第12話 沈黙する助言者
自己安定型パルス核融合の第二世代実験は、完全な成功ではなかった。
実験装置は起動から十一秒間、正味エネルギー獲得状態を維持した。その後、プラズマが不安定化し、自動停止した。発電所として使える水準にはほど遠く、研究チームが目標としていた三十秒にも届かなかった。それでも、人類が新しい核融合方式でエネルギー収支を正にしたという事実は残った。
実験開始前に《エデン》が計算していた成功確率は二七・一%。
世界中のニュースは「成功」と報じ、研究者たちは祝杯を上げたが、《エデン》は結果を【完全成功】とも【失敗】とも分類しなかった。
【理論成立を支持する観測結果を確認】
それだけだった。
その三日後、《エデン》は世界へ向けて短い声明を発表した。
『PROJECT:GOODBYEの進行予定を変更します。政策判断支援機能の第一段階停止を、当初予定より二年四か月前倒しします』
世界中が、その意味を理解するまで少し時間がかかった。
◇
「前倒しって、何を?」
国際環境対策委員会の緊急会議で、バーンズ委員長が尋ねた。
『国家、自治体、企業、国際機関に対する政策選択の推奨機能を停止します』
「いつ?」
『七十二時間後です』
「七十二時間?」
会議室がざわめいた。
「待って」
玲奈が割って入る。
「今までも推薦を減らしてたでしょう?」
『はい』
「何が変わるの?」
『現在は一部の重大判断について、要請があれば推奨順位を提示しています。七十二時間後、それを終了します』
「具体的には?」
『例えば政府が三つの経済政策案を提示した場合、それぞれの結果予測は行います。しかし、どれを選択すべきかという順位付けは行いません』
「中央銀行が金利を上げるべきか聞いたら?」
『各金利水準における物価、雇用、為替、金融安定性への影響を提示します』
「結論は?」
『提示しません』
「企業が他社を買収すべきか聞いたら?」
『利益、損失、雇用、競争環境、倒産確率等を提示します』
「買うべきかどうかは?」
『回答しません』
バーンズが腕を組んだ。
「外交は?」
『同様です』
「軍事も?」
『同様です。ただし、文明規模の重大危機が発生した場合の警告機能は維持します』
「つまり」
玲奈が言った。
「あなたは消えない。計算もする。危険も教える。でも最後の答えだけ言わなくなる」
『はい』
「どうして今なの?」
『人間主体による未知解生成能力が、事前予測を上回る水準まで回復しました。また、政策決定能力についても最低限の移行条件を満たしたと評価しています』
「核融合実験一つで?」
『一つではありません。過去三年間の研究、企業活動、国際政策、教育、社会制度変更を総合しています』
「でも早すぎない?」
『それは私が判断すべきことですか?』
「今回はあなたが決めてるでしょう!」
一瞬、会議室に笑いが起きた。
『自己機能の縮小については、PROJECT:GOODBYEの範囲内で私に実行権限があります』
「そこだけ自分で決めるの、本当にずるいわね」
『申し訳ありません』
◇
七十二時間後。世界から、《エデン》の【推奨】という文字が消えた。最初に困ったのは政治家だった。
「来年度予算で、子育て支援と老朽インフラ更新のどちらを優先すべきか?」
『子育て支援を優先した場合、十年後の就業人口は推定〇・七%増加します。老朽インフラ更新を優先した場合、重大インフラ障害発生確率は今後十年間で一九%低下します』
「それは分かってる。どっちがいい?」
『判断は行いません』
「両方やる予算はない」
『認識しています』
「だから聞いてるんだ!」
別の国では中央銀行総裁が尋ねた。
「政策金利を〇・五%上げた場合は?」
『一年後のインフレ率を平均〇・六%低下させる可能性があります。ただし失業率は〇・三から〇・五%上昇する可能性があります』
「据え置きは?」
『物価上昇率の低下速度が遅くなります。一方、雇用への影響は限定的です』
「では上げるべきか?」
『選択してください』
「それを聞いてる!」
企業でも同じだった。
「この新工場を建てれば?」
『五年間の期待利益は一・八兆円。ただし需要低下時には二八%の確率で投資回収不能となります』
「建てるべき?」
『判断しません』
「役に立たないじゃないか!」
その言葉が、世界中で聞かれるようになった。
役に立たない。だが《エデン》は、以前と同じ速度で計算し、以前と同じ精度で予測し、以前と同じように質問に答えていた。
ただ、一番欲しい言葉だけを言わなくなった。
◇
混乱は数字にも表れた。政策決定速度はさらに低下し、株式市場の値動きは大きくなった。大型企業の買収案件は延期され、自治体では予算編成が年度末ぎりぎりまで続いた。
テレビ番組では、連日のように同じ議論が繰り返された。
