第四章 帰還
久しぶりの学校。と言っても五日サボっただけなんだけどな。
今までは真面目に通学していたこともあり、教師には両親の看病をしていたという口実のもとに大目に見てもらった。
放課後、俺は体育館に立ち寄る。
所属しているボクシング部に顔を出しておきたかったし、魔界での修行の成果を試してみたいという思いもあったからだ。
「お前、前から左構え(サウスポー)だったっけ?」
俺のシャドーボクシングを見ていた友人が聞いてくる。
「いや、最近変えた。心境の変化ってやつさ」
俺がシャドーを終えるのを見て後輩達もぞろぞろと集まってくる。
「ひゃー、先輩の右がジャブで飛んでくるとか想像もしたくないっすね」
確かに今までストレートで繰り出していた右をジャブとして連打できるのは利点だな。単純に魔力を込めることができる左手を無理やり利き手に変えただけなんだが。
「スイッチか、面白そうだな。俺もやってみようかな」
「やめとけ、輝は特別なんだ。なんせ並外れた運動神経と爆弾級の破壊力を併せ持った我が校が誇る伝説の怪物だからな」
人のことを化物みたいにいうな。
「そういえば、前に言ってた先輩のリングネームを今考えませんか?」
「じゃあ、こいつと試合組みが決まった選手は全員逃げるから不戦勝王子なんてどうだ」
そんな不名誉な称号いるかよ。
「先輩はなんか自分で考えてたりしないんですか?」
突然だな。リングネームな、特に意識したりはしないんだが。強いて決めるなら。
「……ハエ男?」
その場にいた全員が笑い出した。
「なんだそれ、めちゃくちゃ弱そうじゃんかよ」
「じゃあこんなんはどうですか、化物みたいに強いハエで“ドラゴンフライ”ってのは」
それはトンボだろうが。
「いや、やっぱ俺そういうのいいわ。それよか誰かスパーの相手してくれ」
「いいぜ。相手してやるよ。付け焼刃のサウスポーで俺に勝てると思うなよ?」
ガララッ!
「おーう、お前ら、やってるかー」
突然のダミ声。萎縮する後輩達。
声の主は安達耕助。俺の一個上の先輩で現在大学一年生。
アマチュアボクシング界期待の星なんて呼ばれている。腕は確かだが性格は悪い。
「安達先輩、どうしたんですか突然」
「ナハハ! 記者の人たちが俺のことを取材したいそうだ。だから練習試合をしにきた」
品のない高笑い。この人は昔から変わらんな。
「俺の相手は輝、お前でいいぞ。じゃあ記者さん達、俺は準備をしてきますんで」
俺をご指名か。……ということはこの人の勝ちは確定だな。
安達先輩が柱の影から手招きをしているのが見えた。
俺は黙って先輩のそばに歩み寄る。
「いつも通り頼むな。どうせ道楽のボクシングでプライドなんてないんだろ?」
「そっすね」
まあなんだ。一言で言うと八百長だ。昔一度引き受けたらそれがこの人の癖になった。
俺は別にこれでいい。今までもそうだったし、勝ちに拘る理由もない。そして何よりも面倒だ。
「おっ、おい、あれみろよ」
「ああ、すげえ美人だ」
入口で野郎どもが盛大に騒いでいる。何事だろうか。
ざわめきの声が近づいてくる。誰か来たのか? どれ、俺も覗いてみるか。
人垣を掻き分け、騒ぎの中心となっている人物を確認するために目を凝らす。
「なっ!?」
思わず声が出た。渦中の人物がハエ女だったからだ。
ハエ女が手を後ろで組みながら嬉しそうに歩いてくるのが見える。
何かの間違いだ。この場所がわかるわけがない。他人のフリだ。
通り過ぎろ。それか別人であってくれ。
コツコツコツ……。
ハエ女は俺の目の前まで歩いてくるとピタリと足を止め、明るい声で、
「迎えに来たよー」
と満面の笑顔で言い放った。……最悪だ。
「なんでここに来た」
「たまたま近くを歩いていたら、あなたの気配を感じたの。さ、帰ろ?」
悪意を微塵も感じないのが逆に憎たらしい。既に野郎どもは好奇の、いや殺意のこもった目で俺のことをみている。この状況じゃ言い逃れできんな。普通に接するか。
「俺、これから試合」
「誰かと戦うの?」
「そうだ」
「みていてもいい?」
「別に構わないが、俺は負けるぞ?」
「相手の人、強いの?」
「いや、弱い」
今の俺に比べるとだけどな。人間基準で考えれば先輩は十分に強いレベルだ。
「じゃあ、勝ってよ」
「どうして」
「あなたが負けるとこ、みたくないの。だから……勝って?」
「……任せろ」
しまった、いつぞやの条件反射でつい……。
「おい、始めるぞ。早くリングにあがれ」
どうしようか。まいったな。
「後頭部への攻撃は禁止、バッティング(頭突き)も気をつけて。それでは手を合わせて」
審判の言うとおりに先輩とグローブを合わせる。
カァァアアアン!
