第10話「忍び寄る魔の大軍勢」
雲が晴れ渡り、風のない静かな午後であった。
開拓村、と呼ぶにはすでにおこがましくなった巨大な領地の様相を呈している中心部で、カイはいつものように青々とした作物の列の合間にいた。
彼の手で植えられた種は、通常であれば一回りするのに季節の恵みを何度も待つ必要があるはずだが。
生命法則のパラメーターに微小な下方修正という名の改竄を加えた影響により、播種から二日で結実と甘美な香りを放つ極上の実をつけるのが常態化していた。
その恩恵を口にしたかつての周辺地域の難民たち。
そしてリグドールの街からその噂を聞きつけ商機を見出そうと流れ込んできた行商人や冒険者たちが、すでにこの結界のふもとに百を超える天幕や仮設店舗を展開して一大国家の前線のような賑わいを見せ始めている。
カイ自身は勝手に周囲で休んでいるだけの旅人だろうから、おすそ分けくらいはしてやろうといった的外れの認識により彼らへの害意ある結界指定を解いてしまっていた。
その結果が、人々にとって彼を神聖なる救済の王として一方的に崇める自然発生的なコミュニティの形成に拍車をかけたのだ。
真っ白な生地のひだをきれいに保ちつつ、ルシアがお盆の上に数杯の冷たい水盃を乗せて彼のもとへと近付いてくる。
「カイ様。南の方の旅人たちが、また新たな貢物と感謝の祈りを捧げるための祈祷所を作り始めたそうです。よろしければ、あなたから何か彼らの信仰へ報いる言葉をいただけますか」
真顔で恐るべき宗教指導者もどきのお願いをする彼女に対して、カイは麦わら帽子を指で持ち上げて首を振る。
彼の手にはクワではなく、虫の寄り付きにくい小さな赤い花を一輪つまみ上げられていた。
「別に俺は何にもすごいことはしてないし。土をいじってご飯を配っているだけだ。彼らにも自分の家ならゆっくりさせてやればいいさ」
ただそこにあった自然な気遣いを返しただけの彼の言葉。
だがルシアにとっては、それが自らの威光に驕らぬ至高の王の愛し方として、さらなる熱量の忠信へ彼女の肺葉を燃え上がらせるばかりである。
そのとき。
彼らのいる平和な日差しの下とは対照的に、北方の山脈の端から押し出されるように這い上がってきた異変が存在していた。
山肌を覆い尽くしていた常緑の針葉樹林の一角が、上空から黒く腐敗した汚泥のように侵食されていく。
そして、その奥から大地の震動をともなった何千ものひび割れるような行進音が響き始めたのである。
立ち上る紫色の邪気。
魔王軍。
人類圏から遠く切り離された極点にのみ生息し、独自の進化と暴力的な位階によって世界を蹂躙するはずだった軍勢の一部。
彼らは人間の作り出す貧弱な領土よりも、この強烈な星の活力を放ってしまったカイの土地を最高の戦略心臓として察知したのだ。
侵攻してきたのは名のある魔将を先頭に立たせた数万におよぶ先遣隊の騎兵である。
空を覆い尽くすほどの黒灰の飛行獣の群れがあり、地面からはあらゆる硬岩をかみ砕く顎を持つ重甲殻獣の怒号が周囲の地形自体を物理的に削り取りながら前進してきていた。
それほど遠くない距離。
数キロ以内に迫る逃れられない死の到来。
商人も難民も、結界の内側にいるためその迫りくる外敵の巨大な牙を見ることで、絶叫にも似た恐怖を喚き始めてしまっている。
彼らがどんな壁にいて守られていようと、これだけの数と武力が結集して向かってくる地鳴りは、精神を根元からちぎって破るような圧迫があったのだから。
しかし、当の真ん中。
畑の中心。
カイはその黒い群れが山から滑り降りてくる様子を麦畑の列の端に立ち上がりながら淡々と見つめていただけだった。
「うーん……また大きな動物の群れが餌を求めて押し掛けてきちゃったのかな。ここらで収穫する前の大事なものがたくさんあるのに。踏み荒らされたら、せっかくの農場づくりが進まない」
彼は軽く腰の埃を払い、一歩だけ自分の境界の最前部である小さな木の柵の前へと踏み出したのである。
それによって軍勢から押し寄せる熱線の魔法が何一つ届くことのない静かな位置。
「カイ様……。私が出向いて、すべての前方を消しても構いませんが」
ルシアの手が杖に触れ、彼女自身の全身が紫電の魔力を静かに高密度に滞留させ準備をする。
一言の命令でもあれば本当に全てを焼き払うだけの力に満ちていたのも事実であった。
「いや。ご飯を食べに来たなら帰ってもらうように説得はするべきだけど。さすがにこの数は柵の前に固まられた後の掃除も大変だろうから、ちょっと早めに俺のやり方で向こうまでお帰り願おうか」
カイの瞳の奥はどこまでも澄み切ったガラス細工のように落ち着いていた。
彼の手のひらが、視界の中に広大な横並びとして表示させられた魔軍全体のステータス表記に向けて。
ただ一つ、指を使って一番下の赤い対象範囲指定の一掃の方程式へむけて触り直そうとした。
彼にとってそれは、本当に害虫を取り除く程度の煙を焚いて森へ返すような思い込みなのである。
それによって結果的にこれから北の地形ごと一挙になくなる光景がいかに人類の歴史の中枢で大書されることになるか、彼は一切知るよしもないまま決定の指を下ろしたのだった。




