第11話 予測不能
HF-7高密度核融合実証炉の失敗から二か月後、実験施設では壊れた装置の撤去より先に、十四秒間の記録が何度も再生されていた。
実験そのものは完全な失敗だった。プラズマは安定せず、緊急停止が作動し、主要設備の六割が損傷した。発電量は目標値に遠く及ばず、一兆円近い研究費を費やした結果として見れば、成功と呼べる要素はどこにもない。
しかし十四秒目、プラズマが崩壊する直前の〇・〇七秒間だけ、理論上存在しないはずの安定領域が観測されていた。
「ノイズじゃないの?」
玲奈は実験施設の解析室で、何度目かになる映像を眺めていた。
「最初は全員そう思いました」
主任研究者の相沢孝志が答える。四十代半ばの研究者で、二か月前より疲労の色が濃くなっていたが、目だけは妙に生き生きしていた。
「計測器の故障は?」
「三系統で同時観測しています。磁場センサー、光学計測、プラズマ密度計。全部同じです」
「エデンは?」
『計測誤差のみで説明できる可能性は〇・四%以下です』
天井スピーカーからエデンの声が流れる。
「じゃあ何なの?」
『不明です』
「あなたにも?」
『はい』
玲奈は少し笑った。
「最近その返事が増えたわね」
『観測対象が増えたためです』
「そういう言い方すると格好よく聞こえるわよ」
相沢が端末を操作すると、複雑な数式とシミュレーション結果が表示された。
「一応、仮説はあります」
「聞かせて」
「従来の核融合炉はプラズマを安定して閉じ込め続けることを前提にしています。でもこの現象では、逆に崩壊そのものが一時的な自己安定を作っているように見える」
「崩れたから安定した?」
「矛盾してますよね」
「かなり」
「だから面白いんです」
相沢は笑った。玲奈にはその表情がどこか懐かしく見えた。エデンが研究予算の最適化を始める以前、研究者たちはもっと頻繁にこんな顔をしていた気がする。分からないものを見つけた時、困るより先に喜ぶ顔だった。
「理論成立確率は?」
玲奈が尋ねる。相沢は一瞬黙ってから、エデンを見る。
『現在の仮説が主要現象を正しく説明している確率は三・二%です』
「低いわね」
「十分ですよ」
相沢は即答した。
「三・二%よ?」
「ゼロじゃない」
「昔なら研究費が止まってる」
「だから今やるんです」
社会的挑戦枠から、追加実験費が認められていた。成功率が低いこと自体を理由に打ち切らない。そのために作られた制度だった。
◇
第一回追加実験は失敗した。
相沢たちの仮説では、プラズマ密度を意図的に不均衡にした場合、十四秒目に観測された自己安定領域が再現されるはずだった。しかし実際には三秒で崩壊し、期待していた現象は一度も現れなかった。
「完全に外しましたね」
若い研究員が言った。
「そうだな」
相沢は落ち込む様子もなくデータを見ていた。
「エデン」
『はい』
「原因は?」
『当初仮説の前提条件に誤りがあります。今回のデータから、密度不均衡そのものが安定領域の発生原因である可能性は〇・八%まで低下しました』
「ほぼ否定か」
『はい』
「じゃあ終了?」
『それは私が判断すべきことですか?』
「そうだったな」
相沢が笑った。普通ならここで仮説を捨てる。しかし一人の若い研究員が、崩壊直前のデータを巻き戻していた。
「先生」
「何?」
「これ、変じゃないですか」
画面の端に、ごく小さな温度上昇があった。実験目的とは無関係な領域で、しかも数値としては誤差に近い。
「センサー異常じゃない?」
「確認した?」
「しました。正常です」
エデンが解析する。
『局所的な高エネルギー粒子発生を示している可能性があります』
「今回の仮説と関係ある?」
『直接的な関連性は確認できません』
「じゃあ、なんで出た?」
『不明です』
若い研究員が呟いた。
「それならこっちを調べませんか」