試合開始のゴングが鳴った。
任せろって言っちまった。グローブは練習用の十六オンスだ。怪我はしない。
しかたない。
――やるか。
先輩が軽い足取りで円を描くように俺の周りを回る。先輩のファイトスタイルは足を使い、遠距離から確実に攻撃を当て、相手と距離を取り攻撃を躱す。ヒット・アンド・アウェイが基本のアウトボクシングスタイル。
だが遅い、遅すぎる。稲妻女の速さの億兆分の一もない。
右から拳がくる。次は左のショートアッパー。先輩の動きが手に取るようにわかる。
先輩の乱打を次々と躱す。間違いない、筋書き通りに進まない展開に先輩は苛立っている。段々と動きが雑に、振りが大振りになってきている。
攻めるなら今だ。一撃で終わらせる。
俺は先輩の拳の弾幕を掻い潜り、力を抑えた左ストレートを打ち込む。
バシィィィイイイインッ!!
体育館に響き渡る衝撃音。
ヘッドギアが宙を舞い、先輩は口からマウスピースを飛ばしてリングに膝をついた。
「――ガッ!? てめ……やくそ…………く」
先輩は力なく倒れこみ、そのまま動かなくなった。
レフェリーが先輩のそばに近寄り、顔を覗き込むと腕を大きく交差させる。
「TKO。勝者、黒城輝!」
どよめく室内。唖然としている記者達。そして俺に微笑むハエ女。
記者達が俺に駆け寄ってくる。俺は面倒事を避けるために先輩を抱え上げ、その場を離れた。
――医務室。
ただの失神だとは思うが念には念ってやつだ。
しばらくすると先輩がベッドの上で目を覚ました。
「おっ、お前、どうして勝った……天才の道楽だろ? プライドもないんだろうが」
開口一番に言うことがそれかよ。よほど勝ちたかったんだな。
確かに、少し前の俺にはプライドなんてなかった。だが今は違う。
「すみません。今の俺には誇り(プライド)があるんで」
俺は何のために魔界で修行をした。救うためだ。何のために力を欲した。守るためだ。
俺は大切な家族や仲間を守るためなら戦うことを厭わない。大切な人を傷つけさせない。その想いこそが俺の誇り(プライド)だ。皮肉にも先輩がそれを気づかせてくれた。だから俺はもう負けられない。
「なっ、何を……プライドなんか捨てちまえ! 俺を勝たせろ……勝たせろよぉ……」
「それはできませんよ」
「どうしてだ、どうして……」
「男が一度手に入れたプライドを捨てちまったら、一体何に縋って生きればいいんです」
憎まれてもいい。妙な確執を生むくらいならキッパリと切って捨てたほうがマシだ。
「貴様、覚えておけよ……必ず貴様を叩き潰してやるからな……」
「すんません。物事覚えるの苦手なもんで」
結局先輩を倒して残ったものは、拳にまとわりつくような嫌悪感と拭いきれない罪悪感だった。
だが後悔はない。俺は戦うことを選んだんだ。
俺は先輩に深々と頭を下げ、体育館へと戻った。
俺の姿を確認したハエ女がそばに寄ってくる。
「勝ったぞ」
「うん。かっこよかったよ」
「……うるせぇ」
まあ、この瞬間は悪くないな。
「シャワー浴びてくるから外で待ってろ」
「うん」
ハエ女が出て行くと、野郎共がニヤニヤしながら集まってくる。
「なあ、あの美人な子、お前の何?」
「別に、ただの居候」
「じゃあ、恋人とかではないんだな?」
「そうだな」
どこをどう見たら俺とハエ女が恋人同士に見えるんだ。
「じゃあ俺たちが彼女をナンパしてもお前は何も文句はいわないんだな」
