橋の上の百二十三名
国境を閉じた。
その一文を読み終えた時、わたくしはまず時計を見ました。
「日没まで、あと二刻ですわね」
「驚くところは、そこですか?」
ハンナが呆れた声を出します。
「驚いて門が開くのでしたら、いくらでも驚きますわ」
急報によれば、移籍希望者百二十三名は国境の石橋の中央で足止めされているとのこと。帳簿係、御者、倉庫番、織工とその家族。王国側は出国を認めず、さりとて一度検問を通過した者を国内へ戻そうともしない。
水も天幕もない橋の上へ、子どもを含む百二十三名を置き去りにする。
実に勇ましい国境封鎖ですこと。
「ヴェルデン側の関所長へ、食料と毛布を届けるよう依頼を。橋の中ほどまでなら、こちらから運べます」
「王国兵が妨害した場合は?」
「荷車には大公家の紋章を掲げます。他国の救援物資を武力で奪えば、ただの婚約破棄騒ぎでは済みません」
従者が一礼して走り去ったところで、新たな来客が告げられました。
大公エルネスト殿下。
今夜へ繰り上げられた謁見のお相手が、先にこちらへいらしたらしいのです。
立ち上がったわたくしの前で扉が開き、深い紺の礼装をまとった長身の男性が入ってきました。黒髪に灰青の瞳。飾り気のない装いですが、腰の剣にも袖口にも、隙がございません。
「儀礼は省く。時間が惜しい」
「同感でございます」
初対面の令嬢への挨拶としては、花も美辞麗句も足りません。
けれど今夜に限っては、百点満点でした。
エルネスト殿下は机上の急報と、開いたままの関税台帳へ目を向けました。
「閉鎖の名目は、王国の熟練職人を不当に連れ去った疑いだ」
「全員から自筆の移籍願と、雇用契約への同意を得ております。未成年者は保護者同伴。未払いの税もございません」
「書類の写しは?」
「三部ずつ。王国の内務院、ヴェルデンの関税局、そして自由都市の公証人へ預けました」
一瞬、室内が静まりました。
ハンナが、当然ですと言わんばかりに胸を張っております。あなたが作成した書類ではございませんよ。
エルネスト殿下はわたくしをまっすぐ見据えました。
「ならば、こちらには彼らを迎える法的根拠がある。国境守備隊を動かそう」
「兵ではなく、建築工を先にお貸しくださいませ」
「建築工?」
「橋の中央は両国の境界線。ヴェルデン側の橋床へ仮設天幕を固定し、避難所として登録します。人を無理に越境させずとも、医師と食料を送れるようになります」
国境をこじ開ければ争いになる。けれど国境のこちら側を、橋の半ばまで伸ばすことはできる。
さらに移籍願の写しを各国の商会へ公開すれば、王国側は自国民を拘束している事実を隠せません。剣より紙のほうがよく切れる場面もございます。
殿下は即座に従者へ命じました。
「工兵隊から大工二十名。医師と炊事班も出せ。夜明けまでに橋上避難所を完成させる」
「はっ」
「費用は大公府が負担する。ただし設計と人員配置はセシリア嬢に従え」
判断が速い。説明した者ではなく、最も適した者へ権限を渡すことにもためらいがない。
仕える相手として、これほどありがたい資質はございません。
わたくしは橋の見取り図を広げ、天幕の位置、荷車の動線、必要な薪と水の量を書き込みました。百二十三名の名簿から職種を拾い、元石工を設営班へ、料理人を炊事班へ、帳簿係を物資の配給記録へ割り振ります。
助けられるだけの人間にしておく必要はありません。働ける方には働いていただく。そのほうが混乱も恐怖も小さくなります。
「一刻で、百二十三名分の役割を決めたのか」
「名簿は昨日までに覚えましたので」
「……なるほど」
なぜか殿下の声が低くなりました。
気に障ったでしょうか。人の名と得手を覚えるのは、人事を扱う者の務めなのですが。
そこへ、王都からの早馬が到着しました。
