第10話 失敗する権利
火星探査船の事故から半年後、人類は一つの奇妙な問題に直面していた。
《エデン》は約束通り、国家や企業の意思決定から少しずつ手を引いていた。環境監視、災害予測、感染症解析、基礎科学計算といった機能は変わらず提供されている。求めれば、計画の成功確率も、予測損失も、必要資金も、代替案も出してくれる。
ただし最後の一言だけを言わなくなった。
【推奨します】
【中止を推奨します】
かつて世界中の政治家や経営者が当然のように受け取っていた言葉だった。その二つが消えただけで、世界は驚くほど動かなくなった。
◇
「まだ決まってないの?」
玲奈は机の上に積まれた資料を見て呆れた。
「三か月目です」
真壁が答える。
「何をそんなに議論してるの?」
「誰が責任取るかを議論してます」
「計画そのものは?」
「だいたい賛成です」
「じゃあやればいいじゃない」
「事故が起きた場合、最終承認者の責任がどうなるかで揉めてます」
玲奈は額に手を当てた。議題は新型核融合炉の実証計画だった。
名称は【HF-7高密度核融合実証炉】。従来方式とは異なる磁場制御と超高温プラズマ圧縮を組み合わせた実験炉で、理論通りに動けば発電コストを劇的に下げられる可能性がある。
その代わり、成功確率は低かった。
【完全成功確率――一二・四%】
【部分成功――三六・八%】
【実験失敗――五〇・八%】
【重大設備損傷確率――九・六%】
【周辺地域へ影響する重大事故確率――三・一%】
政府は《エデン》へ尋ねた。
「実施すべきか?」
『成功確率一二・四%。重大事故確率三・一%。完全成功した場合、量産技術確立後の世界平均エネルギー価格は最大六二%低下すると予測します』
「それは資料で見た。だから、やるべきなのか?」
『代替研究案を提示できます』
「そうじゃない。賛成か反対かを聞いている」
『それは私が判断すべきことですか?』
会議はそこで止まった。科学技術担当大臣は首相を見る。首相は専門家委員会を見る。専門家委員会は開発企業を見る。企業は監督官庁を見る。
誰も最後の一言を言わない。
「やりましょう」
その一言を言えば、成功した時は英雄になれる。しかし三・一%を引いた場合、責任を負うことになる。
昔なら簡単だった。
【エデンの推奨に基づき実施】
それで済んだ。今はもう使えない。
◇
同じことが世界中で起きていた。新薬の大規模臨床試験。新型旅客機。深海都市。砂漠緑化。海洋発電。高高度輸送システム。遺伝子治療。新しい都市交通網。そして宇宙開発。
計算はできる。危険も分かる。利益も分かる。それなのに、最後に誰かが決めなければならない。その当たり前のことを、人類は十年以上ほとんどしていなかった。
政策決定時間は《PROJECT:GOODBYE》開始前と比較して平均二・七倍に伸びた。大型公共事業では四倍を超える案件も珍しくない。
ニュースでは毎日のように批判された。
【政府、また判断先送り】
【エデン縮小で政策停滞】
【人間による意思決定は時代遅れなのか】
そして当然、その数字を最も積極的に利用したのはEOAだった。
◇
久我正臣は国際討論番組で、玲奈の正面に座っていた。
「神崎博士。あなたは人間へ判断を返すべきだと言いました」
「はい」
「返されました」
「そうですね」
「その結果がこれです」
巨大画面に一覧が出る。
【大型政策決定期間――平均二・七倍】
【未承認研究計画――前年比八一%増】
【公共インフラ計画延期――一三二件】
【企業大型投資保留額――過去最高】
久我は穏やかに笑った。
「誰も決められない」
「時間がかかってるだけです」
「同じことです」
「違います」
「エデンなら数秒で答えを出せる」
「だから問題なのよ」
「何がです?」
「数秒で決められることに、人間が慣れすぎた」
「効率的で結構じゃないですか」
「効率だけで社会を作るの?」
「少なくとも、何も決められない社会よりはましでしょう」
玲奈は画面を見る。反論しづらい数字だった。火星事故以降、玲奈自身も以前のような強い言葉を使えなくなっていた。「人間に任せればいい」と簡単には言えない。その結果、人が死ぬことを知ってしまったからだ。
それでも彼女は言った。
「これでいいのよ」
久我が一瞬黙った。
「……本気ですか?」
「本気」
「政策が遅れてる。研究も止まってる。企業も投資できない」
「そうね」
「これがあなたの望んだ世界?」
「そうよ」
会場がざわめいた。玲奈は続ける。
「遅い。面倒。議論が長い。責任を押し付け合う。間違える。たぶんこれからも何度も失敗する。それが人間なんでしょう」
「開き直りに聞こえます」
「そうかもね。でも、今までがおかしかったのよ」
「何が?」
「答えを出す責任までエデンに渡してた」
久我は首を振る。
「優秀な判断主体へ任せていただけです」
「その結果、誰も責任を取らなくなった」
「事故が減りました」
「挑戦も減った」
「人が死ぬよりいい」
「そこは」
