第3話「底辺から始まる冒険」
辺境の街リグドールを囲む木柵の内側は、活気を帯びた住人たちの声と荷車の行き交う熱気に満ちていた。
王都の整備された均一な石畳とは明らかに異なる場所だ。
大小様々な砂利と荒い土が踏み固められただけの道幅は、馬の蹄や人々の靴底がこすれるたびに乾いた粉塵を風へ向かって舞い上げている。
カイはその粗野で無防備な生活の匂いを肺の奥まで深く吸い込んだ。
立ち並ぶ家屋はどれも丸太を組み上げた重厚な作りが多い。
華美な装飾は省かれ、吹き降ろす風雪への対策として傾斜を大きく持たせた屋根が規則正しく並んでいるのが見えた。
冒険者ギルドの建物は、町の中心部に据えられた二階建ての強固な石造りの施設だった。
厚みのある鈍色の鋼装飾が施された樫の扉を押し開け、カイは室内の空気に身を委ねる。
微かに酸味の混じった麦酒の残滓と、革鎧の手入れに使われる独特の獣脂の匂いが広々としたホールの底に沈殿している。
幾世代にもわたって冒険者たちの重い足さばきを受け止めてきた床板が、一定のリズムで体重に応えながら低い反響を返してきた。
長大な依頼掲示板の前には数十人の荒くれ者たちが腕を組み、割のいい仕事を求める欲望を隠しきれない顔つきで貼り紙を睨みつけている。
受付へ向かったカイは、以前まで首から提げていた鉄身分証のことは口に出さず、未経験からの新たな登録申請として申し出た。
かつての仲間から受けるかもしれない些細な面倒を完全に絶ち切り、静かな一人の流浪人として新生活の方針を固めていたためだ。
硬い木玉を弾くように手際よく書類仕事をこなした女性の受付係は、羽ペンをインク瓶の縁で軽くしごいて署名欄の記入を見届けた。
「本日から当ギルドの登録となりますと、まずは実力測定を受けていただきます。裏手の修練場に向かってください」
受付の係員の業務的で簡潔な案内に短く同意の意を示し、カイは案内された薄暗い通路を抜けて外枠への出入り口へと足を進める。
剥き出しの土と細かい砂粒が混在する建物の裏側の広場では、風抜けの悪さが不規則な空気の渦を作って巻き上がっていた。
壁際には激しい刃の跡を負わされた案山子や、深くえぐられたまま放置されている巨大な石の的が等間隔で数本立ち並んでいる。
広場の中央で苛立ち気味に腕を組み、不健康な顎を前後にゆすりながら待っていたのは試験官である長身の男だった。
表面に使い込まれた削れ跡が何本も走る革の重鎧を着込み、分厚い筋肉で覆われた両腕を周囲へ威圧的に見せつけている。
短く刈り込まれたくすんだ赤茶色の髪をかきむしり、試験官の男はひどく面倒臭そうに吐息をこぼした。
「そこの手槍か木剣、好きなのを選びな。どれだけ動けるかを知るためだけの基本行動だから、骨は折らないように手加減してやるよ」
試験官の男の声音には初心者を適当にあしらう作業へのうんざりとした疲労感が染み込んでいた。
カイは特に武器の調子を確かめる時間も設けず、足元近くの立て掛けられた武具の棚からもっとも重い練習用の木剣を無造作に手に取った。
持ち手部分に巻かれた布の革は乾燥してひび割れており、素手へちくちくと痛みに近い引っ掛かりを与えてくる。
カイはそれに見合った構えをとることもなく、木剣の先端を無防備に下の方向へと下ろしたまま土の上で直立し静止した。
「準備はいいか。三つ数えたら行くぞ。一、二」
試験官の男は宣言を裏切り、三を数え終えるのを待たずに分厚い身体ごと地面を猛烈な勢いで蹴り飛ばした。
筋骨隆々とした体躯からは想像もつかない鋭い跳躍だった。
大気の壁を面で強引に押し破って突進してくる勢いは、単なる新人の力量見極めを明らかに逸脱している。
しかしカイの視界の中で、暴威をともなった時間の流れは極端な泥の遅さへ引き延ばされていた。
眼前に迫る男の胴体のあたりを取り囲むように、光を伴わないシステムの枠線と情報画面が涼しげに立ち上がっている。
男の筋力を跳ね上げていると思われる身体的パラメータを示す欄に、ごく自然に思考の焦点が落ちた。
『少しばかり気合が入りすぎているようだ。このままだと何にも衝突せずに止まれないんじゃないか』
網膜の前を漂う細かな項目の並びを、カイは意識の片隅から伸びる透明な指先のようなもので下方向へなぞる。
男の運動制御を司る筋力値と姿勢制御の数値バランスを、ほんの数点ほど削り入れ替える動作をした。