運んできたのは、アッシュフォード家の顧問弁護士からの報告です。
婚約破棄状が王家の法務院で正式に受理され、同時に違約条項が発効。王家へ、持参財産の全額返還と違約金の請求書が届けられたとのことでした。
金額は金貨二万四千枚。
レナード殿下は請求書をご覧になるなり、「女一人にこれほどの価値があるものか」と叫び、破棄状そのものを無効にせよと命じたそうです。
ですが、あの夜会で署名した破棄状には、王家の封璽、三名の高位貴族の証人署名、そして殿下ご自身の『一切の異議を申し立てない』という一文がございます。
わたくしを辱めるため、ずいぶん念入りに整えてくださった書面でした。
ご自分へ向けた罠を、あれほど美しく仕上げる手腕だけは見事です。
「王太后陛下は宝飾品の一部を換金するよう命じられましたが、イザベラ様が金庫の鍵を持ち出されているため、開けられないそうです」
報告を読み上げたハンナが、眉を上げました。
「鍵の在処をご存じですか?」
「ええ。イザベラの衣装部屋にある、白鳥の置物の中です」
「教えて差し上げます?」
「まさか。王家の金庫の鍵を管理するのは、もはやわたくしの仕事ではございませんもの」
隠したのはイザベラであり、見つけられないのは王宮の方々です。
わたくしは何一つ壊しておりません。鍵穴へ埃一粒、詰めてもおりません。
手紙を畳むと、エルネスト殿下が静かに尋ねました。
「王国の穀物と塩の流通台帳には、五年前から同じ署名がある。商会間の争いを収め、飢饉の年にも価格を安定させた責任者の署名だ」
殿下は懐から一枚の古い取引証書を取り出しました。
末尾に記された文字は、二つ。
――C.A.
「私は数年前から、この署名の主を探していた」
灰青の瞳が、証書ではなくわたくしへ向けられます。
「君が『C.A.』か」
「セシリア・アッシュフォード。確かに、わたくしの署名でございます」
「十五歳で北部三商会の共同倉庫を作り、十七歳で塩の輸送損失を半減させた?」
「表に名を出すなと父に命じられておりましたので、頭文字だけを」
殿下は長く息を吐きました。
「ようやく会えた」
その声に含まれていたのは、令嬢の容姿を品定めする甘さではありません。
難題の向こうに、探し続けた答えを見つけた者の熱でした。
それが、くすぐったいほど嬉しい。
「昨日、わたくしの正体にお気づきだったのですか?」
「関税台帳の誤りを三か所訂正したと聞いて確信した。だが、本人の口から聞くまでは決めつけるべきではないと思った」
「ずいぶん慎重でいらっしゃいますのね」
「君に関する判断だけは、間違えたくない」
あまりに真顔でおっしゃるので、返事が一拍遅れました。
ハンナが背後で咳払いをしました。笑いを隠すなら、もう少し上手になさいませ。
殿下はわたくしが書き上げた配置図を手に取りました。
「今夜は大公府で指示を出してくれ。君自身が国境へ出る必要はない」
「いいえ、参ります」
わたくしは母の算盤を鞄へ収め、外套を羽織りました。
「橋の上には、わたくしの名を信じて国を出た百二十三名がおります。最初に迎えるのは、わたくしの役目です」
エルネスト殿下は制止せず、ご自分の外套を取ってわたくしの肩へ掛けました。まだ温もりの残る布が、冷えた首筋を包みます。
「では私も行く。ヴェルデンへ来る者を最初に迎えるのは、統治者の役目だ」
この方は、わたくしを守ると言って閉じ込めたりはしない。
わたくしが選んだ道を、ともに歩く方なのだ。
胸の奥へ灯った熱を確かめる暇もなく、扉の外で伝令の叫びが響きました。
「国境より急報! 王国兵が、石橋の跳ね橋を上げるため鎖を切り始めました!」
橋上には百二十三名。
わたくしはエルネスト殿下の手から配置図を取り戻し、迷わず廊下へ駆け出しました。
(第4話へ続く)