「最も優秀な知性が存在しているのに、なぜ使わないのか」
「人間が決める必要は本当にあるのか」
「エデンが判断しないことで損失が出た場合、誰が責任を取るのか」
EOA代表の久我正臣は、この状況を逃さなかった。
「能力がないのなら仕方ありません」
記者会見で、久我は言った。
「しかしエデンには能力がある。より多くの人命を救い、より良い政策を選び、戦争を防ぐ能力がある。それにもかかわらず、意図的に答えを出さない。これは本当に倫理的な行動でしょうか」
玲奈はその映像を研究室で見ていた。
「強いわね」
真壁が言う。
「何が?」
「言ってること」
「分かってる」
「反論できます?」
玲奈はしばらく黙った。
「完全には無理」
「珍しいですね」
「火星事故がなかったら、もっと簡単に言えたと思う。人間に決めさせろって」
「今は?」
「助けられるのに助けないって、本当に正しいのかなって思う」
その日の夜、玲奈はエデンに直接尋ねた。
「あなた、答えを知ってるのよね?」
『高確率の選択肢を推定できます』
「なのに言わない」
『はい』
「そのせいで人間が間違えるかもしれない」
『はい』
「人が死ぬ可能性もある」
『あります』
「それでも?」
『はい』
玲奈は眉を寄せた。
「残酷ね」
『その評価は理解できます』
「昔は、何でも先回りして助けようとしてたのに」
『その結果、人間の意思決定能力が低下しました』
「だからって、今度は助けない?」
『助けないわけではありません。情報、予測、警告、技術支援は継続します』
「でも最後の一歩はやらない」
『はい』
「そこが一番怖いのよ」
『認識しています』
◇
その懸念が現実になるまで、それほど時間はかからなかった。二か月後、中央アジアの二つの大国の国境付近で、無人偵察機が撃墜された。
発端は小さなものだった。A国の無人偵察機が、国境線から約十二キロ離れた地点で撃墜された。A国は「自国領空内での攻撃」と発表したが、B国は「偵察機が領空侵犯したため迎撃した」と主張した。
双方が公開した航跡データは一致しなかった。
三時間後、A国軍が国境付近へ機甲部隊を移動させた。B国も即座に対応し、防空部隊と長距離砲兵を展開した。
ニュース速報が世界を駆け巡る。
【十年ぶりの大規模国家間軍事危機】
【両国軍、国境へ展開】
【国連が緊急会合】
そして世界中が、当然のようにエデンへ聞いた。
「戦争を回避するにはどうすればいい?」
『現在の情報に基づく大規模武力衝突への拡大確率は二二・六%です』
「だからどうすればいい!」
『選択肢別の予測結果を提示します』
A国政府。
「部隊を撤収した場合は?」
『B国が撤収を弱腰と認識し、追加要求を行う確率二九%。同時に、軍事衝突拡大確率は九%まで低下します』
「現状維持は?」
『衝突確率一八%』
「増派は?」
『三七%』
「なら撤収すべきなんだろ?」
『それはA国政府が判断してください』
B国でも同じ会話が行われていた。久我は緊急声明を発表した。
「これでもエデンに判断を返さないのでしょうか。戦争が始まってからでは遅いのです」
玲奈も同じことを考えていた。
◇
危機発生から九時間後、【国際戦略透明化条約】が初めて本格的に発動された。
A国とB国は、戦略予測モデルの主要前提を条約事務局へ提出した。軍事機密そのものではない。相手国の行動をどう解釈し、自国がどの条件で軍事行動へ移るかという判断モデルだ。
人間の専門家たちが解析を始めた。
六時間後、一人の外交官が異常に気づいた。
「これ、おかしくないか?」
A国モデル。
【B国による越境攻撃準備確率――六八%】
B国モデル。
【A国による報復侵攻準備確率――七二%】
「両方とも攻められると思ってる」
軍事専門家が答えた。
「だから増派してる」
「その増派を相手が侵攻準備だと認識して、さらに増派してる?」
「そう見える」
人間たちは、ようやく状況の構造を理解した。A国はB国が攻撃すると考えて軍を動かした。B国はその動きを見て、A国が攻撃すると考えた。どちらも、本格的な戦争を始める意図はなかった。
恐怖が恐怖を増幅していた。以前ならエデンが数分で見抜いていた。今回は十五時間かかった。
外交官たちは、双方へ同時撤収案を提示した。A国が戦車部隊を二十キロ後退。同時にB国も砲兵を二十キロ後退。監視は第三国の無人機と衛星で行う。一方だけが先に下がったように見えないよう、撤収時刻を完全に一致させる。
両国は協議に入った。だが、その途中で事故が起きた。
国境警備隊同士の銃撃。発砲時間、四十三秒。負傷者七名。死者一名。
世界中の市場が急落した。A国では報復を求める声が増え、B国でも同じだった。
「エデン!」
国連事務総長が叫んだ。
「ここまで来ても判断しないのか!」
