第2話「通りすがりの世界改変」
空を高く覆っていた雲は白く千切れて流れ、強烈な直射日光が乾いた街道の斜面をどこまでも焼き付けていた。
風は乾いた砂と朽ちた葉の死骸を巻き上げ、旅人から無言で水分を奪い去っていく。
カイは簡素な荷物をひとまとめにして、肩の紐を直しながら街道の轍を順番に踏み越えて歩を進めている。
王都を出立してすでに五つの朝焼けを通過したのだ。
自分の歩幅と呼吸だけで完結する旅路の一人旅は、過去のパーティ行動では味わえなかったどこまでも自由で伸びやかな感覚を与え続けてくれている。
野営の火を起こす際にも少し数値をいじって木片の燃焼速度を維持し、冷たい川の水温を少しばかり引き上げて快適な身体の清拭を行ってきた。
足裏に伝染してくる地面の確かな温度を心地よく反芻していた彼だったが、前方から漂ってきた不穏な空気に顔の角度をわずかに変えた。
風向きが急に変わったわけではないが、森を抜けた先に広がる街道の拓けた場所から、血の混じった鉄のようなひどい異臭が押し寄せてきたのである。
カイは早歩きへ移行し、巨大な老木の根元から回り込むようにして視界を前方へ広げた。
そこには四輪の荷車が前輪を外されて大きく傾き、麻袋と木箱が土煙の中で悲惨に散乱している光景が広がっていた。
そこからさらに奥。
中年の太った男と若い従者のような少年が、馬鹿げた恐怖で顔面を無残に裏返したまま身を寄せ合い震えている。
彼らの視線の先、鋭く反り返った岩肌の背後から姿を現したのは、影そのものを編み上げて形を作ったような極めて巨大な獣群の一匹だった。
頭部には深紅の眼球が不規則に三つ並び、前脚の爪は長く伸びて土を大石ごとえぐり取っている。
口元からは粘度の高い唾液が絶え間なく糸を引いて垂れ落ちており、そこから無数の黄色い牙が殺意を込めて研ぎ澄まされて露出しているのが見えた。
周辺を覆う空気が、そいつを頂点とする恐怖の重みで異様に冷たく圧縮されている現象の渦中だ。
魔物が太い首を反らせて大きく口を開放した瞬間、ただの鳴き声ではない凄まじい威力の圧が空間の位相そのものを揺らし、周囲の枝葉を無惨になぎ払って撒き散らした。
商人の男はすでに足の自由を失っており、泥土の上に顔半分を押し付けたまま死をただ受け入れるだけの抵抗なき姿勢を晒している。
カイは荷物を取り落とすこともなく、平然とした一定の速度のまま足を踏み出し、彼らの死角と脅威の距離の間へ静かに割り込んだ。
巨大な獣の視線が、いきなり現れた小さな獲物に移された瞬間。
『荷物も壊されていなさそうだし、少しだけ手を出してやるか』
カイの静かに注がれた水面のような瞳の奥に、その場にいる他の誰とも共有されない半透明の情報画面が明確に浮き上がってきた。
目の前にいる存在の中枢核を表す名前の列。
種族名と個体情報をすっ飛ばし、直下にある体力上限や耐久限界といった純粋な数式の文字列へフォーカスを絞った。
空中のどこかに触れることもなく。
ただ思考の針路を操作する自然な感覚。
現在の最大値が凄まじい高さを誇るその項目の位を、カイは指先の軽いスワイプに似た感覚で限界までえぐるように引き下げた。
それだけだった。
そのあまりにも小さな動作だけが起きたのだ。
獣の中央の最も大きな眼球がカイの姿を認識し、巨大な後肢を踏み込んで飛びかかろうとしたまさにその一瞬。
前触れという前触れは存在しなかった。
跳躍に移る最中、獣を構成するすべての結合部位が、一挙に限界を超えた薄氷のごとく崩壊した。
巨体そのものを前へ送り出すはずの筋肉の太い束が、空中で自らの質量と出力に耐えきれず一切の悲鳴すら許されずに破断していく。
血肉を支える骨という骨が瞬時に本来の何分の一にも満たない脆い素材と切り替わり、飛びかかった姿勢から着地した時点で全身の構造が根元から崩落し泥のように大地へと溶け落ちた。
血飛沫も。
断末魔のはりつめた咆哮すらも大気を汚さなかった。
ただただ命の強度が下限の値を割り込み、重力に従って地面へとペースト状に平たくなっただけの現象がそこにあった。
空中の静寂が何事もなかったかのようにあっという間にその空間の権力を取り戻している。
少し遅れて、崩れた獣の体がただの黒い砂へと還元されて風に紛れて飛ばされていくのが認識できた。
「……ん。なんだ、急に足腰から崩れ落ちたぞ。見掛け倒しの魔物だったのかな」
カイは無造作に腰を曲げ、未だ泥だらけの顔を地面に擦り付けたまま硬直している商人の男の肩に手を伸ばした。
だが中年の男は目を見開いたまま一切のまばたきすら行えず、神殿の最奥で神の降臨を見たような恍惚と恐怖がないまぜの表情でカイの影を見上げているばかりであった。
彼にとって起きたことはあまりに外れた現実だったからだ。
あそこまでの上位捕食者が、ただ現れた旅の青年に近づいただけで内側から砂のように全損した。
まばゆい魔法も強大な武術も存在せずにただ消失が与えられた。
そのような力を持つ者が人間の形をしていることが信じられなかったのだ。
「あ、あの……御柱のご使い様……でしょうか」
震える声と唇の制御に全力を出しながら、その商人はカイのつま先の側に両手を重ねて何度も拝み始めた。
「人違いじゃないか? 俺はただの少し先の街へ向かっている冒険者だよ。あんたらの荷車も無事でよかったな」
カイの手によって差し伸べられた物理的実体に安心したのだろうか、少年の方も泣き崩れながら商人へしがみついて生還の安堵に全身の水分を排出していた。
カイにとって今回の件は、街道の真ん中に転がっていた少し大きな石を脇へ蹴り退けた程度の認識から遠くなかった。
自分の能力がまた少し使い勝手が良くなり、数値を下げたままで便利になったという見当違いの理解のまま結論をまとめる。
荷車の前の落ちくぼんだ轍を少し足でならし、彼らを背にして歩き始める。
背中の荷物を引き寄せ直すと、心地よい繊維の縮む音が耳元に聞こえた。
彼が求めている静かで自由な大地の匂いはそう遠くない先に広がっているような実感があり、風の吹き抜けるその先に向かって足取りはますます軽くなっていった。




