第1話「不要な荷物持ちの旅立ち」
夕闇が王都の裏通りを濃い紫色の影で染め上げている。
石畳の凹凸に沈んだ泥水が傾きかけた太陽の鈍い光を見事に反射していた。
古びた酒場の二階にある貸し切り部屋には、脂の焦げた匂いと安煙草のくすぶる煙が濁った層を作って滞留している。
壁掛けのランプは油が足りないのか、芯の先端で頼りない炎を揺らすだけだ。
円卓の向こう側に座る男の視線は、初冬の夜風よりもひどく冷たかった。
名前はガルド。
大剣を背負って幾多の魔物を打倒してきた戦士である。
彼の着込む分厚い黒鉄の胸当てが無作法に動くたび、金属片が耳障りな摩擦音を立てる。
彼は苛立ちを隠すことなく強く顎をしゃくり、卓の上へ乱暴に両肘を突き立てた。
ガルドの横に座る暗緑色のローブをまとった女性魔術師は、興味を引く対象に値しないというかのように薄い唇の両端を冷たく吊り上げている。
さらに奥の暗がりな角地に身を委ねている短剣使いの男も、口の形をはっきりとした嘲笑の形に歪めているのがわかった。
「今日でここを去ってもらうぞ」
カイは無言のまま、両手で包み込んでいた木杯から顔の角度をわずかに上げた。
揺れるランプの火を受けて、濁った麦酒の表面に波紋がひと筋だけ生まれて静かに消えていく。
「理由は聞くまでもないと思う。しかし形だけでも聞いておくほうがいいか」
「なぜだと。本気で言っているのか。お前のスキルは何だ」
「仲間の能力の把握。それに補給品と荷物の適正な管理だ」
カイは淡々と事実のみを述べた。
彼の声には非難も自嘲もなく、ただありのままの事実を受け入れる静けさだけが寄り添っていた。
それがかえってガルドの無益な自尊心をひどく逆撫でする結果を呼んだようだった。
「たったそれだけだ。我々蒼炎の刃はすでに近隣の領主からも名指しで依頼が入る一級の集団に成長した。お前のその、他人の数字をただのぞくだけの薄幸な力など、血まみれの戦闘においてゴミ屑以下の価値しかない。もうこれ以上、お前のような足手まといに成果を分けてやる余裕はないのだ」
カイは木杯の縁から指をゆっくりと離し、それ以上何も言い返さずに口を固く閉ざした。
彼の網膜の裏、あるいは視界の右隅には、幼い頃から彼自身にしか認識できない半透明の情報の文字列が浮かんでいる。
それは自分や他者が持つスキルと現在の身体状態を克明に示す窓のようなものだった。
前世の記憶という遠くぼやけた残滓を持つカイは、それを別の時代の遊戯に登場する表示画面のようなものだと認識していた。
しかしそこに書かれている意味と、彼が日々の行程の中で無自覚に行ってきた行為は、ガルドたちが決めつけるような単なる観察権限などではなかった。
日常の中で呼吸をするように、カイは仲間の頭上に浮かぶ数字の羅列に意識の糸を伸ばし、不足している値を少しだけ押し上げていた。
例えば、ガルドの腕力を示す指標の桁にほんの小さな光の点を加える。
するとたったそれだけの改変で、ガルドの剣撃は大岩すら両断する規格外の破壊へと変貌したのだ。
魔術師の女性の横にある魔力回復速度を一つ上の段階へずらす。
彼女は息切れひとつせずに軍団規模を燃やし尽くす猛烈な炎を幾度でも放てる特異点となった。
だがカイにとっては、これらの行為は手が塞がっている仲間の代わりに荷物を肩代わりする程度のささやかな補助でしかなかった。
視覚的な魔法陣が現れるわけでもなく、世界の空気が震えて奇跡が顕現する兆しもない。
結果として発揮される超常的な力は、当人たちの日々の修練と生まれ持った才能がやっと開花した証であると誰もが信じ切っていた。
事実として自分の力だと気づかれないこと自体には何の不満も葛藤も芽生えなかった。
だがこうして無能の烙印を額の中央に押しつけられ、一方的に関係の切断を言い渡されるのならば、ここに留まる理由は砂粒一つ分も残されていない。
「わかった。すぐに自分の荷物をまとめる」
「ああ、早くしろ。目障りだ」
カイの決断があまりにも早かったことに毒気を抜かれたのか、ガルドはそれ以上追求の言葉を並べるのをやめた。
カイは立ち上がることなく、テーブルの中央付近へ今まで身分証として帯びていた銀色の小さなプレートを置いた。
指先がその金属の温度から完全に離れた刹那。
プレートの真上を漂っていた不可視の法則の繋がりが、細い糸のようにふっと音もなく切断された。
カイの支援という大きな防壁を失った空間には、彼にしか見えない薄白の粒子が霧の間を縫うように溶けて消えていく。
