横領されたのは、どちらでしょう
「その訴状、わたくしが受け取ります」
王国の武装船から小舟が下ろされ、使者が二名、こちら岸へ渡ってまいりました。
鎖帷子の兵を六人も従えております。紙一枚を届けるには、ずいぶん重たい封筒ですこと。
「罪人に直接渡す必要はない」
使者は巻物を胸に抱えたまま、わたくしを見下ろしました。
「ヴェルデン大公府へ正式に身柄を要求する。セシリア・フォン・アッシュフォードは、王家の徴税権を利用して国庫の収入を不当に持ち出した」
「でしたら、なおさら訴状を拝見しなければなりません」
「黙れ。これは王命だ」
「ここはヴェルデン領だ」
エルネスト殿下の一言で、川辺の空気が凍りつきました。
「我が領内で誰を罪人と呼ぶかは、貴国の王命では決まらない。引き渡しを求めるなら、条約に従い罪状と証拠を開示せよ」
使者は渋々、巻物を差し出しました。
受け取った殿下は封蝋を確認し、それからわたくしへ手渡してくださいます。
訴状には、わたくしが持ち出したとされる財産が並んでおりました。
アッシュフォード領の昨年度余剰金。北部塩税の精算金。王都穀物商会への出資金。職人たちへ貸与した工具、荷馬車、船舶、倉庫証券――。
なるほど。
名称だけを眺めれば、壮大な横領に見えなくもございません。
「金貨にして二十七万四千枚」
使者が勝ち誇ったように告げました。
「返還するなら、殿下は慈悲を示されるだろう」
「内訳が違います」
「何?」
「合計は二十七万四千枚ではなく、二十六万九千四百枚です。北部塩税の欄で、今年度見込み額を昨年度確定額へ重ねております」
わたくしは訴状の一行を指で示しました。
「他人を罪人に仕立てる際くらい、足し算は正確になさってくださいませ」
背後でハンナが咳払いをしました。笑い声を飲み込んだだけでしょう。
「額の問題ではない!」
「ええ。所有権の問題でございます」
わたくしは荷箱から三冊の証書綴りを運ばせました。橋を渡した荷の中でも、最優先で防水布に包ませたものです。
「昨年度余剰金は、アッシュフォード公爵家の直轄領収入。北部塩税の精算金は、王家との徴収請負契約に基づく手数料。穀物商会の持分は、わたくしの母から相続した持参財産で取得したものです」
さらに、婚約契約書と破棄状を開きます。
「そして王家側からの一方的な婚約破棄により、持参財産およびその運用益は全額返還される。違約金を含め、すでに王家の法務官三名が署名しております」
「その署名は、貴様が欺いて得たものだ!」
「夜会の翌朝、王宮財務局の立ち会いで押印された書類です。欺かれたと主張なさるなら、王家は自国の法務官も財務官も、契約を読めぬ者ばかりだと公に認めることになりますが」
使者の口が閉じました。
お気の毒に。剣なら腰に下げられても、反論までは支給されなかったようです。
わたくしは最後の帳簿を開きました。
「なお、工具、荷馬車、船舶は職人組合の共同資産です。わたくしの物ですらございません。所有者が自ら運んだ品を、なぜ王家へ返す必要があるのでしょう」
「職人どもはアッシュフォードの民だ!」
「移住を禁じる農奴契約は、一件も結ばれておりません」
百二十三名の移籍証明書には、王国側の役所が発行した出国許可印までございます。昨日、国境を閉じた命令より前の日付です。
遅いのです。
人を引き止めたいのなら、橋の鎖ではなく、待遇でつなぎ止めるべきでした。
エルネスト殿下が訴状を受け取り、静かに宣言なさいました。
「財産横領を示す証拠は確認できない。よって身柄の引き渡しは拒否する」
「ヴェルデンは王国に逆らうつもりか!」
「条約を守っている。逆らっているのは、証拠のない王命を条約より上に置く者だ」
