橋を渡るのは人だけではございません
国境へ向かう馬車の中で、わたくしは配置図を膝に広げました。
「鎖を切られれば、跳ね橋はどうなります?」
「橋床が落ちる」
向かいに座るエルネスト殿下が答えました。
「川へ、でございますか」
「いや。あの石橋はヴェルデン側が低い。支えを失えば橋床はこちらへ傾き、橋脚に食い込む。百二十三名は王国側へ戻れなくなり、こちらへも渡れない」
つまり、橋の上へ人質として縫いつけるおつもりですか。
実に勇ましい作戦ですこと。自国民を百二十三名も使わなければ、二十歳の小娘一人を困らせられない点を除けば。
「殿下。川沿いの曳舟道は使えますか?」
「春の増水で崩れたままだ」
「完全には崩れておりません。昨日、運送人の名簿で確認しました。南岸は荷車一台分、残っております」
「名簿に道の状態まで書いてあったか?」
「いいえ。川運びをしていた者が十四名おりましたので、彼らなら知っていると判断しました」
殿下は一瞬だけ黙り、それから御者台へ声をかけました。
「先行騎を南岸へ回せ。荷縄、滑車、平底船を集めろ。セシリアの指示に従わせる」
何をするつもりかとは尋ねない。
その信頼は、不思議なほど胸を軽くいたしました。
橋へ着くと、松明の赤い光が川面で揺れておりました。
中央には荷車と人々が密集し、王国兵がその後方で太い鎖へ斧を振り下ろしています。すでに半ばまで裂けた鉄環が、耳障りな音を立てておりました。
「セシリア様!」
橋上から声が上がります。
泣いている子供。荷箱を抱く職人。杖をついた老会計士。皆、わたくしの名を信じてここまで来てくださいました。
「ご安心くださいませ!」
わたくしは橋のたもとから呼びかけました。
「今夜中に、全員をヴェルデンへお迎えいたします。荷物も一つ残らずです」
王国側の指揮官が鼻で笑いました。
「無理だ! 鎖が切れれば橋は動かん。そちらへ渡れば越境として捕縛する!」
「まあ」
わたくしは携えてきた書面を開きました。
「そこにいる百二十三名には、王国法務院が発行した移住許可証がございます。出国税も納付済みです。国境を越える権利をお持ちですわ」
「非常時には国境守備隊の判断が優先される!」
「では、非常事態を宣言した王命をご提示くださいませ」
指揮官の口が止まりました。
やはり、ございませんのね。
王命も法務院の命令もなく、レナード殿下の口頭命令だけで兵を動かしたのでしょう。あの方は署名の恐ろしさを学んだばかりですから、今度は何も書かなかったに違いありません。
学び方が半分です。
「鎖を切る作業もおやめください。石橋の共同管理協定では、橋の設備を故意に損壊した側が修繕費と通商損失を全額負担することになっております」
わたくしはもう一枚、協定書の写しを掲げました。
「この橋を通る穀物は、王国北部の一日分で荷車四十台。復旧に三か月かかれば、賠償額は金貨一万枚を超えます。責任者欄には、どなたのお名前を書けばよろしいかしら?」
斧を持っていた兵士たちの手が、一斉に止まりました。
指揮官が怒鳴りつけても、誰も再び振り上げません。
命令に従う忠誠心と、金貨一万枚の借金を背負う覚悟は、まったく別のものです。
そのとき、傷んだ鎖が甲高く鳴りました。
「下がれ!」
エルネスト殿下の声と同時に、最後の鉄環が弾けました。
橋床が大きく揺れ、人々の悲鳴が重なります。わたくしも石畳へ投げ出されかけましたが、腕を強く引かれ、殿下の胸元へ受け止められました。
「無事か」
「はい。ですが橋が」
橋床はヴェルデン側へ傾き、轟音とともに橋脚へ食い込みました。完全には落ちていません。ただし、荷車を進めれば重みで崩れるでしょう。
「予定を変えます!」
わたくしは殿下の腕の中から身を起こしました。
「人は手すり沿いを一列で渡ります。荷は橋の上から縄で南岸の平底船へ下ろしてください。川運びの十四名を三組に分け、滑車係、積載係、曳舟係に。石工六名は橋床の亀裂を監視。帳簿係は渡った者の名前と荷口を照合なさい!」
命令が伝わるにつれ、混乱していた百二十三名が動き始めました。
仕立屋が子供を背負い、鍛冶職人が手すりを補強し、川運びたちが荷縄を結ぶ。老会計士は震える手で名簿を開き、渡った者の名へ印をつけました。
ただ助けられるのを待つ人など、一人もおりません。
彼らはもう、新しい土地を作る者たちでした。
夜明け前、最後の荷箱が平底船から引き上げられました。
「百二十三名、全員確認!」
老会計士の声に、歓声が湧きました。
失った荷はゼロ。負傷者は、揺れた際に足首をひねった者が一名だけ。橋の損傷は大きいものの、渡河そのものは完了いたしました。
さらに、夜のうちに組ませた平底船の運航は、そのまま臨時の貨物路として使えます。南岸の古い曳舟道を補修すれば、橋に頼らない第二の交易路になるでしょう。
「百二十三名を救いながら、新しい輸送路まで作ったのか」
エルネスト殿下が、朝靄の向こうに並ぶ船を見つめました。
「必要に迫られただけでございます」
「必要に迫られた者は多い。形にできる者は少ない」
殿下は皆の前へ進み、よく通る声で告げました。
「諸君の住居と工房は、大公領南区に用意する。三年間の工房税を免除し、今夜作った船団を南岸運送組合として認可する。組合の代表者は、諸君自身で選べ」
再び歓声が上がりました。
施しではなく、働く場所と選ぶ権利をくださった。
わたくしがこの方の国を選んだことは、間違いではなかったようです。
橋の向こうでは、王国兵が立ち尽くしておりました。指揮官のもとへ早馬が駆け込み、一通の命令書を渡します。
風に乗って、怒鳴り声が聞こえました。
「橋を壊した責任を私に負わせるだと!? 命じたのはレナード殿下だ!」
けれど、書面はない。
王国北部へ向かう荷車はすでに長い列を作り、壊れた橋の前で止まっております。自ら切った鎖が、自らの喉を締め始めたのです。
わたくしはそれ以上眺めず、移住者たちの仮宿へ向かおうとしました。
ところが、一歩踏み出したところで足から力が抜けました。
エルネスト殿下が、わたくしの手をつかみます。
「昨夜から何も食べていないな」
「皆様の受け入れが先です」
「受け入れは君の指示どおり、私の役人が進めている」
「ですが――」
「君は他人を資源として数えない。だから自分だけを、使い潰してよい資源にするな」
叱られているのに、握られた手はひどく優しゅうございました。
「君の働きを信頼している。だからこそ、君自身も守らせてほしい」
守る、ではなく。守らせてほしい。
命令ではなく、わたくしに選択を委ねる言葉でした。
「……では、朝食をご一緒してくださいますか」
「喜んで」
答えた殿下の手を、今度はわたくしから握り返しました。
その直後、川下から鐘が三度鳴りました。
検問所の警戒鐘です。
霧を裂いて現れた王国の武装船、その船首には王家の旗が翻っておりました。
甲板の使者が巻物を掲げ、こちら岸まで届く声で宣告します。
「王命である! セシリア・フォン・アッシュフォードを、国家財産横領の罪により引き渡されたし!」
わたくしは殿下の手を離さず、前へ出ました。
「その訴状、わたくしが受け取ります」
(第5話へ続く)