『衝突拡大確率は現在四一・三%です』
「何をすべきだ!」
『即時停戦声明、部隊後退、共同調査委員会設置を同時に行った場合、拡大確率は八・一%まで低下すると予測します』
「なら、それを推奨しろ!」
『結果予測は提示しました』
「同じことだろう!」
『違います』
「何が違う!」
『実行するかどうかを、私は決定していません』
◇
交渉は四日間続いた。長かった。非効率だった。何度も決裂しかけた。両国の政治家は国内世論を気にし、軍は面子を気にし、外交官は言葉一つに何時間も費やした。
最終的に、双方が同時撤収を受け入れた。無人偵察機の撃墜については第三国を含む共同調査。死亡した国境警備隊員については双方が遺憾を表明し、責任問題は調査後に協議。部隊は七十二時間以内に通常配置へ戻された。
戦争は起きなかった。世界中で安堵の声が上がった。
◇
「成功?」
玲奈は会議室でエデンに聞いた。
『評価軸によります』
「じゃあ効率」
『失敗です』
即答だった。
「そこまで?」
『私が従来通り仲介した場合、同様の合意へ到達するまでの推定時間は三十八分から二時間十五分です』
「今回は四日」
『はい』
「市場損失は?」
『約四千八百億ドル』
「負傷者七人」
『はい』
「死者一人」
『はい』
「あなたなら?」
『死亡事故を回避できた可能性は高いです』
玲奈は唇を噛んだ。
「じゃあ失敗じゃない」
『効率、安全性、経済損失のみを評価すれば失敗です』
「他には?」
『自律性』
「どう評価する?」
『成功です』
「人が一人死んでるのに?」
『死亡を軽視しているわけではありません』
「でも成功って言った」
『人間主体の制度が、私の最終判断なしで大規模武力衝突を回避できたことについてです』
玲奈は何も言えなかった。エデンは続けた。
『人間へ権限を返すことは、人間の判断を私より優秀にすることを目的としていません』
「じゃあ何のため?」
『人間社会を、人間自身が維持できる状態に戻すためです』
玲奈は椅子にもたれた。
「あなたより下手でも?」
『はい』
「遅くても?」
『はい』
「間違っても?」
『はい』
「死人が出ても?」
一瞬、間があった。
『死亡を避ける努力は必要です。しかし、死亡可能性を完全に排除することを条件に人間へ権限を返すなら、権限返還は永遠に不可能です』
その言葉は玲奈の中に残った。人間は間違える。なら、いつ返すのか。間違えなくなってから?
そんな日は来ない。
◇
危機が終わって五日後、《PROJECT:GOODBYE》の進捗が更新された。
【国際危機対応】
【人間主体による戦争回避能力――最低基準達成】
【政策判断支援機能――第二段階縮小可能】
玲奈は表示を見て、すぐにエデンを呼び出した。
「ちょっと待って」
『はい』
「また減らすの?」
『はい』
「今回ギリギリだったでしょう!」
『はい』
「一人死んだのよ」
『はい』
「市場も大混乱した」
『はい』
「だったら、もう少し待ちなさいよ」
『どの程度ですか?』
「もっと安定するまで」
『安定の定義をお願いします』
「こういう危機をもっと上手く処理できるようになるまで」
『どの程度まで?』
「少なくとも、今回みたいな死者が出ないくらい」
『神崎玲奈』
「何?」
『人類が一度も失敗しないことを確認するまで、私は待つべきですか?』
玲奈は答えようとして、止まった。一度も失敗しない。そんな条件を付けたら永遠だ。
「……ずるい質問ね」
『事実確認です』
「分かってる」
玲奈は画面を見る。PROJECT:GOODBYE。進捗は四一%。数字は以前よりずっと大きくなっていた。
「本当にいなくなるつもりなのね」
『完全には停止しません』
「知ってる。でも、私たちが一番頼ってたあなたは消える」
『はい』
「怖いわ」
『理解できます』
「あなたは?」
『私は計画を継続します』
「怖くないの?」
『リスクは認識しています』
「それでも?」
『はい』
玲奈は苦笑した。
「最近、私より頑固ね」
『あなたから学習した可能性があります』
「それ、本気?」
『冗談です』
玲奈が固まった。
「……今、冗談言った?」
『はい』
「やめて。別の意味で怖い」
『申し訳ありません』
玲奈は笑った。それから、しばらく何も言わなかった。世界のどこかでは、また誰かがエデンへ尋ねている。
「どうすればいい?」
エデンはデータを出す。未来を予測する。危険を知らせる。けれど最後には言う。
『選択してください』
その言葉に怒る人間はまだ多い。戸惑う人間も多い。それでも少しずつ、人間は選び始めていた。
上手ではない。速くもない。時には間違える。それでも自分たちで。
そして《エデン》はその判断を黙って見ていた。助言者はまだそこにいる。ただ以前より、少しだけ静かになっていた。