「しつけーな、好きにしろよ」
こいつら食いつきすぎだろ。さすがにめんどくさくなってきた。
「俺は一目みただけで心奪われた。白磁のような肌、美しい白銀色の長髪、そしてあの甘い匂い……彼女こそ天使だ」
残念ながらあいつは悪魔だ。
「ほんと、天使みたいに可愛かったよな。多分一生でもう二度と出会えないような女の子だ。俺はいくぜ、いかなきゃ一生後悔すると思うから」
「おっ、俺も! いますぐいって告白してくる!」
ブチッ。
なんだか知らんがムカついてきた。調子に乗ってる野郎共に天誅をくらわしてやるか。
「……お前らに真実を教えてやる。あれ、俺の女な。既に深い仲でお前らの想像の範疇を超えた行為もしている。手ぇ出したら許さんぞ。以上」
バタン!
シャワー室のドアを叩きつけるようにして締める。
ドアの外で獣の咆哮のようなものが聞こえた気がするが、気のせいだろう。
それにしても美人か。確かに顔は……まぁ、そうだな。胸もそれなりだ。それで、あとはなんだ、家事が完璧で料理も上手い。強いて難点を言うとすれば何考えてるのかわからんくらいか。
もしかしてあいつ、人間界レベルで考えたらとんでもなくいい女なのかもな。
まあ……どうでもいいか。俺には関係の無い話だ。
「お前ら邪魔だ、退け」
シャワー室の扉を開け、転がっていた複数の死体を蹴飛ばして体育館を出る。
外に出るとハエ女がベンチにちょこんと座りながら俺を待っていた。
「待ったか?」
「ううん、そんなに待ってないよ。それより、さっき中から悲鳴が聞こえたけど?」
「気にすんな。恋に敗れた男の魂の叫びだ」
それにしても俺はなんであんなことを言ったんだろうな。何故だか無性に腹が立ったんだが、原因がわからん。
「あのよ、お前が迎えにくるのは嫌じゃない。だがあんま学校にはくるなよな」
「どうして?」
「男子校にお前みたいのがいたら目立つだろ。飢えた奴が多いから絡まれるぞ」
「もしかして心配してくれてるの?」
「うるせぇ、絶対に違うから安心しろ」
「ふふ。ありがとう」
まただ、またクスクスと笑いやがった。
やっぱよくわかんねえよ、こいつ。
「ねえねえねえ」
「どうした」
「今日ね、お散歩していたら面白いものをみつけたの。みたくない?」
「俺の隣にいる存在がハエ女って時点で十分に愉快だよ」
「ふふっ、そうね。でも私なんかより、もっと面白いものよ? いこっ!」
相変わらず動じない女だな。
そのままハエ女は俺の手を取り嬉しそうに歩き出した。
ハエ女に連れてこられた場所は……メイドカフェ……。
「こんな場所、俺は絶対に入らんぞ」
以前テレビで特集をみただけでその日一日、俺の鳥肌が荒ぶり続けていたんだ。生理的に無理なんだろうな。だから絶対に入りたくない。
「いいじゃない。人生経験だと思って、ほら」
ガララッ。
「お帰りなさいませ! ご主人様!!」
やたら甲高い女の声、桃色の空間、フリフリエプロン装備のメイド達。
悪夢のようだ。
「注文、何にする?」
「そうだな、何か頼めるとするならば、俺は今すぐにこの店から出たい」
「だーめ。じゃあ私が適当に決めちゃうね」
ここならまだ地獄のほうが落ち着くよ(魔界体験者談)。
「そいれんとソーダを二つくださいな」
「かしこまりましたご主人様、お嬢様。只今お待ちいたしますっ!」
慣れた様子でハエ女が注文する。しかしなんともまあ、食欲が大減退するような商品名だな。