殿下はさらに、壊れた橋へ視線を向けました。
「むしろこちらから請求がある。貴国兵が破損させた橋の修繕費、交易停止による損害、武装船の領水侵犯。合計額は調査後に通知しよう」
使者の顔から血の気が引きました。
王国は、わたくしから金貨を取り戻すはずが、新たな請求書を抱えて帰ることになったのです。
まことに見事な収支でございます。赤字の方向だけは。
使者たちを乗せた小舟が離れると、わたくしは武装船の喫水を見ました。船腹は深く沈み、甲板には兵と投石器。けれど、積荷を運ぶ余地はほとんどありません。
一方、川下には昨夜編成した平底船がございます。
「殿下、あの船を追い返すだけでは、北岸の荷詰まりは解消いたしません」
「何を考えている?」
「橋が直るまで、川そのものを市場にいたします」
わたくしは南岸の空き倉庫を、臨時の保税倉庫に指定する案を出しました。北岸の商人は荷を小舟へ積み替え、川の中央で所有権だけをヴェルデン商人へ移す。荷は南岸で検品し、関税を納めてから各地へ送ります。
王国側が人の出国を妨げても、正規の輸出許可を得た商品までは止められません。止めれば、今度は北部商人たちが王家へ損害を訴えるでしょう。
「倉庫番には移住してきた帳簿係を。荷役には川運びを。壊れた橋の石工には、船着き場の補強を任せます」
「昨夜渡った者たち全員に、もう仕事ができるのか」
「仕事を用意したのではございません。皆様が持っている技術を、必要な場所へ置いただけです」
昼までに最初の塩樽四十樽と羊毛二百梱が南岸へ着きました。
関税収入は平時の一日分を上回り、移住者たちには初日の賃金が支払われます。橋の停止で滞っていた交易は、半日で再び動き始めました。
対岸では、王国兵が商人たちに詰め寄られております。
「王家の船は罪人一人を連れ戻すために来たのか! 俺たちの荷はどうなる!」
「塩を止めたうえ、橋まで壊したのは誰だ!」
使者は返答できません。
王命という立派な帽子も、空腹と損失の前では雨除けにすらならないようでした。
夕刻、帳簿を閉じたところで、エルネスト殿下が温かな椀を差し出してくださいました。
「今度こそ食べるまで見張る」
「大公殿下に倉庫で見張り番をさせるわけには」
「では、共同責任者として休憩を命じる」
「わたくしはまだ正式な役職をいただいておりません」
そう申し上げると、殿下は一枚の任命書を机へ置きました。
大公領交易院、特別監査官。
権限も俸給も任期も、曖昧な箇所は一つもございません。
「客人として囲うつもりはない。君の仕事に、正当な地位と報酬を渡したい」
「わたくしが他国へ移る可能性は、お考えにならないのですか」
「考えている。だから選ばれ続ける領地にするのが、私の仕事だ」
胸の奥が、ゆっくりと温かくなりました。
必要だから置いてやる、ではなく。ここを選んでほしいと、仕事で示してくださる。
わたくしは羽根ペンを取り、任命書へ署名しました。
「お引き受けいたします、エルネスト殿下」
「ありがとう、セシリア」
初めて名だけで呼ばれ、ペン先がわずかに跳ねました。
ああ、困りましたわ。
二十七万枚の訴状には動じなかったのに、たった五音で署名を失敗しかけるなんて。
その夜、王国から密使が到着しました。
差出人は、アッシュフォード家の老執事。
封筒の中には一枚の金庫台帳と、短い手紙が入っておりました。
『イザベラお嬢様が領地金庫を開かれました。ですが、王家へ差し出した鍵は偽物です。本物の鍵を持つ者を捕らえるため、明朝より王都全門を封鎖するとのことです』
手紙の末尾には、捕らえる者の名が記されていました。
ハンナ。
「今夜、王国へ戻ります」
わたくしは任命書を懐へ収め、母の算盤を手に取りました。
(第6話へ続く)




