第7話「見捨てられた大地の領主」
翌朝の空気は凛と張り詰めており、空は白から薄い群青へと移り変わる途上にあった。
リグドールの街を包む喧騒が目を覚ますよりも早く、カイとルシアは北門の外へと歩みを進めていた。
昨晩の魔獣強襲騒動についての説明をレオンに丸投げするという手抜きな報告を終え、彼らは十分すぎるほどの開拓資金を手にしていた。
手元の羊皮紙には、ギルドの裏手を通じた正規の不動産取引で譲り受けた広大な所有地を示す赤いインクの捺印証書が挟まれている。
彼らが向かうのは、街から北西へ半日ほど歩いたさらに辺境の奥。
誰も寄り付かない荒野に沈んだ旧指定開拓区と呼ばれる廃村である。
かつて数十年前に王国の命を受けた者たちが農業地として開拓を試みたが、地脈を流れる魔力異常の少なさと頻出する害獣に耐え切れず放棄された土地。
土壌は硬く痩せこけており、植物の育成すら拒絶する呪われた平原として不動産屋の壁の隅で埃を被っていた物件を、カイは破格の銅貨数枚で広範囲にわたって買い上げたのだった。
足を進めるごとに緑の生垣は姿を消し去り、代わって赤茶けた荒涼とした岩肌とひび割れた大地が二人の視界へ容赦なく広がり始める。
舞い上がる土埃が喉の奥をザラつかせる。
遠方には崩れかけた木造の監視塔のような建物がぽつんと傾いて建っているだけで、そこに生命力あふれる営みの気配は砂一粒ほども感じられない。
「ずいぶんと風通しのいい場所だな。何もないからかえって落ち着く」
カイは立ち止まって周囲の地平線に目を向け、どこか懐かしさすら覚えながら深く息を吸い込んだ。
「カイ様が選ばれたのですから、私はここが世界のどの王都よりも美しくなる未来を信じています」
隣に並び立つルシアの言葉に嘘や追従の響きは一切ない。
彼女は自分の身の丈ほどもある木製の杖を地面へ突き立て、瞳いっぱいに未来の光景を描き出そうとばかりに真っ直ぐに荒野を見つめていた。
彼女の灰色のローブが吹き下ろす北風に揺らすたび、澄んだ柔らかな魔力の余波が彼女の存在を中心にして周囲の乾いた土をかすかに慰めなだめるかのように機能している。
だがカイにとっては、彼女のその信仰にも似た賛美はいつも大げんかに感極まっているだけの真面目な子だと少し微笑ましく流してしまう程度のものであった。
「よし、とりあえずあの潰れかけの塔の周りを拠点にして、まずは自分が住むための畑を作らないとな」
カイは背中に背負っていた農具袋から長めの柄のついたクワを取り出した。
先端の金属部分は長年の風雨に晒され赤く変色しているが、その手触りそのものに彼は妙な安堵を覚えていた。
固く干からびた赤土に向かって無造作に振りおろす。
刃が地面にぶつかる小さな衝撃が彼の腕を伝わり、肩から背骨、そして自身の認識するシステムの眼へと自然に送り込まれた。
彼の視界の右隅。
その土地を形成している情報値の構成画面が音もなく展開される。
『この土なら、表面の固さを取るためにもう少し水分を含みやすい構造にして……栄養のある層を厚くするか』
カイが思考の奥底でその小さなパラメーターの配列に指を這わせた次の瞬間。
土を穿つために振り下ろしたわずかな力が、大地そのものの命脈へと直接介入する巨大な楔へと移行した。
足元のひび割れた茶色の層が波打つようにうねりを上げ、数メートルの先まで黒々と艶のある肥沃な土壌へと一瞬で自らの性質を書き換えたのだ。
カイが数回の平準化のつもりでクワを横へ引くだけで、周囲数十メートルにわたる範囲の岩や石灰が勝手に砕け散り、最適な通気性と保水力を持った土塊へと分解再生し始める。
土そのものだけでなく、土中深くに微小レベルで滞っていた害な魔力や泥流すらも一切の気配を残さず浄化され、彼の一歩ごとに見えない世界の息吹が完全に調律されていく。
「こんなものか。意外とすぐに柔らかくなったな」