「テレビで見たメイドカフェと何も変わらんぞ。何が面白いんだよ」
「ん~? うふふ……」
不敵に笑いやがって。
「オマタセイタシマシター」
なんだこの棒読み全開の声は。
「そいれんと……………………失礼します」
メイドが逃げた。
「おい、あれ貧乳か?」
「ふふっ、そうみたいね」
やばい。最高に面白かったぞ。
「くっ……ハハッ。いかん、ツボった。あいつがメイド服とかありえねー」
「ね。彼女はメイド服っていうよりは冥土服だものね」
俺たちが笑っていると、さっき逃げた無愛想なメイドが口をへの字に曲げてまたやってくる。
「これは一体なんの嫌がらせでしょうか、ご主人様方、コロサレタイノデスカ」
「おい、口の聞き方がなってないぞ、殺人メイド」
「ねえねえねえ、この『萌え萌えじゃんけん(時価)』ってなあに? 私、あなたと遊んでみたいのだけど」
「ほれ、ご指名だぞ。俺が見ててやるから『萌え萌えじゃんけん(時価)』やってみ?」
「くっ……劉す……絶対にコロシテヤル……」
俺とハエ女のダブル攻撃にさすがの貧乳女もたじろいでいる。
「アナタがた二人、息があうと本当に質が悪い。……帰れ」
ボソッと帰宅を強要してきたが、残念ながらその気はない。
「おい、ハエ女。他のメイドさん達と遊んでこい」
「え~。……仕方ないわね。メイドさ~ん」
ハエ女が察しのいいやつで助かるよ。いや、それ以前にあいつには俺の考えていることがわかるんだっけか。
「……じゃんけんは勘弁してやるから、そこ座れ」
メイド服を着た貧乳女がむすっとしたまま席に座る。
「これ、バイトか?」
「……そうです」
処刑人の副業がメイドねえ。他に何かなかったのかよ。
「それにしてもあなた、メイドに興味があったのですね。変態ですね」
世に大勢いるメイド好き男性全員に謝れ。
「違う! これはハエ女の趣味だ。第一俺は女性が苦手なんだ、覚えとけ」
まて、話がずれてる。どうもこいつらと会話すると俺のペースは乱されるな。
「話を戻すぞ。お前普段どうやって生活してんだよ。学校は? 家とかはあるのか?」
「一般教養は機関で学びました。普段の生活については貴方に説明する必要はないように思います」
「あの……よ。もし生活に不自由してるなら、ハエ女もいることだし家に……」
俺は何を言っているんだ。この女に同情でもしたのか、こいつには殺されたことはあっても、義理を感じるようなことは一つもないんだぞ。
「必要ありません。私は今の生活に満足していますし、それにこれ以上、余計な感情に触れていたくない。私は罪を祓うだけの存在。人形に心は不要なのです」
人形がそんな悲しそうな顔をするかよ。無理しやがって。
その後、俺たちは『萌え萌えじゃんけん(時価)』を注文、堪能(ハエ女が)し、店を出た。
「彼女のこと、気になるんでしょう?」
「別に」
「ほら、出てきたよ。いってあげれば?」
「うるせぇ、関係ねえだ――」
「……食事を三人分、用意して待ってるね」
ハエ女は俺の唇に人差し指を当て言葉を制し、言いたいことだけいって駆けていった。
ハエ女の命令で仕方なく俺は殺人メイドを尾行することにした。
対象が潜伏していたのは今にも崩れ落ちそうなボロアパート。これで家賃を五千円以上とるようなら詐欺で訴えてやってもいいレベルだ。
本当は絶対に訪ねたくなんかないんだが、ハエ女が作った料理が無駄になるからな。
ドンドンドン。
「たのもー」
バキャッ!