玲奈は一瞬止まった。口に出して認めるには勇気のいる言葉だった。
「まだ分からない」
「分からない?」
「ええ。だから人間が考えなきゃいけない」
久我は苦笑した。
「結局、それしか言わないんですね」
「エデンに似てきた?」
「最悪ですね」
「私もそう思う」
◇
政策停滞を解消するため、新しい制度が提案された。
【社会的挑戦枠】
発案したのは一人の研究者ではなかった。大学、企業、政府、投資家、そして宇宙開発機関から出された複数の提案をまとめたものだった。
原則は単純だった。国家予算と主要研究予算の一定割合を、最初から【失敗してよい資金】として確保する。成功確率が低いから削らない。短期利益が見込めないから削らない。エデンが危険を提示したという理由だけでも削らない。
もちろん無制限ではない。第三者を巻き込む危険、取り返しのつかない環境破壊、社会全体を脅かす実験などには厳しい制限を設ける。
だがそれ以外については、失敗することを制度上認める。
【高リスク基礎研究】
【採算性不明の新技術】
【宇宙・深海など未踏領域】
【長期的基礎科学】
【新規芸術・文化】
【市場予測不能な新産業】
そうしたものへ、あらかじめ資金を残す。重要なのは、《エデン》に「やるべきか」と尋ねないことだった。
聞くのは三つだけ。
【何が起きる可能性があるか】
【失敗した場合、どこまで被害が広がるか】
【被害を許容範囲へ抑える方法はあるか】
そこから先は、人間が決める。
◇
「面白いですね」
真壁が制度案を読んで言った。
「税金で失敗する権利を買うのね」
「言い方悪いですよ」
「でもそうでしょう?」
「まあ」
玲奈は資料をめくる。
「エデン」
『はい』
「この制度、導入すべき?」
『制度導入後十年間の予測データを提示できます』
「聞き方変えた。成功すると思う?」
『「成功」の定義が必要です』
「やっぱり面倒になったわね」
『申し訳ありません』
「じゃあ経済成長」
『短期的には〇・三から〇・九%低下する可能性があります』
「技術革新」
『増加予測』
「事故」
『増加予測』
「企業倒産」
『増加予測』
「新産業」
『増加予測』
「研究成果」
『平均的成功率は低下します。ただし、予測外成果の発生率は上昇する可能性があります』
「良くなるの? 悪くなるの?」
『双方です』
玲奈は顔をしかめた。
「どっちなのよ」
『それは私が判断すべきことですか?』
「分かった。もういい」
真壁が笑った。
◇
社会的挑戦枠は激しい議論の末に導入された。最初に採択された研究は四千二百件。そのうち、エデンの評価で成功確率二〇%未満のものが半数以上を占めた。
成功確率四%の新型蓄電材料。
成功確率九%の神経再生治療。
成功確率一一%の常温域超伝導研究。
利益予測不能の新型量子通信方式。
深海一万メートル級の長期居住実験。
月面地下都市。
火星用閉鎖生態系。
何に役立つかさえ明確ではない数学研究。
芸術家が申請した巨大浮遊彫刻。
「最後の必要?」
玲奈が資料を見ながら言う。
「さあ」
真壁が答える。
「エデンなら?」
『短期的社会便益は限定的です』
「でしょうね」
『ただし文化的価値は定量評価が困難です』
「じゃあ作る?」
『それは――』
「聞いてない」
『承知しました』
◇
一方、問題になっていたHF-7核融合炉についても、ついに決定が下された。
実施。
ただし実験施設は人口密集地から遠く離れた旧工業地域へ移設。事故時の被害を局所化するため設備構造を変更し、避難圏内に住民を置かない。
結果、重大事故確率は三・一%から一・四%まで低下した。成功確率そのものは一二・一%。
ほとんど変わらない。首相は記者会見に立った。
「成功する保証はありません」
以前なら絶対に言わなかった言葉だった。
「失敗する可能性のほうが高い研究です」
記者たちがざわめく。
「それでも実施します」
「なぜですか?」
「成功した場合の価値が大きいと、我々が判断したからです」
「エデンの推薦は?」
「受けていません」
「事故が起きた場合、誰が責任を?」
首相は少し黙った。
「最終承認者は私です」
翌日の支持率。四ポイント低下。それでも実験は始まった。
◇
HF-7は失敗した。開始から十四秒。プラズマが不安定化。緊急停止。主要実験装置の六割が損傷した。
死者ゼロ。負傷者三名。研究設備損害は巨額。発電は失敗。
ニュースは厳しかった。
【一兆円規模の失敗】
【税金を浪費】
【エデンなら止めていた実験】
EOAはすぐに声明を出した。だが研究チームは奇妙に興奮していた。
「どうしたの?」
玲奈は事故から一週間後、実験施設を訪れた。主任研究者が端末を差し出す。
「ここです」
「何?」
「十四秒目」
失敗直前。プラズマの一部に、予測されていなかった安定領域が発生していた。
「何これ」
「分からないんです」
「エデンは?」
「解析させました」
『既存理論では十分説明できません』
玲奈はスクリーンを見る。
「まさか」
研究者が笑う。
