第5話「一撃で沈む迷宮の主」
湿気を帯びた空気が重くのしかかり、肺へ送り込むたびに土と古い血の混じったような特有の臭気が張り付いてくる。
リグドールの街から北へ半日ほど歩いた森の奥深く。
古代の地下神殿が埋没したあとに形成されたと呼ばれる地下洞穴迷宮の入り口は、外光を拒絶するように黒々とした顎を開いていた。
カイのかかとが入念に踏み均されていない岩肌に触れるたび、砕けた石灰岩が短い反響を伴いながら下層の斜面へと転がり落ちていく姿が見て取れる。
彼が先導して持ち歩く小さな携帯用魔具の手元灯りは、岩壁にびっしりと生育した発光性の蘚苔類とまざりあい、周囲を弱々しい緑青の色彩で照らし出していた。
その後ろを五歩ほどの間隔を保ち、ルシアは音を立てぬ繊細な足運びで付随している。
解れていた灰色のローブの裾は、昨日カイから渡された数枚の手付け金で新調された清潔な留め具によって丁寧に束ね合わされていた。
淡い銀色の真っ直ぐな手触りを持つ長髪が、彼女が背筋を伸ばして歩く動作のたびに艶やかな波を打ち、かすかな清涼な香りを鬱屈とした洞窟の底へ漂わせている。
ふいに前を歩くカイが短い息を吐いて立ち止まり、背後を振り返った。
暗がりの中でも彼の眼差しは凪いだ湖面のように穏やかであり、恐怖や警戒心という生存競争と関わる色がまったく存在していない。
「足元、少し泥濘のようになっているから気をつけてくれ。先を急ぐわけでもないし転ばないように」
振り返ってきた柔らかい声音に対して、彼女は心臓の奥が甘く収縮するのを感じ取りながら即座に小さくうなずきを返した。
ただそれだけの手短な交歓であるのに、彼女の足裏から這い上がってきていた迷宮特有の不快な湿り気は、すでに温度を持たない別の感覚へと霧散していた。
今まで落ちこぼれとして蔑まれ、一人で森の端材を拾う生活しか許されなかった彼女にとって、こうして誰かのかたわらで存在を是とされ共行すること自体が未知の領域である。
彼の背中へ送る視線は単なる追従ではなく、生涯をかけて観察を許された神域の彫像を見上げるような心地と紙一重であった。
二人が手にした依頼は、冒険者ギルドの規定では本来、白銀級と呼ばれる精鋭パーティ複数が結託して向かうべき深層地域の制圧ならびに生息事象の排除である。
しかしカイの認識ではそれは、少し畑仕事の邪魔な有害物を大掃除するために奥へ向かう程度の散歩から変わりがない。
道のりの最中、数度の魔物の強襲を受けた。
壁面のすき間から跳躍してきた針を持つ蜘蛛の群れや、天井の柱に擬態していた毒蛇の亜種などだ。
それらの全ては、ルシアが指先を構えるよりも早く、カイの視界の中で透明なシステムの糸をほんのわずかにいじられただけであった。
彼の意識内でステータスの生態系適合維持期間という微小な項目が最小値へ下方修正された瞬間、群れは空中で四肢の結合を絶たれ、地面へ落下したと同時に動く力を完全に剥奪されて泥のように床へ沈み込んでしまったのだ。
彼はそれがいかに常軌を逸した生命倫理への冒涜であるかをまったく理解しておらず、その都度少し環境に合わずに弱っていたらしいという的外れな分析ばかりを口遊んでいた。
ルシアの中でのみ、規格外の事象操作を息をするよりも自然に行う彼への畏見とともに、忠誠が強烈な熱を帯びて確たるものとして完成されていくのである。
急勾配の下り坂を越え、ふいにひらけた空洞が視界を満たした。
手元の明かりが届かないほどの広大なドーム状の空間であり、点在する鍾乳石が一際冷たい水分を先端から規則正しく滴り落ちさせている。
床面はかつての祭壇に使用されていたひび割れた黒曜石のタイルに置き換わり、二人の歩む振動以外にも周囲の大気を重く振動させる波長が直接物理的な圧として耳の奥へと響いてきた。
広間の中央から膨れ上がったのは、土煙すら立てないほどにおぞましい軟質の体躯の膨張だった。
体長は優に建物の数層分を超える強大な肉塊。
玉虫色に怪しく反射する硬質な甲殻を無数にまとわりつかせており、八本もの異様に太い多関節の脚が地面と結合するように突き刺さっている。
顔にあたる部位には縦に割れた一つだけの黄濁した傷のある巨大な眼球があり、こちらに向かって悪意の波の強さを網膜へ押し付けてくるかのようだ。
