第2章 24.気絶
マルクスの指示通り、ヒロトは宙へと飛び上がる。重力に抗い浮かんだ身体は、数瞬地面と別れを告げる。
正直ヒロトには何も見えなかった。ただそれでもマルクスの言葉を信じ、ほとんど脊髄反射で飛んでいた。
それで良かったのかは分からない。ただ地面へとゆっくりと落ちていく視界の中で、嬉しそうに手を上げるマルクスと驚きの表情を顔面に貼り付けるアスタを見て、ヒロトは作戦が上手くいったのだと確信する。
跳ぶ直前まで走っていたからか、身体は真上へと浮かんではいなかった。真上よりもやや前方に投げ出された身体は、左肩から地面へと激突する。
走る鈍い痛み。それを感じながらヒロトは転がり、勢いを殺す間もなく走り出す。
「いいだろう、面白くなってきた。俺の名はアスタ。多少、本気を出してやろう」
ヒロトが飛び上がった理由を理解したのか、はたまた別の理由かアスタは高らかに笑いながら叫ぶ。
初めて見た時から不気味さを感じていたヒロトは、嗤うアスタを見て初めてそこに生命を感じた。今までは組み込まれていた命令にただ従うだけだったロボットが、初めて自分の意思で動き始めた、そんな感じがした。
「ヒロト!油断すんなよ!次は右行ってそんまま跳べ!」
だだっ広い平地でこの場に三人しかいないからだろうか、マルクスの声がいつも以上にはっきりと聞こえる気がする。
マルクスの指示通り、ヒロトは大きく右へ逸れそのまま前方へと跳躍する。左耳のすぐ隣を通過していく風切り音と、後方へと大きく吹き飛んでいく蹴り上げた土。それらを意識の片隅に押しのけヒロトはアスタへと迫っていた。
一気に距離が縮まりそのままでは危険と考えたのであろうアスタは、一歩一歩ヒロトの歩む速度と同じ速さで距離を離す。時折放たれるアスタの攻撃。目には見えないその攻撃を、ヒロトはマルクスの指示通りに動き避けていく。
そこには一切の疑念もない。マルクスの指示を信じ、忠実に走る犬のように。
「このままではいずれ追い付かれる、か」
静寂の中、アスタがポツリと呟いた。
小さな、まずヒロトの元には聞こえないであろう声量。だがその呟きははっきりとヒロトの鼓膜を刺激した。
「ヒロト!そのまましゃが——」
繰り出されるはずだったマルクスの指示。だがそれは最後まで続く事はなく、唐突に打ち切られる。
後方で何が起こったのか、ヒロトには分からなかった。ただヒロトはマルクスが伝えようとした指示通り、膝を曲げ身体を地面へと近づける。
頭上を髪を撫でながら過ぎ去る一陣の風。それを確認した後、ヒロトはマルクスへと振り返る。
そしてすぐさま、マルクスの指示が途切れた原因を理解した。
「くそっ!何でだ!?何で俺に攻撃が!?……脚が、動き辛え!」
マルクスは負傷した足を引き摺りながら、懸命に見えない何かから逃れようとしていた。
負傷を免れた右脚と両腕を使い、左右へ身体を踊らせるマルクスの様子は、側から見るとなんとも間抜けである。しかしヒロトはそこに不可視の必殺の一撃が紛れていることを知っている。
どうやらヒロトがアスタの攻撃を避けていた原因がバレていたらしい、そうヒロトは考えた。
当然バレるとは考えていた。マルクスは指示を出し、ヒロトがそれに従う。必然的にマルクスの声はヒロトだけでなく、アスタにも伝わる。バレない訳がなかった。
だが作戦がバレる前に、もう少しヒロトがアスタに近づいていなければならなかった。後衛のマルクスに構う暇もない程アスタに接近できていれば良かったのだ。そのバレるまでの一瞬だけ相手の裏をかければ。
だが結果としてヒロトは未だ充分にアスタへと迫れてはいない。近づけば遠ざかれる、イタチごっこの状態だった。
「くっ、ヒロト!跳んで左行ってしゃがめ!」
まだマルクスの指示は飛んできている。だがそれは今だけだ。ヒロトがアスタに近づいているから、一瞬アスタの意識がヒロトへ向き、その瞬間マルクスへの攻撃が一手止まっているからにすぎない。
当然ヒロトが指示通り攻撃を避ければ数歩、アスタとの距離が開くことになる。ヒロトにはアスタの攻撃が見えていない。たとえ指示があったとしても、その攻撃のギリギリを攻めて最短距離で詰める事はできないのである。