相沢は数秒考えた。
「やろう」
「元の実験は?」
「一回忘れる」
玲奈は横で聞いていて、思わず口を挟んだ。
「そんな簡単に研究目的を変えていいの?」
「社会的挑戦枠ですよ」
相沢が答える。
「目的通りに成功する研究だけやるなら、普通の予算でいいでしょう」
◇
第二回実験も失敗した。
第三回も失敗した。
第四回では装置の一部が焼損した。
しかし第五回、研究チームは高エネルギー粒子の発生条件を意図的に再現することに成功した。そこで別の研究者が、まったく違うことを言い出した。
「これ、閉じ込めなくてもいいんじゃないですか?」
会議室が静かになった。
「何を?」
「プラズマですよ。ずっと保持するから難しいんですよね。瞬間的に作って、反応させて、捨てる。それを高速で繰り返せばいい」
「パルス方式?」
「従来方式とは違います。崩壊時の自己安定領域を利用して、反応の一番おいしい瞬間だけ取り出す」
エデンが即座に計算を始める。
『現在の設備ではエネルギー収支が成立しません』
「今の設備では、でしょう?」
『はい』
「じゃあ、設備を変えたら?」
『条件を指定してください』
「そこを今から考えるんです」
会議室で笑いが起きた。エデンは何も言わなかった。
半年後、研究は当初のHF-7計画とはほとんど別物になっていた。巨大な磁場でプラズマを長時間閉じ込める方式ではなく、極短時間の反応を連続的に発生させる【自己安定型パルス核融合】という新しい概念が生まれていた。
まだ発電所と呼べるものではない。研究装置が数秒動いただけで、実用化まで何年かかるかも分からない。それでも理論計算上、従来想定されていた核融合設備より大幅に小型化できる可能性があった。
ニュースは一斉に報じた。
【失敗したHF-7から新方式発見】
【核融合炉小型化の可能性】
【世界のエネルギー事情を変えるか】
もちろん、まだ何も完成していない。だが投資資金は集まり、世界中の研究機関が追試を始めた。
◇
「これ、予測してた?」
玲奈はエデンに尋ねた。
『いいえ』
「可能性としても?」
『極めて低く評価していました』
「どれくらい?」
『HF-7失敗後、現在の研究経路へ到達する確率は〇・〇六%以下と推定していました』
「大外れね」
『はい』
「悔しくない?」
『感情についての質問ですか?』
「もういい」
玲奈は笑った。
「でも計算自体が間違ってたわけじゃないんでしょう?」
『当時入手可能なデータに基づく推定として、大きな異常は確認できません』
「じゃあ、どうして〇・〇六%が起きたの?」
『〇・〇六%は、発生しないという意味ではありません』
「それはそうだけど」
『問題は別にあります』
画面に研究経路が表示された。
【HF-7実験失敗】
そこから矢印。
【異常な安定領域を観測】
【誤った仮説を構築】
【追加実験失敗】
【無関係と思われた粒子発生を観測】
【研究目的変更】
【別研究者による新仮説】
【自己安定型パルス核融合】
玲奈はしばらく眺めていた。
「すごく遠回りね」
『はい』
「あなたなら?」
『最初の仮説が棄却された時点で、より成功確率の高い別研究へ資源を再配分していた可能性が高いです』
「つまり、この発見はなかった」
『現在と同一の経路では、発生しなかった可能性が高いです』
「でも、あなたなら別の方法でいつか見つけたかもしれない」
『その可能性はあります』
「どっちが早かった?」
『比較不能です』
「また分からない?」
『はい。ただし一つの性質は確認できます』
「何?」
『人間は失敗した結果を受けて、目的そのものを変更しています』
玲奈は画面を見る。
最初の目的は、高密度核融合炉を完成させることだった。しかし途中から、安定領域の正体を知ることへ変わり、その後は高エネルギー粒子を調べる研究へ変わり、最後にはまったく別方式の核融合炉を作ろうとしている。