迷宮の最深部に巣食う主であり、数多のベテラン探索者たちの命をすり潰してきた捕食の現行犯がそこに姿を現したのだ。
脚が一歩前に動くたび、空気が潰れて音ではなく鼓膜への激痛となって警告を鳴らす。
これほどの質量を持った暴力に対すれば、通常の戦士であれば呼吸法を乱されそのまま身動きすら封じられてしまうであろう。
ルシアもまた、自己の中に満ちる万能の魔力と同等の自然恐怖によって一瞬だけ身体全体を凍らせた。
しかし彼女が恐怖への迎撃として印を結ぼうとする前に、わずかに体温の高い大きな手のひらが、彼女の背中にある灰色の生地の上部へ滑らかに触れたのである。
振り返る必要すらなかった。
彼女の背後を守りように立つカイの、落ち着きに満ちた平仄があった。
「あれを削り落とすには魔力を多く消費しそうだ。少しばかり火加減を手伝うよ」
彼の指先から衣服を通り抜けてくるのは、肌を通して直に魂の中枢核へ流れ込んでくる温かな光の律動だった。
彼の脳内では、ルシアのステータスに明記された術群放出出力限界と周辺マナ吸引乗数の項目へ指を当て、上の桁をほんの三つほど追加で横へ滑らせた程度の些末な調整にすぎない。
しかし現実世界におけるその物理反映は、一人の人間が保有し運用する生命の法則を世界の神に近い玉座のほうへと引きずり上げる事象変革である。
ルシアの心臓の脈打ちが見たこともない極彩色の力で再燃して回り込み、彼女自身の両手の手のひらが、空間を捻じ曲げるような魔力密度の凝縮の起点へと変貌を遂げた。
眼前の異臭を放つ巨獣が強烈な死を予感し、先んじて数十本の棘を射出するため全身の筋肉を大きく背中方向へと収縮させる。
ルシアはもはや言葉による術の構築すら求められていなかった。
両の手を迷宮の主へ向けてただ前方へかざし、火口として開いた指先から最も初歩の熱量を放つと願うだけで全てが起動したのである。
視界のすべて。
暗雲とした深層迷宮の暗闇全てが、まばたきのはざまにも満たない刹那の内に完全な純白の光線領域へとすり替わった。
轟音すら遅れて消え去るような速度の暴力が空間を削り取って走り抜けた。
ルシアの生み出した魔法は、単純な火線の域を遠く逸脱して太陽そのものの燃焼温度を一時的に地下空間へと実体化させたに等しいものへと拡大していたのだ。
迷宮の主が放とうとした硬質な棘も甲殻の防御も、空気に擦れる隙もなく構成する原子すら耐えられずに一瞬で塵灰となって溶け崩れた。
何分の一秒ののち、巨体が位置していた神殿の奥壁までもが巨大な円形上にえぐり抜かれ、焼けただれたマグマの池となって赤熱の波紋を地面へと垂れ流していくのが確認できる。
直後、空気が熱で膨張したことによる強烈な遅延した風が吹き返してきた。
だがカイが平然と身の前にかざした片手の動きに連動するかのように、風の乱気流は彼らの鼻先で綺麗に二手に割れて後方へと流れて消えたのだった。
そこにはもう標的となるべきいかなる物体の痕跡さえ残っていなかった。
静かに冷たい岩盤を温める赤い熱波の残滓と、高音の響きが耳鳴りになって反響している虚ろな空孔があるのみ。
ルシアは自分自身が体現したこの星を砕くことすら可能な現象をその目で見届けてなお、自らを誇ろうとする様子は微塵も見せなかった。
彼女はかざしていた両手をゆっくりと胸の下のラインへと下ろすと、その場に膝から床へ座り込むような恭礼の動作を取り、視線を足元に落として敬意を示した。
「カイ様のおかげで、すべてが終わりました……。私のこの命さえ燃え尽きるような力、あなたの導きなしには何もありません」
青年はしゃがみ込みの動きを取って彼女の顔の高さまですぐに目線を合わせた。
彼女の濡れを帯びた紫色のまぶたの周囲には、世界に対する安堵と恩人への執着に近い崇拝が混ざって濡れている。
「ちょっと数値を上げて後ろを支えていただけだったのにな。君のもともとの質がいいからここまで大きくなっただけだよ。帰ってきれいなご飯を食べよう」
そう言って彼女の肩のほこりを軽く手で払う。
彼女にとってはそれが、いかなる恩恵よりも深い自らの生を担保される幸福であると全身へ刻まれ直していた。
二人は依頼達成の数多の証さえ残らないほどの完全な焦土を背にして、元来た洞窟の道を同じだけの安らかな歩幅のまま帰りへ向かったのである。