結果として起きた現実は、あまりにも静かで一方的な現象だった。
試験官の男が片手用の木剣を振り上げながら踏み出した殺意ある左足が、突如として大地の抵抗を一切つかめず摩擦を失ったように空を滑った。
身体全体の出力が武器に乗るまさに数瞬前で、骨格と筋肉の指令系統が不当にちぐはぐな連動欠落を引き起こしたのだ。
武器を前へ叩きつける意図だけが過剰に身体を引きずり回し、残された推進力が制御不能の慣性となって前方へ男を弾き飛ばしていく。
体勢を崩したのとは別の、引力そのものに横から無理やり引き倒されたかのような不本意な転倒。
直後、軌道を狂わせた試験官はカイの右側数十センチの部分をすさまじい速度と風切り音を立てて擦り抜け、そのまま止まる術を見失って広場を囲う堅牢な石壁に向かって一直線に落下沈没していった。
岩盤を素手で砕くようなおぞましいほどの衝撃音が激突点から生まれ、周囲へ無慈悲な破壊の反響をまき散らす。
細かい土埃と破壊された練り石の欠片が防壁の下から煙立つように一斉に吹き上がってきた。
広場の隅を守っていた分厚い直線の壁の三分の一が内側から大きくえぐり飛ばされ、見事なまでに開通した風穴から街道の反対側の空の色が透けて見える状態へと成り果てていた。
「……あ。泥のぬかるみか何かで滑り落ちたのか。受け身も取れずにかわいそうにな。大丈夫か」
強烈な砂埃の中で完全に意識を丸太のように手放している試験官の姿へ向け、カイは手の中の木剣を捨て置きつつ微塵も状況を理解していない呑気な声をかけていた。
◆ ◆ ◆
乾いた壁石の崩落とともに生じた土の細粒が、静電気を帯びたように白日の光を散乱させている。
ギルドの二階に設計された木造の小さなバルコニーで、少し前から身を乗り出していたギルドマスターのレオン・ガルシアは、全身を凍りつかせたまま呼吸を忘れていた。
片手の人差し指と中指の間に挟まれていた高級な嗅ぎ煙草の葉巻が、主の静止に耐えかねたように指をすり抜け下の床板へ乾燥した音を立てて落ちた。
数十の人々へ指示を出しギルドマスターとして重い決断の数々を行ってきた身である。
現在でこそ安全な立場に腰を落ち着かせているが、現役時代には王国の誰もが目を背けたくなるような死線の中枢だけを歩き、無数の魔将の喉元を掻き切ってきた矜持すら抱えていた。
いかなる達人の殺気や常軌を逸した魔法陣の気配であろうと、視界に一度でも入れさえすれば仕組みと速度を即座に分解して理解できる。
その並外れた洞察の極致こそが生存を分かつ唯一の盾だったのだ。
見開かれた彼の両目に残されたたった今の現実は、彼自身の積み上げた数多の理論を手刀の一撃で根元から千切り捨てる未曾有の災厄だった。
眼下の砂煙の向こう側で柔和な歩みを進めているカイという青年。
彼が直前に行った動作はただ木剣を下げて立ち尽くしていたに過ぎない。
突進してきた試験官の質量と魔力負荷のかかった刺突を、かわす素振りも防御するための重心の落下も微塵も行わなかったのだ。
あのまま顔面が粉砕されるに違いないと思いレオン自身が足を踏み出しかけた一瞬のこと。
青年が視界の先、目に見えぬ一瞬の合間に自転の軸を無理やりねじ曲げたかのように、試験官の体の構造的出力が不可解に崩壊を遂げた現象。
レオンの中枢で処理する限り、試験官は青年自身の干渉で吹き飛ばされたわけではなかった。
自らが産み出した最高の加速を、身体が反逆を起こして強引な自滅行動へ置き換えたようにしか見えなかったのである。
何一つ力を与えず、ただ彼に届く前であるから倒れるという法則だけがそこに君臨していた。
相手の意志さえも介在させずに事象の結果の数字だけを強制書換えするような権能。
そのような存在が現実に存在していい道理などはじき出せるはずがない。
気づけばレオンはひどく荒い喘息めいた呼気を喉の奥にへばりつかせていた。
革でできたシャツの背中一面に生暖かい水分が嫌な悪寒とともに広がっていく性質を自覚する。
得体の知れない事象。
いや、歩く神話に出会ってしまったのだ。
下手にこちらの意志で彼の行動へ制限の枠線を設ければ、最悪の場合この集落の人命もろとも空間からごっそりと消去される結果すら免れないのではないか。
彼は乾ききった口内へつばの数滴を無駄にするかのように飲み込み、床に落ちた葉巻も拾わずに一階へと降りる重い足取りを選択したのだった。




