金庫の鍵より重いもの
「今夜、王国へ戻ります」
わたくしがそう告げると、ハンナは一度だけ瞬きをしました。
「お嬢様。捕らえられるのは、わたくしでございますが」
「存じております。ですから参ります」
「でしたら、なおさらお残りくださいませ。餌が二人で罠へ飛び込む必要はございません」
まったく、主人を餌と呼ぶ侍女など、三国を探しても彼女くらいでしょう。
けれど、その声がわずかに震えていることを、わたくしは聞き逃しませんでした。
エルネスト殿下は地図を机へ広げました。
「王都全門の封鎖は、明朝からだったな」
「はい。夜明け前なら東門を抜けられます」
「抜けて、どうする。ハンナを連れて王都へ入り、王家に捕まってやるのか」
「まさか」
わたくしは母の算盤を机に置き、その側面にある小さな留め金を外しました。
細い木板が滑り、内部から銀色の鍵が現れます。
ハンナが息をのみました。
「本物の鍵は、こちらにございます」
「では、なぜ王国はハンナが持っていると?」
「わたくしが、そう思わせていたからです」
アッシュフォード領の金庫は、領主家の私財を収める上金庫と、商人たちから預かった保証金を収める下金庫に分かれております。上金庫の鍵は当主が、下金庫の鍵は領地財務官が持つ決まりでした。
十年前、母が亡くなってから、財務官の印章を預かったのはわたくしです。
ただし表向き、鍵の保管役は侍女のハンナということにしておりました。幼いわたくしが金庫を管理していると知られれば、父も家令も取り上げたでしょうから。
「わたくしが捕まれば、鍵の在処を吐かせるつもりなのでしょう」
ハンナは淡々と言いました。
「痛みに強い自信はございませんので、三日ほどでお嬢様の寝言まで白状するかもしれません」
「あなた、わたくしの寝言を聞いたことが?」
「『借方と貸方が合いません』と、たいそう苦しげに」
それは確かに、知られたくない秘密でございます。
「ならば王都へ入る必要はない」
エルネスト殿下が地図の一点を指されました。
「東門の外、古い聖堂は両国の共同礼拝所だ。条約により武装兵は入れない。そこで王国側の執事と接触する」
「殿下、これはアッシュフォード家の問題です」
「違う。私が任命した特別監査官と、その補佐役に対する不当な拘束命令だ。ヴェルデンの問題でもある」
簡潔な言葉でした。
けれど、守ってやるとも、従えともおっしゃらない。わたくしの立場を正面から認めたうえで、ともに対処するとおっしゃるのです。
「では、共同責任者としてお願いいたします」
「ああ」
殿下はご自身の外套をわたくしの肩へ掛けました。
「ただし、君は馬車で少し眠れ。命令ではなく、頼みだ」
「そのように言われますと、断りにくうございます」
「ようやく君の扱い方が分かってきた」
外套の内側に残る温もりへ意識が向き、算盤を包む手元が危うく狂いそうになりました。
困りますわ。数字以外で計算を乱されるのは、専門外でございます。
夜明け前、わたくしたちは東門外の聖堂へ到着しました。
老執事は祭壇の陰で待っておりましたが、一晩で十歳も老けたように見えました。
「お嬢様……申し訳ございません」
「謝罪は後で結構です。金庫の状況を」
「イザベラお嬢様は王家から渡された鍵で上金庫を開けられず、錠を壊しました。しかし、中は空でございました」
当然です。
上金庫の私財は、婚約破棄状に基づく返還手続きの際、所有者ごとに移送済みです。残されていたのは、父の狩猟杯と、イザベラの舞踏靴くらいでしょう。
「そこで下金庫を開けろと命じられました。あちらには商人二十七家の保証金がございます」
「イザベラは、それを領主家の財産だと?」
「はい。レナード殿下への献金にすると」
他人の財布を開けて献上するとは、妹ながら実に気前のよいことでございます。自分の金貨を一枚も使わない点だけは徹底しておりますわね。
老執事が差し出した帳簿には、すでに保証金を担保として王都の商会から借り入れを申し込んだ記録がありました。
