第11話「畑を守るための無双」
北方向の山脈を下る何色ともしれぬ不浄の渦が、地形そのものの起伏を直接削り取るように平野部へ迫っていた。
魔将に率いられた先遣隊の騎兵獣と、上空を覆い隠す巨大な飛行魔獣たちの数は優に三万を越えている。
それらは過去の記録においても、人間の築いた大都市を半日で焦土に変えるほどの絶望の権化であり、大地からは岩を砕き泥水を巻き上げる音が大気を震わせて絶え間なく押し寄せてきている。
逃げ場のない広野に形成された仮設市街では、数分前まで談笑していた商人と難民たちの膝が抜け、自らの命運が秒読みの段階に入ったと涙と嗚咽を漏らして伏し拝むしかなかった。
だがその巨大な破滅の中心、麦の穂が波打つ小路の端で、カイだけが平然と立ち尽くしたまま小さな木の柵に手をかけている。
彼の視線の先に見えるのは、自分たちが数日をかけてやっと形にしつつある小さな営みを荒らしにきた、山からの害獣たちの群れでしかなかった。
「……さすがにこのまま通すわけにはいかないな」
少し離れた距離にいる数万の巨獣兵たちの姿に対して、彼は自らの指先を虚空へ軽く差し伸べる。
カイの中枢の眼を通して見えているのは、眼前の生物全体をつなぎ合わせている共通の生命と魔力連帯をまとめた単一点のウィンドウだ。
彼らに適用されている各種の戦闘力や防御結界といった幾重もの数字が、彼に向かって赤々と表示を展開している。
『少し範囲を広げて追い払うだけだから、彼らの集団的活動力を一回下限で止めておこう』
彼は透明な情報板にある生命活動係数と前進への動力を示す赤い帯を、人差し指と中指で挟み込むようにしながら一番下のゼロの位置へスッと指先を降ろした。
それほど特別な意思は介入していない。
大きな木陰から虫を少し手で払いのける程度の、感情の伴わない自然な整理の一環に過ぎない行動だった。
彼が指を下ろしたまさに直後、北方の平野を埋め尽くしていた漆黒の物理的威圧感が、音速すら置き去りにして一つの例外もなく全規模単位で自壊を引き起こしたのである。
世界の理がカイの指先の些細な上下によって完全に逆転の法を指定された。
強靭な騎兵の魔刃が、巨獣の厚き甲殻が、上空をしならせていた巨翼の骨格筋が。
悲鳴や断末魔をあげるための数ミリ秒すらも存在を許容されなかった。
数万の群れが空の彼方から落ちてきた水滴が一瞬で乾くように、足元から頭頂に至るまでのすべての存在証明の結合を解かれ、土にさえ還ることができない透明な空気へと一挙に還されたのである。
彼らの持っていた魔法のチャージや、最前線の者が放とうとしていた強大な炎の束でさえも。
神話をも喰い破る無自覚な一瞥の操作によって、ただの幻視として因果ごと切り捨て去られた。
一切の音を立てることなく。
ただ大地の向こう、数瞬後に吹いてきた風がそこには最初から何もいなかったように広大な青空だけを平たく再配置したのだった。
吹き戻してきた微粉の土煙すら上がらないほど無垢な空間。
少し前まで大気自体を汚染していた黒雲は完全に晴れ渡り、空には純白の雲が静かに流れている以外、北の方角には岩の起伏ばかりが元通りに残されているだけとなった。
数多の難民たちは悲鳴を上げる喉を半開きのまま硬直させている。
あれほどの数が、自分たちに向かって一切の傷跡を残さず誰が戦うこともなく消滅させられたという事実への理解が、人という限界の器で受け止めきれるはずもない。
だが彼らの震える目の先には、麦の一本も踏ませることなく平穏を取り戻した場所で、ただ首の後ろをかいている一人の青年の影だけが太陽を背にして立っているのだ。
「ずいぶん驚いた顔をして逃げていったな……ちょっと大声を出しすぎたかもしれない。まあ、怪我がないみたいでよかった」
彼が行った世界の切除と事象の全損行為に対する認識の齟齬は、もはや恐怖よりも呆れに近い滑稽さを帯びて空間を満たしている。
ルシアだけは彼のその不可侵の奇跡を見上げ、言葉すら挟むという不敬を自分に許すまいとその場で見えざる大冠を捧げるように両手を胸の前に深く組んで膝を折っていた。
少し離れた結界内の王都市民や旅人たちもまた、あまりにも不条理な恩恵を与えられたことで、ただ滂沱の涙とともに地鳴りのようにつぶやきの祈りを青年に向けてうみだし始めていたのだった。