青年自身は額の汗すら一滴もかいていない。
ただ土の表面を数回いじっただけで、世界全体の治癒に等しい大いなる魔法が機能していることに彼は生涯気づくことがない。
その様子を数歩後ろから見届けているルシアは、またしても足場の大地ごとひれ伏したくなる畏敬に打たれ目を見開いていた。
土が書き換わる際、微量な魔術の放出どころではなく、星の中枢へ手を突っ込んで真の血合を通し直したとしか思えない重厚感があった。
大気中のマナが彼を中心に喜びの円舞を描き、枯渇していたはずの空間の底へ、今までかつて体感したことのない分厚くて神聖な結界のごとき圧が静かに形成されていた。
「これを見ているのが至福というのは、あまりにももったいない奇跡ですね……」
ルシアはそっと自らの両手で顔を覆い隠し、胸の高鳴りを押し殺した。
彼が無造作に開墾しているだけのその外周には、すでに外敵のあらゆる魔法を完全にすり抜けて分解する不可侵な空間の障壁が、光もなく分厚くそびえ始めていた。
カイが農具の柄を土の上に立て、次は種を蒔こうと屈託のない声を出して小さな袋を開けた頃、その地はすでに人間の国一つをまるごと凌駕するだけの防壁と栄養回路を獲得し終えていたのである。
◆ ◆ ◆
錆びた金属の味とともに奥歯をこすり合わせながら、ガルドは膝から王都裏路地の腐った泥の上へと崩れ落ちた。
全身を取り巻く重たい革鎧が、今では自らの肉を引き剥がそうとする拷問器具のようにのしかかっている。
少し前まで彼を含めた蒼炎の刃のメンバーが王都周辺で築き上げていた栄華は、たった数日で完全に形をなくして崩壊していた。
あの使えない荷物持ちのカイを切り刻んでからというもの。
何かが決定的に腐ってしまったかのようだった。
受けたばかりの中型飛竜の討伐依頼において、前衛の自分が力任せに大剣を投げ打っても鱗の一枚すら傷一つつけることができなかった。
いつもであれば周囲の一陣の風とともに易々と首筋をへし折り砕いていたはずの彼の一撃は、ただの鉄の塊が硬い石に弾かれるだけの無様へと滑り落ちた。
後衛の魔術師の女もそうだ。
中級の熱戦の構想を組んだだけで頭痛と虚脱に襲われ、鼻血を噴き出してその場に倒れ伏す始末。
かつて無尽蔵のように打ち上げていた巨大規模な魔法力はもはや影も形も残されてはいなかった。
結果的に依頼は破綻し、契約を違えたことで多額の負債が彼らの肩に重荷となって覆いかぶさっている。
「どうしてだ……おれたちは選ばれた特別な隊じゃなかったのかよ」
吐しゃ物にまみれた暗細道路の壁際で、彼は自らの剣の柄を握りしめようとするが、握力すらままならず指先は滑るだけだ。
視線を右の淀みへ動かすと、あのとき共にカイを嘲笑っていた短剣使いの男が、別の借金取りに捕まって顔面を原型もとどめぬほどに靴底で破壊されている音が低く響いていた。
女魔術師は荷物や杖を全て金塊へ変えて、その日暮らしの娼館のような場所へと身を落としてしまったとの噂を耳にしたばかりである。
崩壊への引き金。
彼らの貧弱な思考能力でもようやくひとつの事実の輪郭だけがつなぎ合わされた。
自分たちは決して強かったわけじゃない。
あの見捨てた青年によって、知らない間にすべてのお膳立てをもらった上で王冠を被らされていた虚飾の案山子でしかなかったのだ。
「カイ……。あいつが戻ってくれば、またおれたちの隊に戻ってくればなんとかなる。まだ間に合うはずだ」
顔にこびりついた汚泥を袖で乱暴に拭い下げ、ガルドは暗がりの街へと視線を持ち上げた。
自分自身の傲慢を改めた反省ではなく、再び都合の良い力の器を取り戻して自分が良い目をみたいという救いようのない盲信だった。
痛む足をひきずりながら、彼は誰かにその行方を問いただし、カイなる男を探し出して手元に鎖でつないで引き戻すという幻にすがるため、泥濘の中を這い進み始めたのである。