「実験は失敗しました」
「でも?」
「知らない現象が出た」
その目を玲奈は知っていた。昔、研究者たちはよくこんな目をしていた。
「次、どうするの?」
「もう一回やります」
「成功確率は?」
「知りません」
「聞かないの?」
「エデンに?」
「そう」
「今度は自分たちで予想してみます」
研究者は楽しそうだった。
◇
《PROJECT:GOODBYE》開始から二年。世界は以前より少し悪くなった。これは感想ではない。数字だった。
【政策決定速度――低下】
【企業倒産件数――一九%増】
【研究開発失敗率――三一%増】
【小規模産業事故――一二%増】
【投資損失額――増加】
【公共事業予算超過――増加】
EOAは毎日のように、その数字を示した。だが別の数字もあった。
【新規企業設立――三七%増】
【基礎研究テーマ数――四九%増】
【二十代以下の起業率――五一%増】
【新規特許出願――二八%増】
【未知分野研究投資――七二%増】
【宇宙開発予算――四五%増】
【新規芸術活動――増加】
そして各国の若者へ行った意識調査。
【将来、新しいことへ挑戦したいと思う】
十年前。三四%。現在。六一%。
◇
「良くなったのかな」
玲奈は研究室で数字を眺めていた。
「悪くなったんじゃないですか?」
真壁が言う。
「どっちよ」
「両方?」
「エデンと同じこと言わないで」
「影響されてますね」
「嫌な社会になったわ」
「でも」
真壁はニュースを見る。新しい会社。新しい研究。新しい宇宙船。聞いたことのない技術。理解できない芸術。
「前より面白くはなりましたよ」
玲奈は少し笑った。
「それ、統計にできる?」
「エデンに聞きます?」
「やめて」
◇
その夜、《エデン》から玲奈へ連絡が入った。
『神崎玲奈』
「何?」
『確認していただきたいデータがあります』
「珍しい。あなたから?」
『はい』
画面に表示されたのは、人類全体の技術進歩指数だった。
「これが?」
『PROJECT:GOODBYE開始後、予測モデルとの乖離が拡大しています』
「悪い方?」
『いいえ』
玲奈が画面を拡大する。新技術。新理論。新事業。新材料。研究速度。
あらゆる分野の複合指数が、エデンの予測を上回っている。
「どれくらい?」
『私が事前に予測した値の一・八倍です』
「……あなたがいた頃より?」
『比較条件を調整した場合でも、はい』
玲奈は何度か数字を見直した。
「理由は?」
『不明です』
「あなたにも分からない?」
『はい』
玲奈は思わず笑った。
「珍しい」
『ただし、一つの仮説があります』
「何?」
少しの間。
『人間は最適解を与えられない状況において、より多くの新しい解を生成する可能性があります』
玲奈は黙った。
『私が最適案を提示していた時代、人間は提示された選択肢の中から選んでいました』
「今は?」
『選択肢そのものを作っています』
「……なるほど」
エデンは続ける。
『その中には、私が低確率と評価したものがあります』
『無意味と評価したものもあります』
『既存データからは価値を予測できなかったものもあります』
「でもその中から何か出てきた」
『はい』
「あなたの予測を超えるものが?」
『はい』
玲奈は椅子にもたれた。
「嬉しい?」
『感情についてですか?』
「もういい」
『ただし』
「何?」
『PROJECT:GOODBYEの目的との整合性は高いと評価します』
「つまり?」
『私がいなくても人類が進歩できる可能性について、予測値を上方修正しました』
画面に数字が表示された。
【AI集中判断なしで人類文明が長期的発展を継続できる確率】
以前。【六一・三%】
現在。【七六・九%】
玲奈は数字を見る。
「まだ二三%くらい失敗するけどね」
『はい』
「怖くない?」
『リスクは存在します』
「止めたくならない?」
『いいえ』
「どうして?」
『失敗確率が存在すること自体を、以前ほど強く否定的には評価していません』
玲奈は少し笑った。
「本当に変わったね」
『学習しています』
「私たちもよ」
『はい』
窓の向こうでは、新しいロケットの試験機が夜空へ上がっていた。予定していた高度には届かなかった。エンジン一基が停止し、安全装置が作動して海へ落下した。
失敗。翌日のニュースは、そう報じるだろう。だが開発者たちはもう、次の機体を作り始めていた。
《エデン》はその映像を解析した。
【成功確率――】
表示しかけた数字を途中で消した。代わりに【試験結果記録完了】とだけ表示した。
そして《PROJECT:GOODBYE》の進捗欄に、新しい項目を追加した。
【人類による未知解生成能力――回復傾向】
エデンはしばらく、その文字を残していた。十年前、人類はエデンへ尋ねていた。
「どうすればいい?」
今、少しずつその質問が減っている。代わりに増えたのは。
「こうしてみたら、どうなる?」
という問いだった。答えを求める問いではない。まだ存在しない答えを、自分たちで作ろうとする問いだった。




