別れの風景1 義弟(おとうと) その1
猫はご主人様の前で泣いたことはなかった。
泣きたいときは、声を殺して隠れて泣いた。
ご主人様も、猫の前で涙を流したことはなかった。
もうご主人様を護る気持ちも、傍にいたいという気持ちもなくしかけていたので、
目を合わすこともほとんどなくなっていた。
何か話しても、ちゃんと聞いてくれてはいない。
話すこともなくなっていた。
ご主人様が猫に話すこともなかった。
後片付けをして部屋に戻ると、テレビを観てたご主人様と目が合った。
とても不機嫌な顔をしていたので、
「なんでそんな顔するの。」
と、負けずに不機嫌な顔と声で言ってしまった。
途端に、ご主人様の目から涙があふれ出した。
なんで?
なんで泣くの?
猫は慌てた。
何があっても泣かないご主人様が泣いてる?
猫のせい?
猫が不機嫌な声で訊いたから?
差し出されたタオルを受け取りながら、ご主人様はテレビの画面を指さした。
そこには、死にゆく弟を兄が見送る場面が映っていた。
ノンフィクションの番組だった。
「可哀想だ。あんな風になったら・・」
弟。
弟のためなら、涙がでるんだ。
・・どこまでいっても、『家族』が大事、か。
ご主人様の弟。
6つ年下の義弟。
初めて会ったときは、小学生だった。
柔らかいさらさらの髪をしていた。
高校を卒業して、バイクの免許を取ったからと、猫を後ろに乗せたがった。
突然遊びに来て、漫画を読みあさったまま寝てしまっていた。
鍋の中身を、
「どれが食べたいの?」
と、いつも取り分けてくれた。
「お義姉ちゃん!」と、いきなり抱きついてきた。
義弟は、小さい頃から『おとうと』だった。
ずっと『おとうと』だった。
あれは、義弟が高校生の時だった。
バイト代が入ったから、セーターを選んで欲しいと言われ、一緒に出掛けたことがあった。
あれは?これは?と選びつつ、広げて義弟に見せると、
彼は選ぶ手を止め、その都度鏡の前に立ち、あててみていた。
その日は平日の午前中で、おまけに雨が降っていた。
他にお客さんも見当たらなかったので、暇をもてあましていたのだろう。
女性の店員さんが二人、ニコニコと寄ってきて、色々勧め始めた。
義弟が愛想良く振る舞っていたので、店員さんも益々あれやこれや勧める様子。
それぞれ手に持って、義弟の体にあてたりしている。
そして、気がつくと何故か、義弟と猫の間に割り込んでくる。
あまり気にせず選んでいると、義弟に似合いそうな形と色のセーターを見つけたので、
「これは?」
と、渡そうとした。
「ああ!そんなの!それよりこっちの方がいいわよ!」
と、ナチュラルにダメ出しをされ、割り込まれてガードされ、渡すことができなかった。
うーん、どうしたものか。
セーターを差し出したまま、一瞬途方に暮れたが、
仕方なく元の場所に戻し、その場を離れた。
まぁ、猫が選ぶより、プロが選んだ方が確実だろう。
他の場所でジャケットを見ていると、
「なんでいてくれないんだよ!」
の、抗議の声。
なんでって、と、思いつつ振り向くと、
目の前にあったのは、渡せなかったセーターだった。
そのまま目線を上げると、義弟のむくれ顔。
ああ、
こんなに大きくなったんだね。
改めて思う。
でも、
そのむくれ顔はかわらないんだね。
小さい頃のままだ。
むくれ顔とセーターを交互に見ながら訊く。
「それ、買うの?」
「うん。」
「あててみた?」
「うん。」
「よかった?」
「うん。」
「そっか。」
「うん。
それより、なんでいなくなっちゃったの?
一緒に見て欲しかったのに。」
「いやぁ、店員さんがガードして近寄らせてくれなかったから。
それに、プロの方がセンスいいし。」
「あんなのいいんだよ!
だから、一緒に見てよ!」
気がつくと、義弟のもう片方の手にも猫が選んだセーターがあった。
まさか、全部買う気じゃなかろうね。
まさか、ね。
手をひく勢いの義弟に引っ張られるように移動していたのですっかり忘れていたが、
これも似合いそうと手に取ったジャケットを持ったままだったことに気がついた。
「もう〜!『邪魔だからあっち行って!』って言えばいいんだよ。
意地悪されたんだったら余計にさ。」
と、言いながら振り向いた義弟に
「そんなん言えないよ。」
と、応えつつ、
「こんなのもあったよ。義弟ちゃん見てたパンツに合いそう。」
義弟が持つセーターの上にジャケットを乗せる。
「そんなに金ねぇ!」
いや、全部買う必要ないから。
気に入ったのだけで。
しかし、義弟はほとんど全部を買った。
レジでお金を払う義弟の背中を見ながら、
バイト代って、いくら入ったんだろう?
ちょっと出してあげたいけど、ねぇちゃんも金がねぇ!
ごめんよ。
心の中で、手を合わせた。
猫は
義弟が好きだった。
イケメンで、店員さんも服を選んであげたくなるような義弟が自慢だった。
なのに、ちょっとクールで生意気な義弟が自慢だった。
それでいて、猫には優しくて、甘えっ子なところが好きだった。
本当の弟のように好きだった。
それが、今は、
憎いのか、好きなのか、
許せないのか、許してしまえるのか、
わからなかった。
ただ、ご主人様を護るためなら、義弟に嫌われても仕方ないと思っていた。
それほど、ご主人様が大切だった。
ご主人様が、何よりも大切。
今は、その気持ちも、無くなりかけている。
画面に涙するご主人様を見ながら、猫は思う。
ご主人様は、猫がいなくなったとき、あんな風に泣いてくれるのだろうか。
、と。




