第一話 先輩ワキガじゃないっすか?
「……先輩。」
「ん?」
「ワキガじゃないっすか?」
……
…………は?
三十六年生きてきて。
人生で一番衝撃だった言葉は、この一言だった。
「……は?」
聞き間違いだ。
そうに決まっている。
「今、なんつった?」
俺が聞き返すと、向かいに座る後輩は気まずそうに目を逸らした。
「いや、その……。」
「気のせいならいいんですけど……。」
「先輩、ちょっと臭うっす。」
空気が止まる。コンビニ前のベンチ。夕方の住宅街。車の音だけがやけに大きく聞こえた。
俺は三十六歳。世間では「広告代理店の社長」ということになっている。もちろん嘘だ。本当の俺は、無職。朝までソシャゲをして、昼に寝る。夕方に起きて、また朝までゲーム。そんな生活を何年も続けていた。ブランド物で固めた服装も全部コピー品。高級時計も財布もスニーカーも、本物じゃない。本物なのは、見栄だけだった。それでも、自分だけは特別だと信じていた。
だから今日も、昔から可愛がっていた後輩を呼び出した。理由なんてない。昔話をして、少しだけ優越感に浸りたかっただけだ。ただ一つ、いつもと違ったことがある。昨日から風呂に入っていなかった。忘れていたわけじゃない。面倒だった。ここ数年、そんな生活が当たり前になっていた。だから、その日も特に気にしていなかった。
「……で。」
俺は恐る恐る口を開く。
「冗談だよな?」
後輩は困ったように笑った。
「いや……。」
「マジっす。」
「結構、キツいっす。」
頭が真っ白になる。
ワキガ?
俺が?
三十六年間、一度も言われたことがないのに?
家族にも。
昔付き合っていた彼女にも。
いやいや。そんなはずがない。
「証拠見せろ。」
「臭いに証拠はないっす……。」
「じゃあ俺が確かめる。」
後輩が「やめた方が……」と言いかける。俺は聞かなかった。右腕をゆっくり持ち上げ、顔を近づける。
「そんなわけ──」
スッ。
そして。
「────ッ!!」
鼻の奥を突き刺す、強烈な刺激。
言葉では表現できない。
頭の芯まで焼かれるような異臭。
本能が叫ぶ。
――吸うな。
「ぐっ……!」
視界がぐにゃりと歪む。立っていられない。
耳鳴り。
吐き気。
世界が真っ白になり──
俺の意識は、そこで途切れた。
◇ ◇ ◇
「あれ……?」
風が吹いている。
草の匂いがする。
背中には柔らかな土の感触。
ゆっくりと目を開ける。
青空。
白い雲。
見渡す限りの大草原。
「……は?」
思わず起き上がる。
建物はない。
道路もない。
電柱も信号もない。
あるのは、果てしなく続く草原だけだった。
「ここ……どこだ?」
頬をつねる。
痛い。
夢じゃない。
夢であってほしい。
その時だった。
遥か彼方。
黒い煙が一本、空高く立ち昇っているのが見えた。
「なんで見える……?」
俺の視力は〇・二。あんな距離が見えるはずがない。しかも身体まで軽い。階段を上るだけで息切れしていた俺とは思えないほどだ。十分前までコンビニにいた。それから...自分の脇の臭いを嗅いだ。そして今、草原にいる。
「……異世界?」
ネット小説で何百回も見た展開が頭をよぎる。いやいや。ワキガで異世界転生なんて聞いたことねぇぞ。
「……行くしかないか。」
俺は煙を目指して歩き始めた。
この時の俺は、まだ知らない。
異世界へ転生しても。
剣や魔法を手に入れても。
前世から唯一引き継いだ能力が――
ワキガだったことを。




