第20話 浅野、お前……今、何やってるんだ?
その日の朝が、始まりだった。
タダシが湯を沸かそうと挽き器を出した瞬間に、最初の一人が来た。
「浅野さん! 次、経理お願いします!」
「いや、人事が先です!」
「物資課からも相談が来てます!」
「地方支部から、浅野さん指定で三件!」
器に湯を注ぐ暇もなかった。
「タダシさん、大人気っすね!」
ニコが、なぜか誇らしげに言った。
「喜んでる場合じゃありません」
フィナが立ち上がった。
タダシは、挽き器を置いて考えた。
「じゃあ、午前中に経理を見て、そのあと人事に行って、昼から物資課に——」
「駄目です」
「え?」
フィナが、一枚の紙を机に置いた。
予定表だった。
「午前は地方支部の関連です。昨日から止まってるのが四件あります。午後は総務課。経理は明日の午前。人事は明後日です」
「もう決まってるんですね」
「決めました」
「私の予定、完全にフィナさんが決めてません?」
「決めないと、全部引き受けるでしょう」
「そうっすよ!」
ニコが横から言った。
「タダシさん、頼まれたら全部『はいはい』って言うじゃないですか!」
「二対一ですねえ」
昼前、別の部署の職員が直接タダシの机に来た。
「浅野さん、ちょっとだけいいですか。十分で終わるので」
「はい——」
「内容を、先に私へください」
フィナが間に入った。
「え?」
「緊急度を確認して、空いているところに入れます。十分で終わる話でも、一日に十件来ると二時間です」
職員が、少し面食らった顔をした。
「……浅野さんの秘書の方ですか?」
「……補佐です」
「右腕っす!」
ニコが割り込んだ。
「あなたは静かにしてください」
職員は用件を書いて置いていった。
タダシは、その一部始終を見ていた。
「助かりますねえ」
「本当にそう思ってます?」
「思ってますよ。自分で全部覚えてると、忘れますから」
午後、廊下で捕まった。
経理の課長だった。あの中年の女性職員の上司にあたる男だ。
「浅野さん。総務じゃなくて、うちに来ません?」
「え」
「本気です。うちの帳簿、三年分の付け方が課員ごとに違うんですよ。あなたが来たら、半年で揃う」
「いや、あの」
「うちに欲しいんですがね」
通りかかった物資課の主任が、足を止めた。
「倉庫の回し方を見てもらいたい。あれこそ浅野さんの領分でしょう」
「地方支部の案件が分かる人ですよ」
地方統括の職員まで寄ってきた。
「こっちに決まってるでしょう」
「タダシさんは渡しませんよ!」
ニコが両手を広げて立ちはだかった。
「あなたが決めることじゃありません」
フィナが、その襟を掴んで引き戻した。
その横を、次長が書類を抱えて通りかかった。
「だから、業務改革担当なんでしょう」
三人が、同時に黙った。
「総務課に籍を置きながら、どこの課も見る。そのために殿下が作った役職です。取り合わないでください」
次長は、それだけ言って歩いていった。
経理の課長が、小さく舌打ちをした。
「……うまいこと言いますね」
その後も雷の魔法で少しずつ充電していたスマートフォンが震えたのは、夕方だった。
鞄の中で、小さく音がした。タダシが取り出すと、画面に見覚えのある番号が出ていた。
「あ。前の会社ですね」
「またですか?」
フィナが顔を上げた。
タダシは指を滑らせて、耳に当てた。
『浅野!』
部長の声だった。前より、ずいぶん低かった。
『頼む。少しでいい、話せないか』
「はい」
『この前の話なんだが、一度でいいんだ。一日、いや、半日でも』
受話口の向こうで、何かをめくる音がした。
『分からないことが多すぎる。引き継ぎの書類は出てきたんだが、どういう順番でやるのか、誰に確認すればいいのか、それが——』
そのとき、部屋の向こうから声が飛んだ。
「浅野さん! 経理、明日の午前で大丈夫ですか!」
「大丈夫です」
タダシが、受話口を手で覆って答えた。
「人事の方も、明後日で調整つきました!」
「お願いします」
「地方支部から、浅野さん宛てで追加が二件です!」
「タダシさーん! 次どこ行けばいいっすか!」
タダシは、手を戻した。
「すみません。何でしたっけ」
返事がなかった。
『……人事?』
「はい?」
『経理?』
受話口の向こうが、静かになった。
紙をめくる音も止まっていた。
『浅野』
部長の声が、少し掠れていた。
『お前……今、何やってるんだ?』
「ああ」
タダシは、いつもの調子で答えた。
「今は——」
彼は、机の上の任命書を見た。
「総務課兼業務改革担当という役職で、やらせてもらってまして——」
ぷつり。
画面が黒くなった。
タダシは、しばらくそれを見ていた。
「……また切れましたねえ」
「また一番いいところで切れましたね」
フィナが、笑いをこらえて言った。
「絶対いいところっすよ!!」
ニコが飛び跳ねた。
「今の絶対いいところっす! 向こう、めちゃくちゃ気になってますよ!」
「そうですかねえ」
タダシは、黒い板を鞄に戻した。
「あれ、充電するのに十日以上かかるんですよ。困りますねえ」
「そこですか」
「大事ですよ」
同じ頃、遠い場所で、部長は切れた電話を耳に当てたまま立っていた。
周りに、四人ほどが集まっていた。
「どうでした」
「浅野さん、何て」
部長は、受話器をゆっくり下ろした。
「……業務改革担当って言ってた」
「え」
「総務課兼、業務改革担当」
誰も、何も言わなかった。
窓の外は、もう暗かった。机の上には、返せていない保険会社の書類と、宛先の分からない請求書と、三か月遅れの健康診断の一覧が積まれている。
部長は、自分の席に戻って、椅子に座った。
しばらく、そのまま動かなかった。
「……帰るか」
誰も、返事をしなかった。
フィナが、少し真面目な顔で聞いた。
「戻ってきてくれ、って話ですか」
「まあ、そんな感じでしたけど」
「どうするんです?」
「どうもしませんよ」
タダシは、机の上の予定表を引き寄せた。
「こっちの仕事がありますし」
「当然っすよ!」
ニコが胸を張った。
「タダシさんは、こっちに必要なんですから!」
「……そこは同意します」
フィナが言った。
「そうですか」
タダシは、それ以上何も言わなかった。
予定表の明日の欄を見て、経理の時間に丸をつけただけだった。
「で、タダシさん! 次どこ行けばいいっすか!」
「あなたじゃなくて、タダシさんの予定でしょう」
フィナが予定表を取り上げた。
「まず地方支部の報告を片付けます。それから経理に顔を出して、明日の段取りだけ決めてきてください」
「じゃあ、行きましょうか」
三人が立ち上がったところで、部屋の扉が開いた。
入ってきたのは、王女の供の一人だった。
「浅野さん。殿下からです」
差し出されたのは、封ではなく、五枚の報告書だった。
タダシは受け取って、その場で読み始めた。
国境地方の、五支部分の報告だった。統一書式に参加した支部のものだ。
彼は、五枚を廊下の窓際に並べた。
依頼件数。負傷者数。薬品使用量。在庫。人員。
指が、同じ行を横になぞった。
途中で止まった。
戻って、もう一度なぞった。
「タダシさん?」
フィナが覗き込んだ。
タダシは、五枚を順番に見ていた。それから、少し首を傾げた。
「……これ、ちょっとおかしくないですか?」
※ ここで一区切りとして、いったん更新を休みます




