第2章 30.再会
「――〈旋風〉」!」
瞬間ヒロトの拳から風の刃が放たれ、アスタの身体が腰の辺りから両断された。硬い肋骨をものともせず、背骨が断ち切られた。だが胴体が真っ二つにされたその傷からは、相も変わらず一滴の血も流れてこない。
下半身と別れた胴体は力なく地に落ちる。虚ろに開いた瞳は天を見つめたまま閉じることは無く、唇は砂に塗れている。
生気のない、死人のような顔だった。
「まだ、油断は……ぁぇ?」
仰向けに倒れたアスタの胸元に脚を置き、ヒロトはアスタの首元へと手を伸ばそうと屈んだその刹那、ヒロトの視界が真っ赤に染まる。
何が起きたのか分からず反射的に顔へ手をやると、ポタポタと垂れてくる血がそこにあった。
それを認識した途端、ヒロトは強烈な頭痛に襲われる。立っていられないほどの激痛に、力なく前のめりに倒れこんだ。
「これは……『魔力眼』の……」
何度も味わった反動、それがいまヒロトを襲っている。
だが、
「まだ時間はある筈、なのに」
ヒロトの把握している反動の制限時間は約10分。対して現在は精々7分ほどしか運用していない。『魔力眼』の反動までにはまだ充分時間はあった。ある筈だった。
「それは、お前が万全の時の話だろう?」
耳のすぐ近くで、声が聞こえた。聞きなれた声、それを耳が受け取ったと同時に、アスタの身体がゆっくりと起き上がる。
ヒロトの頬がゆっくりと地に落ち、擦り切れる。
「身に余る力を与えられ、それを行使した代償だ。むしろその程度で済んでいることを誇るといい」
「―――ぁ、で」
「不思議そうだな。まぁ無理もないか、こんな身体だしな」
身体が動かせない。口も指も、髪の毛一本すらも持ち上げられるほどの力は残っていなかった。
吐き気と頭痛、目や鼻からは血が流れ出している。
身体に張り付いた砂を振り払いながらアスタはヒロトへと目線をやる。その顔に悪戯好きな子供のような笑みを浮かべ、ゆっくりと立・ち・上・が・っ・た・。両断された筈の胴体が歪に下半身とつながっていた。
「む、やはり厳しいか。少し不格好だが……まぁいいか」
接着面が斜めにズレたいびつな立ち姿。バランスの悪さに苦言を呈している、その様子が本人以外から見てアンバランスで気味が悪かった。
「いやぁ、久しぶりだ。本当に、本当に久しい感覚だ。――そうだ、最期にいいものを見せてやろう」
胸元へと手を突っ込む。次にアスタの掌が空気に触れた時、その手の中にはピンク色の球状の肉塊――心臓が握られていた。
ただぬらぬらと粘液で表面を覆い、光をわずかに反射したソレはもはや脈打つことすらなくただそこにあった。
「どうだ? 面白かろう。」
心臓を抜き取ったにも拘らず、アスタは苦痛に顔を歪ませるのではなく、むしろ笑ってすらいる。
そこにヒロトは人生で最大級の恐ろしさを感じた。
腕を切り落とした時も、〈旋風〉で胴体を切り裂いた時もアスタはその苦痛を表情には出さなかった。だが、ソレはそんな次元のものでは無かった。
生命を、自身の根幹を捨て去ることに何の感情も抱いていないその様子に、ヒロトはようやく目の前の存在が人の、生物の理から外れたナニかであることに気が付いた。
「……面白くはないか? ……そうか、まぁいい」
少ししょんぼりとした表情を浮かべたアスタは手にあった心臓をゴミのように払い捨て、倒れたヒロトへと近づいてくる。
恐怖のあまり、うまく息が吸えない。
酸欠を認識した脳が必死に肺を膨らませようとするものの、その努力が実を結ぶことは無かった。
徐々に視界が欠けていく。
視界の端にできた闇が正常な部分を蝕み、遂に光が失われた。
最初に視覚が失われ、次に嗅覚が、味覚が、触覚が失われ、残ったのはわずかな聴覚のみ。
「さて、――の処遇だ―――――――しま――は、少―惜――な。――いや、お前――せばクロ―――見――――能性も」
ノイズが走るように、アスタの言葉が途切れ途切れに鼓膜を震わせる。
だがその言葉の内容を理解できるほどの脳の容量は、ヒロトには既にない。
闇の中で浮かんでいたのはたった一つの事。
「――ま……き……」
ポツリと、漏れるように出た言葉。
そこには何の意思も載っていない、ただの音の羅列だった。
だが、
「よく、俺が来るまで耐えた。――あとは任せておけ」
ヒロトの言葉に呼応するように揺蕩う闇の中に、一筋の光が現れる。
薄れゆく聴覚で拾ったその言葉の意味は理解できなかったものの、その光は温かく心地よかった。
◆
『宏人には、私がいるからね』
懐かしい声が聞こえる。心の奥底にしまっていた、大事な言葉。それが冷たく、暗い闇の中で繰り返し、繰り返し心を震わせる。
『たとえ誰も宏人を見なくなっても、私だけは見ていてあげるから』
その言葉が聞こえるたびに、血が流れ込む感覚が全身を駆け巡る。体の奥底から熱が沸き、眠っていた意識が徐々に覚醒していく。底に沈んでいたはずの意識が、酸素を求めるように水面という名の現実へと昇っていく。
『だから、だから宏人も……私を見ていてね』
辺りは先の見えない闇一色。だが次第に光が差し込み、色が戻っていく。