「もう、『魔力眼』を使うしかないのか?」
『魔力眼』を使えばヒロトはマルクスの指示なくアスタの攻撃を避ける事が出来るはずだ。不可視の魔力を可視化することで、問題なく。だが『魔力眼』は絶対に最後まで取っておきたい奥の手である。そのカードを今この場で切ることができるのか。ヒロトは呟きながら思案する。
だがその思考はすぐに結論をはじき出した。
「もうなりふり構ってられない、か。……マルクス!今からお前は自分のことに集中しろぉ!」
一か八かだった。重たいデメリットを考慮してでも、今『魔力眼』を使わなければマルクスがやられる。そうなれば指示を受けられないヒロトは『魔力眼』を使わざるを得ない。
今使ってマルクスを助けるか、マルクスがやられるのを待って使うかの違いがそこにはある。それは『魔力眼』の使用を躊躇する理由には重すぎた。
身体中を巡る魔力。それを右眼へと集める。普段から行なっている〈身体強化〉の応用である。
右目の視界が徐々に色褪せ、世界から色が消え始める。紅く輝く不可視の力、ただそれだけを除いて。
そうして褪せた視界でヒロトは改めてアスタと向き合う。
「——はぁ?」
息が、漏れた。
褪せた視界の中、ヒロトは自身の『魔力眼』に映る光景に理解が追いつかなかった。
何故ならそこには何の輝きもなかったのだ。普通なら見えるはずの不可視の輝き、それがアスタには無かった。
その衝撃がヒロトの思考を止める。そして気がついた時には、
——ヒロトの左腕が宙を舞っていた。
ただ自身の腕が宙を舞っているという事実をヒロトは認識するだけだった。いや、認識という言葉はあまり適切ではないかもしれない。その事実をヒロトの脳は正しく判断できていなかったのだから。
やけにゆっくりと落ちていく左腕と、断面から飛び散る赤い鮮血。遅れてやってくる左腕への軽い衝撃。それらを見ても尚、ヒロトは何も感じなかった。
身体も動かなければ声も出ない。ただ息だけが漏れていた。
飛び散った血がヒロトの顔へ付着する。生暖かく生命を感じさせる温度と、それが血であると激しく主張する鉄臭い匂い。
それらを実感して初めてヒロトの脳は正しく動き始めた。
「ぐ、ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
前腕の辺りで切断されたヒロトの左腕。焼けているのか、殴られているのか、刺されているのかわからない痛みがヒロトの脳を襲い出す。
断面からは白くて硬い骨が数本、ピンク色で艶めいている筋肉と飛び出た血管、白く陶器のような色をした神経が顔をのぞかせている。
蛇口を捻った水道のように断面から血液が流れ出てくる。ボタボタと溢れる血液を何とか止めようと手で蓋をしようとするが、そんなもので止まるほどの量でもない。
必死にヒロトは腰に巻いていたベルトを抜くと、それを肘の辺りで固く締め上げる。圧迫感と血管が閉まる感覚。それらを感じながら尚ヒロトは締め上げる。
やがてヒロトの血液は漏れ出すことを止めた。血が止まり左腕の血色が悪くなる。だがそれでもこれ以上生命が溢れる事は無くなった。
「ハァ、ハァ……」
もはや何も考えられなくなっていた。左腕の激痛と血が無くなった影響で脳がうまく働けていなかった。
ただ一つ、そんなヒロトの脳に違和感が残っていた。
ヒロトの左腕を切断したのはアスタの攻撃で間違いない。だがヒロトにはその攻撃の軌跡が見えなかった。『魔力眼』に映らなかった。
それは今までの不可視の攻撃とはレベルが違っている。アスタの攻撃が『風』魔術であるという前提がそもそも覆ってしまうのだ。
ならばどのようにアスタは攻撃しているのか、そんな疑問が改めてヒロトに降りかかる。
「——ぃまは、これを、まぅくすに……」
伝えなければ。
足を必死に動かそうとする。遠く離れたマルクスへとその足を動かそうと。だが動かない。力が入らない。足がもつれ、その場に倒れ込む。
ヒロトを見て、マルクスの顔は驚愕の表情へと移り変わる。こちらへと伸ばされる腕。それを見てヒロトは手を伸ばす。しかし届かない。短くなった左腕が空を切る。
薄れゆく意識の中、最後に目に入ったのは切断された自身の左腕だった。