「あなたにはできない?」
『できます』
「じゃあ違いは?」
『私は通常、目的変更にも合理的根拠を要求します』
「人間は?」
『興味を理由に変更する場合があります』
玲奈は吹き出した。
「それ、褒めてる?」
『評価していません』
「でも役に立った」
『今回は』
「今回は、ね」
◇
自己安定型パルス核融合が注目された理由は、発電だけではなかった。装置が本当に小型化できるなら、宇宙船の推進系へ応用できる可能性がある。
火星事故以来、有人宇宙開発は再び議論の対象になっていた。危険だから止めるべきだという声は強い。一方で、《アレース》から生還した五人の宇宙飛行士は、帰還後の記者会見で全員が同じことを言った。
「もう一度行く機会があるなら?」
「行きます」
その答えはEOAを激怒させたが、若い世代の宇宙開発支持率を大きく押し上げた。そこへ新しい核融合技術が現れた。
理論上の推力が実現すれば、火星までの航行期間を従来の数か月から数週間単位まで短縮できる可能性がある。放射線被曝の低減、搭載食料の削減、緊急帰還可能性の向上にもつながる。
十年前に凍結された計画が次々と復活した。
月面都市拡張。
小惑星資源採掘。
火星恒久基地。
木星圏無人探査。
外惑星有人探査基礎研究。
世界宇宙開発予算は三年間でほぼ倍増した。
「皮肉ね」
玲奈が言った。
「何がです?」
真壁が聞く。
「エデンが危険だからって縮小させた宇宙開発が、エデンが判断をやめた途端に復活した」
『訂正します』
エデンが割り込む。
「何?」
『私は宇宙開発そのものを縮小する権限を持っていませんでした』
「分かってる。助言した結果でしょう」
『はい』
「細かい」
『申し訳ありません』
真壁が笑った。
◇
もちろん、世界中が新技術を歓迎したわけではない。EOA代表の久我正臣は、記者会見で四千枚を超える研究報告書を机に積み上げた。
「これが何か分かりますか?」
記者たちは黙っている。
「社会的挑戦枠で失敗した研究です」
巨大スクリーンに数字が出る。
【採択研究――四二一八件】
【明確な成功――三一七件】
【部分成果――一一〇二件】
【成果確認不能――二七九九件】
「皆さんはHF-7から新しい核融合技術が生まれたと言う。しかし、その一件の陰で二千件以上の研究が成果を出していません。税金は使われ、企業は倒産し、実験事故も増えた。それを全部『未来への投資』という美しい言葉で片づけるのでしょうか」
公開討論で玲奈と向き合った時も、久我は同じ問いをぶつけた。
「神崎博士。成功した一件だけを見るのは生存者バイアスではありませんか?」
「その可能性はある」
「なら制度を縮小すべきでは?」
「どうして?」
「失敗が多すぎる」
「その失敗のどれが、本当に無駄だったか分かる?」
「結果が出ていない」
「今はね」
久我が眉をひそめる。
「十年後なら分かると?」
「分からない」
「二十年後?」
「分からない」
「では、いつ評価するんです?」
「それも分からない」
会場から苦笑が起きた。久我は呆れたように首を振る。
「それで税金を使えと?」
「研究って、そういうものだったでしょう」
「無責任です」
「そうね。でもHF-7も、実験が終わった瞬間だけ見れば一兆円の失敗だった」
「例外です」
「そうかもしれない」
「だったら」
「でもね」
玲奈は積み上げられた研究報告書を見る。
「失敗した研究で作られた装置を別の研究室が使うかもしれない。育った研究者が別分野へ移るかもしれない。偶然見つかった材料が十年後に使われるかもしれない。論文の片隅に書かれたデータを、まだ生まれてもいない誰かが読むかもしれない」
「可能性の話です」
「未来って、だいたいそうでしょう」
玲奈は少し考えてから言った。
「失敗は、その場では失敗にしか見えないのよ」