ノックしたら戸がぶち壊れた。さすがボロ。
大丈夫だ、俺の責任じゃない。悪いのは俺の左手だ。
「――なっ? 何をしているのですか!」
そりゃ血相変えて走ってくるよな。
「道場破りならぬ、玄関やぶりだ。まいったか」
意味がわからんよな。俺も多少は動転しているらしい。
「何が『まいったか』ですか、全く」
あれ、案外大人な対応だな。
「怒らねえの?」
「あなたのすることにイチイチ目くじらを立てていたら、心の休まる暇がありません」
調子狂うな。せめて『コロス』くらい言われないとしっくりこないのだが。
――押し倒してみるか。
「……あなた、今何かよからぬことを考えていましたね」
「ああ、そのとおりだ」
「コロシマスヨ」
「それでいいんだよ。邪魔するぜ」
「え? あの……」
汚ねえ部屋。外観のイメージとまるで変わらない。全体的に薄汚れていて、そこかしこに埃やカビがへばりついている。
「お前さ、女だろ? 掃除くらいしろよ。常識ってものがないのかよ」
「人の家の戸をぶち壊し、あまつさえ住居不法侵入するような男が言う台詞とは思えませんね」
その通りだな。ぐうの音もでねえよ。
それにしてもこいつの私服は珍しいな。てっきりずっとセーラー服を着ているものだと……ん?
「お前、ちょっとその上着脱いでみろ」
「嫌です。気でも触れたのですか」
あまりに頑なに拒むもんだから俺は手伝ってやることにした。
「なっ、やめなさい。ちょっ、こらぁ」
貧乳女を剥いてみると予想通り全身傷だらけだった。首元にあった傷を見て嫌な予感はしていたんだが……予想以上だったな。
あと驚いたのが武器の量だ。剥いてる途中で出るわ出るわ、ゴロゴロ武器が出てきた。
ざっと見るだけで鉄扇、鉤爪、手斧、石斧、スタンロッドにスタンガン、警棒、棍棒、手裏剣、クナイ、トンファー、ピック、鎖鎌、バール、ハンマー、チェーンソー……
数えだしたらキリがない。今ので十分の一くらいだ。
「あなた、女性が苦手なのではなかったのですか」
「ん? あぁ、なんだろうな、最近気づいたが、お前は女性として認識できない」
ペッタンコだからか? とにかく自然と接することができる。
「それよかこの武器、どうやってしまってたんだよ……」
「執行機関の最重要機密です。口外するわけにはいきません」
「お前その傷どうしたんだよ」
俺の言葉に顔色一つ変えていない。普通の女の子なら傷を嫌がると思うんだが。
「私は生まれたときから機関に属し、幼少の頃より戦い続けてきました。戦闘で全ての攻撃を防ぐことは不可能であり、やむを得ないことなのです」
だとしたら、その機関ってのはどうしようもないクズの集まりだな。女の子に傷を負わせてまで戦いを続けさせる神経が俺には理解できない。
「体に傷のある女性に幻滅でもしましたか。見るに耐えないなら出て行ってください。……慣れていますから」
まるで俺を拒絶するかのような言葉。こいつは何かを恐れている。
「別に、幻滅なんかしねえよ。傷なら俺だってあるぜ。これは子供の頃、自転車でコケたときのだろ? こっちは気に食わない先輩と喧嘩してできた傷で、こっちは……」
誰にだって傷の一つ二つあるさ。つまり俺が何を言いたいかと言うと『気にすんな』ってことなんだが、伝わってくれたのだろうか。
「……本当に、変わった人ですね」
貧乳女は困ったように微笑んだ。
なんだよ、笑った顔、案外可愛いじゃねえか。
「ひょっとして、お前が武器を体中に仕込んでいるのは他人を寄せ付けないためなのか?」
「あなたには関係のないことでしょう」
いつにもましてレスポンスが早い。図星ってことか。
