第二話 ワキガ、少女に出会う。
もう一時間は歩いただろうか。
乾いた喉をコーラで潤したい。
できればキンキンに冷えたエナジードリンクも一本。
……それと、柔らかいベッドで昼寝したい。
そんなことを考えながら歩いていると、不思議なことに気付いた。タバコを吸いたいという欲求だけは、綺麗さっぱり消えていた。
足元はどこまでも続く草原。
上り坂、下り坂。
柔らかい土は想像以上に足を取られる。
「アスファルトって、偉大だったんだな……」
文明のありがたみが、ふくらはぎに染みる。
小学生の頃、ランドセルを背負って歩いた通学路を思い出しながら、俺は黒煙の立ち昇る方角へ歩き続けた。
「そういえば……異世界といえばステータス画面だよな。」
右手を前へ突き出す。
「ステータス。」
…………。
何も起きない。
「オープン。」
…………。
「ステータス・オープン。」
沈黙。
「……念じるタイプか?」
何度試しても空中には何も現れなかった。
「そんな都合よくチート能力なんてもらえるわけないか。」
昔から俺は楽観的すぎる。それが良くも悪くも俺だった。
三十分ほど歩いた頃。煙の正体がようやく見えてきた。
「あれは……村か。」
木造の家が十数軒。
日本家屋でも、西洋建築でもない。
ゲームで見たことがあるような素朴な集落だった。
中央には、ひときわ大きな白い建物が建っている。
「教会……?」
だが、様子がおかしい。
家の半数近くが焼け落ち、黒く煤けた柱だけが残っていた。
焦げ臭い匂いが風に乗って流れてくる。
火事じゃない。
襲撃の跡だ。
人の姿は見えない。
静かすぎる。
その時だった。
ドドドドドドドッ──。
地面が震えた。
蹄の音だ。
反射的に村の外へ飛び出す。
土煙の向こうから、五頭の馬が一直線にこちらへ向かってきていた。
「助かった……!」
やっと人に会えた。
事情を説明すれば助けてもらえる。
そう信じて駆け寄った。
だが、その期待は一瞬で砕け散る。
馬上の男たちは全員、剣を抜いていた。
「生き残りだ!」
その一言で理解する。
助けじゃない。
狩りに来たんだ。
「やばい!」
俺は慌てて両手を上げた。
「待って! 降参! 助けてくれ!」
先頭の男が剣を振り上げる。
「死ね!」
その瞬間だった。
男の動きが止まる。
「……っ」
顔を歪めたかと思うと、そのまま馬から崩れ落ちた。
「え……?」
続く男も。
また一人。
さらに一人。
最後の一人も。
まるで糸が切れた操り人形のように、次々と地面へ崩れ落ちた。
悲鳴はない。
断末魔もない。
草原には風の音だけが残った。
「……何だ?」
恐る恐る近付く。
全員、白目を剥いて倒れていた。
息はしていない。
「魔法……?」
無意識に何か発動したのか?
防御魔法?
毒魔法?
いや、俺は何もしていない。理由は分からない。
だが、生き残った。それだけは事実だった。
「悪いな。」
俺は男の腰から剣を外す。
護身用だ。
魔法がいつでも使える保証はない。腰のポーチを探ると、銀貨が七枚。銅貨が十二枚。乾燥した薬草らしき束も入っていた。
「ハーブ……か?」
この世界の貨幣価値は分からない。
だが、ないよりはいい。
倒れた男たちを見下ろえる。
人を殺した……のかもしれない。
それでも罪悪感は湧かなかった。
運が悪ければ、殺されていたのは俺だ。
そう思うと、同情する気にはなれない。
「そうだ。」
村の中央にあった教会。
「あそこなら、この世界について何か分かるかもしれない。」
教会の扉をゆっくり押し開ける。
ギィ……。
高い天井。
青と黄色のステンドグラスから柔らかな光が差し込んでいる。誰もいない。
……そう思った。
「っ!」
祭壇の前に、小さな背中があった。
少女だ。
「こんにちは。」
肩がびくりと震える。
しまった。日本語は通じるのか?
少女は恐る恐る振り返った。
雪のように白い髪。
透き通るような白い肌。
赤みを帯びた虚ろな瞳。
十秒ほど、沈黙が流れる。
やがて少女は、小さく口を開いた。
「……あなたは?」
鼻にかかった、少しかすれた声。
――通じた。
「俺は……ユ……ユウ……」
名前が出てこない。
喉まで出かかっているのに、その先が思い出せない。
(……なんでだ?)
自分の名前なのに。
まるで、その先だけ誰かに切り取られたように思い出せなかった。
「……ユウだ。」
辛うじて口にできたのは、その二文字だけだった。
少女は小さく首を傾げる。
「……リャーナ。」
「君の名前?」
少女は小さく頷いた。
聞きたいことは山ほどある。
ここはどこなのか。
この村で何があったのか。
俺はなぜ、この世界へ来たのか。
それは、これから少しずつ知っていけばいい。
だが、この時の俺はまだ知らなかった。
異世界で最初に出会った少女、リャーナは──
重度の鼻づまりだった。