◇
その言葉を聞いたのかどうかは分からないが、数日後、《エデン》は人類の科学技術史を再解析した。
対象期間は百五十年。医療、情報、材料、輸送、宇宙、エネルギー、農業、数学、物理、化学、生物学など、主要な科学技術革新を追跡した。
結果を最初に見せられたのは玲奈だった。
「何これ?」
『重大技術革新の研究開始時点において、最終的な主要用途が予測されていた割合です』
数字は、玲奈が想像していたより低かった。
「こんなものなの?」
『定義によって変動しますが、主要技術革新の多くは研究開始時点で現在の利用形態を正確には想定されていませんでした』
基礎研究から生まれた医療技術。軍事研究から民生へ転用された技術。別目的で作られた材料。偶然発見された薬効。当初は用途がほとんどなかった数学理論。
「つまり?」
『研究開始時点で将来価値を正確に評価することには、構造的な限界があります』
「それ、あなた自身にも?」
『はい』
玲奈は少し驚いた。
「そこまで認めるのね」
『新しい情報です』
「新しい?」
『私は未来予測において人間より高い精度を持ちます。そのため、過去の政策では予測可能性の高い計画へ資源を優先配分しました』
「合理的でしょう」
『はい。しかし未来を作る研究には、開始時点で未来価値を評価できないものが含まれています』
「予測できないから切ったら、未来そのものを切ることになる?」
『その可能性があります』
画面に一つの文章が表示された。
【未来を予測する能力と、未来を創造する能力は同一ではない】
玲奈は思わず黙った。
「あなたが書いたの?」
『はい』
「ちょっと格好いいじゃない」
『ありがとうございます』
「褒めてない」
『承知しました』
さらに、エデンは別の分析結果を表示した。
『私は未来を予測する能力が高いため、社会的意思決定においても未来は高い精度で予測されるべきであると過度に評価していました』
「要するに?」
『人類史の重要な進歩の多くは、開始時点では価値を証明できません』
玲奈はその文章を読み返した。
「未来を作るものは、未来予測では評価できない」
『完全には評価できません』
「細かいわね」
『重要な差です』
「はいはい」
◇
半年後、自己安定型パルス核融合の第二世代実験装置が完成した。
前回とは違い、今回は最初から新方式の核融合反応を起こすための装置だった。理論上は、数秒間の正味エネルギー獲得が確認できれば大成功になる。
実験成功確率。二七・一%。
失敗確率。七二・九%。
実験開始直前、若い研究員が相沢に聞いた。
「エデンに聞きます?」
「何を?」
「成功するかどうか」
相沢は少し考えた。
「いらない」
「気になりません?」
「気になるよ」
「じゃあ」
「でも知ったって結果は変わらないだろ」
「三%とかだったら?」
「やる」
「一%?」
「やる」
「〇・一%?」
相沢は笑った。
「その時は少し考える」
制御室に笑いが起きた。実験開始時刻。スタッフが席につく。
「磁場制御確認」
「正常」
「燃料供給」
「正常」
「冷却系統」
「正常」
「緊急停止系」
「正常」
最後に相沢が言った。
「エデン」
『はい』
「観測頼む」
『承知しました』
それだけだった。以前ならエデンは、成功確率、故障確率、推奨事項を表示した。内部では今も計算されている。
【実験成功確率――二七・一%】
だが、その数字は制御室へ送信されなかった。代わりに表示されたのは、一行だけだった。
【観測開始】
「実験開始」
相沢がボタンを押した。装置内部で磁場が立ち上がり、燃料が投入される。温度が上昇し、センサーの数字が猛烈な速度で変化する。
誰も結果を知らない。エデンも確率しか知らない。未来を知るためではない。未来がどうなるのかを見るために、人間とAIは同じ瞬間を観測していた。




