腰を下ろした。


     ◇


 白い線が見えていた。


 三人の頭上。


 同じ両親から伸びる線。


 幼い頃は、もっと近かったはずだ。


 一緒に飯を食って。


 一緒にテレビを見て。


 一緒に育った兄弟。


 だが時間は、人を別々の人生へ運ぶ。


 結婚。


 仕事。


 金。


 介護。


 嫉妬。


 我慢。


 言えなかった言葉。


 積もった感情が、親の死をきっかけに噴き出す。


 相続は、時々おかしい。


 亡くなった人間より、生きている人間の感情の方が重い。


     ◇


 結局、その日の協議はまとまらなかった。


「今日は一旦、持ち帰りましょう」


 俺がそう言うと、三人とも疲れ切った顔をしていた。


 長女は目を赤くしている。


 次男は無言。


 長男だけが、最後に小さく頭を下げた。


「先生、すみませんでした」


「いえ」


 謝る案件でもない。


 よくあることだった。


     ◇


 三人が帰ったあと、静かになった会議室で俺は一人資料を片付ける。


 机には、まだ茶の染みが残っていた。


 遺産争い。


 世間はそう呼ぶ。


 だが実際には違う。


 あれは人生の清算だ。


 親に愛されたかった記憶。


 認められたかった感情。


 許せなかった過去。


 全部が最後に噴き出す。


 法律は財産を分けることはできる。


 だが感情までは分けられない。


 俺は窓の外を見る。


 夕暮れの街を、人が歩いている。


 その頭上にも、今日も白い線が浮かんでいた。


 繋がったまま。


 切れないまま。


 まるで、人は最後まで家族から逃げられないみたいに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