ガルドは吐き捨てるように鼻を鳴らし、乱暴な手つきでそのプレートを手元へ引き寄せようと腕を伸ばした。
しかし次の瞬間。
男の分厚く大きな右腕が一気に軌道を落とし、椅子の古い木製の肘掛けに無惨な姿勢で激しく叩きつけられた。
ガルドの荒々しい顔の表面に、信じられないものを見たとき特有の一瞬の空白がよぎる。
肉体の感覚がひどく乖離し、自分自身の太い骨格と付着した筋肉が突如として他人の重い泥へすり替わったような錯覚に襲われたのだ。
鎧の重量は一切変質していないにもかかわらず、その圧力は彼の中に残された本来の力なき身体を無慈悲に押し潰しにかかった。
だが男は何かが起きたと考えを及ぼすような繊細さを持っていなかったため、顔を紅潮させて強引に腕の筋肉を引き絞った。
「ちっ。二日前の連戦で少し疲労が溜まっているようだな」
本気でただの寝不足としか認識していない男の横で、魔術師の女もなぜか周囲の空気が急速に薄くなったかのように首元を手で押さえた。
彼らは自分自身がいかに矮小な器のままであったかを理解する知能を持ち合わせてはいなかった。
自分たちに向けられていた世界そのものの寵愛が消え去っただけのことだ。
カイは手短に席を立ち上がり、座面の上に置いていた質素な布製の鞄を持ち上げた。
皮の肩紐が首の付け根に摩擦熱を与えながら馴染む。
「短い間だったが、色々と教えてもらい世話になった」
「とっとと失せやがれ。二度とおれたちの目に映るところへ顔を出すな。もし次の街で見かけても命の保証などしないからな」
背後から投げつけられた罵声を壁のように背負いながら、カイは迷わず直進する足取りで部屋の扉を目指した。
錆びつきかけた金属の取っ手を引き、部屋の中に滞留していた淀んだ空気の塊をまるごとそこへ遺して外へと出る。
木造の古びた階段を踏み締めて降りていく。
軋む音が心地良いリズムとなって彼の背中へ拍手のように続いた。
酒場の入り口を横切って外へ踏み出すと、夕方から夜にかけての特徴的な鋭い風が額の布地を払い除けるように頬をなでていく。
湿り気を含んだ足元の石畳から立ち上る土くれの匂いと、大通りの屋台から漂ってくる香ばしい獣肉の焼ける匂いが鼻腔をくすぐった。
数年間にも及ぶ同じ者たちとの寝食という柵からあっけなく解放され、心の中で重しになっていた錨が外れたような浮遊感がある。
街の影がどんどん長くなり、月がその輪郭を空の中心に向けて主張し始めた頃合い。
カイは正門を目指して歩幅を意識的に広げて前進する。
警備の厳重な内郭を抜け、冒険者たちが最後に振り返る壁門へたどり着く。
そこには長年見知った顔である老兵がひとり、重そうな馬上槍の石突を地面に固定させて手番の眠気に耐えていた。
近づいてくる青年の姿を認めた老兵は、目尻を下げて片手を軽く上げる。
「よおカイ。こんな遅い時間にどこへ向かうつもりだ」
「少し遠出をしてくるよ。この門はもう二度とくぐらないかもしれない」
「ほう。あんたほどの真面目な働き者がいなくなると、こき使っているおれの隊舎の連中も少し寂しがるかもしれないな」
冗談めかしつつも幾分かの労わりがこもった響きを持つ言葉に、カイは目を細めて短く息を吐いた。
周囲の人々の彼に下す評価は、堅実でよく働く裏方の若者という位置から一度として動いたことがない。
彼自身から周囲へ自分を過大に見せようとする意図もまったくなかった。
老兵は重い金属の鍵束を取り出し、鉄格子に組み込まれた小さな潜り扉の南京錠を外す。
「気をつけてな。日が落ちた街道の先には碌でもないものしか転がっていないからな」
「忠告に感謝する。元気で」
巨大な門の横にあるその一人がすり抜けられる程度の小さな出入り口から、カイはついに王都の外側へ属する荒野へ足を踏み入れた。
夜空の色はどこまでも深く透き通った蒼色に沈み、遠くに見える高い山々の端に冷え切った冬の月光が横たわっている。
乾いた軍靴の底にまっすぐに反発してくる土の柔らかさを味わいながら、彼は身体全体を使って大きく背伸びをした。
首から肩甲骨にかけての継ぎ目が連続して心地よい音をひとつ立てる。
これからは誰の機嫌も取り繕わず、自分の好きに場所を定めて種をまき、ただ静かに土を耕して生活圏を築き上げよう。
前世にあった記憶の片隅が囁く自分だけの土地で作物を育てるという安らかな望みを果たすため。
彼は未だ見ぬ北の辺境を目指して、確かな一歩を新天地の土の上へ刻み込んだ。