しかも、イザベラ自身の署名入りです。
「商人たちは?」
「今朝までに七家が保証金の返還を要求しました。残りも知れば、領内の信用は崩れます」
これが王国側の新たな綻びでした。
わたくしが金庫を空にしたのではございません。空の私財庫を見た妹が、預かり金へ手を伸ばした。ただそれだけ。
「ハンナ、二十七家へ知らせを」
「すでに父の古い伝手で十三家へ使いを出しております」
老執事が驚いて彼女を見ました。
ハンナの父は、かつて王都に五つの倉庫を持つ商人でした。貴族の無理な徴発に抗議して店を失いましたが、荷馬車の御者も、倉庫番も、行商人も、受けた恩を忘れてはおりません。
「お嬢様に拾っていただいた日から、この時のために商いの糸を結び直してまいりました」
没落した商家の娘。
それが、彼女の毒舌よりも長く隠されていた素性でした。
「では十三家では足りません。二十七家すべてへ、下金庫の保証金をヴェルデンで返還すると伝えてください」
「ですが、現物は王国側の金庫にございます」
「鍵がなければ動かせません。そして保証金と同額を、わたくしの持参財産から一時的に立て替えます」
エルネスト殿下が帳簿をのぞき込みました。
「返還するだけでは、資金が王国へ戻る」
「ええ。ですから選んでいただきます。現金で受け取るか、ヴェルデン交易院の預託証書へ替えるかを」
塩、羊毛、鉄、葡萄酒。二十七家が扱う品は、昨日動き始めた川上市場に必要なものばかりです。預託証書を選べば、その保証金を元手にヴェルデンで店と倉庫を借りられるようにいたします。
強制はいたしません。
金を返し、条件を示し、商人自身に選ばせるのです。
正午までに返答が届きました。
二十七家のうち十九家が預託証書を選び、六家が一部のみ現金化。全額返還を求めた二家にも、その場で金貨を支払いました。
結果、ヴェルデン交易院には十九の新たな商業口座が開かれ、川上市場へ三か月分の運転資金が集まりました。
一方、王国では、保証金を担保にするはずだった借り入れが撤回されました。老執事によれば、イザベラは王都の貸金商から、期限が明日までの請求書を突きつけられたそうです。
「鍵を渡していないのに、よろしかったのですか」
帰りの馬車でエルネスト殿下が尋ねられました。
「はい。あの金庫に入っているのは商人の財産です。わたくしにも、イザベラにも、使う権利はございません」
「君は自分の金で、彼らの信用を守った」
「立て替えただけです。下金庫の預かり金は、条約に基づいて後日返還を請求いたします」
「それでも、誰にでもできることではない」
馬車が石を踏み、身体が傾きました。
殿下の手が、わたくしの手を受け止めます。
すぐ離れるものと思っておりました。
けれど殿下は、わたくしが姿勢を戻しても、指先を包んだままでした。
「私は今日、君の計算より恐ろしいものを知った」
「何でございましょう」
「君は、自分を傷つけた家の者まで、破滅しない方法を選ぶ」
「商人たちを守っただけです。妹を救った覚えはございません」
「結果として、彼女には他人の金へ手をつけずに済む道が残った」
殿下の手に、わずかに力がこもりました。
「その甘さを利用する者が現れたら、今度は私も計算に入れてくれ」
胸が、算盤の珠より騒がしく鳴りました。
「では、忘れないよう帳簿へ記しておきます」
「どの項目に?」
「未分類でございます」
今はまだ、それ以上の名をつける勇気がございませんでした。
大公府へ戻ると、王国から正式な封書が届いておりました。
金庫の件ではありません。
王家の対外債務、その連帯保証人に関する照会状でした。
保証人欄に記されていた名は、セシリア・フォン・アッシュフォード。
けれど署名は、わたくしの筆跡ではございません。
わたくしは偽造された保証書を机へ置き、エルネスト殿下へ告げました。
「明朝、王国の債権者全員をお招きくださいませ。今度は金庫ではなく、王家の署名を監査いたします」
(第7話へ続く)