「やっぱそうなのか。お前なりの防衛本能かなって思ったんだよ。でもな、他人と触れ合うってのもわりと悪くないぜ? 俺はそれを最近痛感してるんだ」
「そんなこと……恋人のいるあなたに言われたくない」
今こいつはなんていった? 恋人って言ったよな? どういうことだよ。
「恋人ってなんだよ」
「……悪魔令嬢」
その単語は確かこいつがハエ女を呼ぶときに使っていた覚えがある。
「デモンレディって……ハエ女のことか? なーに言ってんだ、お前は」
「誰がどう見てもそうでしょう。私の職場に来てまでイチャついていたくせに」
俺はハエ女とイチャついた覚えはないし、これからもイチャつくつもりはない。
「お前、底なしの馬鹿だな。男女でメイドカフェいったら恋人かよ。発想がガキすぎるぜ」
ひょっとするとこいつ、恋愛経験皆無なのか? 俺も人のこといえないがな……。だがこいつよりは男女のなんたるかを理解しているつもりだ。
「むっ、馬鹿とはなんです。ガキとはなんです。言わせておけば好きなように言って」
「あのな、今時男女で映画だ、買い物だにいくのは普通なんだよ。そんなことで、はやし立てるのはガキかオヤジだけだ。あー、例外がいた。お前な」
悪いが俺は口喧嘩が強いぞ。ハエ女と虚言の王以外には負ける気がしない。
「あー、そうですか。では私は私の見解を言わせていただきます」
「おう! 何でも言ってみろ。俺が一瞬で論破してやる」
「あなたはどうか知りませんが、少なくとも悪魔令嬢はあなたのことを好いている」
「何かと思えば……。――なぁっ!?」
言葉が……出ねえ。
「ハエ女が、俺……を?」
「あなた、本気で気づいていなかったのですか!? 可哀想に悪魔令嬢はなんと不憫な……」
待て、どうしてそうなる。頼む、時間と落ち着くためのお香か何かをくれ。
「おっ、お、おい、お前、何をこんそに、きょんな……」
「少し落ち着きなさい、情けない。『根拠に、そんな』と言いたいのでしょう?」
「そういうことだ」
ダメだ。今の俺はダメダメだ。
「それで、根拠でしたね。稚拙な表現になりますが、彼女、あなたと一緒にいるときは常にハートマークを振りまいていますよ。それも他人の目に見えるレベルで」
そんなことがあってたまるか、化物かよ。それになんだ“ハートマーク”って。今時少女漫画でもそんな技法使わんぞ。
「ありえねえよ。お前、罪人と戦いすぎて眼精疲労か何かにでもなってるんじゃねえの」
「それではこれでどうです。彼女、あなたといるときによく笑うでしょう? それかあなたが夢中になっているものに対して嫉妬していたりしませんでしたか?」
確かによく『クスクス』笑ってるよな。俺が夢中、バイク……バイクゥゥ……。
「ないっ、そんなことは全くない!」
「顔を真っ赤にしながら言われても、まったく信憑性がありませんね」
いやまて、ありえん。あいつが俺を好き……なんて。
顔が熱い。体もだ。俺はどうなったんだ、なんだこれは。
「では逆の質問もしましょう。あなたは悪魔令嬢のことをどう思っているのですか」
俺がハエ女を? よく俺をからかう小憎らしい小悪魔……だと思ってる。
「あなたは悪魔令嬢が他人に取られそうになったとき、怒りと不安を感じませんでしたか?」
ない……はずだ。
ダメだ、無言はマズイな。だがさっきから胸が一杯で言葉が出ないんだ。
「……ふぅ。聞くまでもありませんでしたね、私も少々おせっかいが過ぎました。あなたは自分の想いに自分で気がつくべきだ。記憶を消します。忘れなさい」
トン。
貧乳女が俺の額を指で小突いた。
な……んだ。立ってられない。意識が……霞む。
「もう起きてもいいですよ。……あれ、起きませんね。どっ、どうしましょう。ええと、こういう場合の対処は……」
俺の意識はそこで途絶えた。