そうしてヒロトが目を覚ました時、真っ先に目に入ったのは暗い色をした木組みの天井だった。
「……知らない天井だ」
そんな軽口がぽつりと口から漏れ出す。
目覚めてから初めに感じたのは、尋常ではない身体の重みだった。疲労やストレスからくる重さとはまた違った、異常な感覚。ゆっくりと上体を持ち上げようとするも、うまく力が入らず体が動かない。
仕方なく目だけで周囲の様子を伺うことにした。
お世辞にも綺麗とは言えない部屋だった。窓から差し込む陽の光に照らされて、空を舞う埃がキラキラと輝いていた。
ヒロトの横にはいくつかの寝台が置かれており、その全てに誰かが横たわっている。
「どこだ、ここ……?」
ヒロトが持っている最後の記憶は、マルクスに魔術を教わっていた所だった。それから今この場所に至るまでの記憶が綺麗さっぱり抜けている。
ヒロト自身は呑んだことはないが、記憶をなくすほど酒を呑んだ翌日のような気分だった。
動かない身体、見知らぬ部屋、自身以外にも寝台に横たわる誰か。何も起きていない、と思える人間は相当な楽観的思考の持ち主であろう。
「なんで、こうなッ――!?」
再度、情報を集めるために周囲へと視線をやったヒロトはそこで、漸く自身の身体に襲いかかっている異変に気がついた。
――腕が、無い。
正確には左腕の膝から先が無かった。そこにあるはずの、あったはずの、なくてはならないはずのものが無かった。
あまりの情報の大きさに一瞬、思考が止まる。身体は硬直し、呼吸は止まり、体温が急激に下がる。だが脂汗だけは途絶える事はなく、むしろ溢れてくる。
「ア、ェ……」
そこで漸く、ヒロトはここに至るまでの過程を思い出した。
崩れる城壁、魔力を持たない人間ではない何か。自身に襲い掛かってきた災害のような不幸を。
そして身体に感じる重さの正体についてもここで見当がつく。血か魔力かそれともその両方か、少なくとも命に関わるナニかを大量に喪ったことが原因だろう。
「ま、マルクスは」
「おう、ようやくお目覚めか」
その存在へと思い至った瞬間扉が開かれた音と共に、マルクスがその奥から現れた。
軋む床を踏みしめ、軽い音を鳴らしながらマルクスは近づいてくる。視界の中に映りこんだ彼の手には大量の果物が抱え込まれていた。その中のリンゴに似た果実を齧りながら、枕元に置かれてあった椅子に座りこむ。
「……俺は、どれくらい寝てた」
「えぇ? そうだな、一週間くらいかな」
「そうか」
「ま、それくらいで済んで良かったよ。最悪、このまま起きないかもなんて思ってたから」
「それは、たしかに」
マルクスの言うとおりだった。最悪、アスタとの戦いで命を落としていた可能性だってあった。そうなればマキの事も何も果たせず終わることになっていただろう。そう考えればあの時応戦を選んだのは悪手だった、かもしれない。
だが、
「ま、今俺がこうして生きてられるのも、あのアスタって奴を退けられたからだ。あの場でとんずらここうとしてたら今ここにはいない、それは断言できるぜ。――よく二人そろって生きてられたよ」
「そうだな。――ッて、マルクスお前今なんて!!」
そういえば、いまだ解けていない重大な謎があった。あの時、ヒロトは意識を失っていた。だから、どうやってあの場から生き延びたのか、その理由を今のヒロトは知らない。
お世辞にも、あの状況をマルクス一人で乗り切れるとは思えなかった。
「――ああ! そうだった!!」
何かに気が付いたようにマルクスは急に大声を出し、背負っていた荷物入れを漁り始めた。
ガサゴソとやること五分後、マルクスはようやくお目当てのものを探り当てたのか喜色の混じった声を上げ、なにかをヒロトが見えるようにかざしてくれる。
「これは……」
「渡してくれって、お前の魔力じゃないと動かないらしい」
その手にあったのは、懐中時計によく似たものだった。少しの汚れはあるものの、古臭い印象はない。むしろ未来的なものを感じるデザインだった。
それをマルクスは動けないヒロトの手に乗せた。身体は動かせないが、体内を巡る魔力の波動は感じる。多少無理をすれば魔力を操ることくらいはできるだろう。
手の中にある冷たい物質に魔力を注ぐ。直後に呼応するように手の中で小さく震え始めた。不規則な、法則の無い振動ではなく、一定の法則性のある震え方だった。それはまるで、
「携帯みたいだな……」
「―にこれ? ――って向こ――も見えてるの?」
「――ッ」
懐かしい、声が聞こえた。
「お、おいおい無理すんなよ……」
その声を聴いた瞬間、ヒロトは右腕を動かし懐中時計を顔の前へと持ち上げる。固まっていた身体を動かしたことで筋肉が痛む。だがそんな事がどうでもよくなるほど、ヒロトはその声に衝撃を受けた。
視界に入るように持ち上げられたそれは先程までとは異なり、淡い光をまとっていた。
そして、それが気にならないほどの変化が懐中時計にはあった。
「……マキ」
「あ、ヒロト!! 久しぶり!」
その懐中時計に映っていたのは、約半年ぶりに見た幼馴染の顔だった。




