花束より五年分の帳簿を
ヴェルデンへ移住した最初の朝、わたくしは寝台ではなく、関税局の帳簿の前で夜明けを迎えました。
窓の向こうでは、薄青い空に国境砦の尖塔が浮かび上がっています。異国で迎える初めての朝だというのに、わたくしの指先にあるのは旅情ではなく、紙とインクの染みでした。
「お嬢さま。国境を越えて早々、徹夜なさる令嬢がどこにおります」
「ここにおりますわね」
「胸を張るところではございません」
ハンナが呆れながら、湯気の立つ茶を机へ置きます。香草の爽やかな香りに、ようやく自分が空腹であることを思い出しました。
昨夜、種麦二十台を通した後、関税官から相談を受けたのです。
荷馬車の列ができるのは珍しくない。けれど、この春に入ってから関税収入が増えているにもかかわらず、国境倉庫の現金は減り続けている、と。
数字が増えているのに、お金が減る。
それは怪異ではございません。たいていは、誰かが足し算を間違えたか、誰かに都合の良い規則が紛れ込んでいるだけです。
「こちらですわ」
わたくしは三冊目の台帳を開き、同じ日付に記された二つの欄を指しました。紙の端は手垢で黒ずみ、何度も確認された形跡があります。それでも、並べて読む者はいなかったのでしょう。
一方には、北方産の羊毛百梱。関税は銀貨八十枚。
もう一方には、同じ荷の再輸出還付。銀貨八十枚。
「同額なら問題ないのでは?」
関税局次官のバルク殿が、眠気の残る顔で首を傾げます。
「問題は、その下です。保管料と検査料まで還付されています」
「しかし、再輸出品には諸税を返すと規則に……」
「関税を返す、とあります。役務の対価まで返すとは書かれておりませんわ」
保管と検査は、すでに行われた仕事です。その費用まで返せば、羊毛商は倉庫も人手も無料で使えることになります。
しかも、同じ羊毛が国境を出て、翌日に別の荷札を付けて戻っている。帳簿の上では輸出と輸入を繰り返し、そのたびに本来返す必要のない手数料まで支払われていました。
羊毛そのものは一歩も遠くへ行っていないのに、銀貨だけが律儀に旅立っております。まことに働き者の銀貨ですこと。
「過去半年だけで、銀貨一万四千六百二十枚の過払いです」
算盤の珠を最後に一つ弾くと、乾いた音が部屋へ響きました。
バルク殿のみならず、後ろに控えていた書記たちまで息を止めます。
「一目で分かったのですか」
「いいえ。三冊読みました」
「三冊を一晩で……」
なぜ皆さま、そこを恐ろしげにおっしゃるのでしょう。帳簿は読み手を噛みませんのに。眠気には襲われますけれど。
「不正を働いた者を捕らえます!」
バルク殿が椅子を鳴らして立ち上がるのを、わたくしは手で制しました。
「お待ちくださいませ。荷札の書式も、還付を承認した役人も毎回異なります。個人の横領ではなく、規則の解釈が統一されていないため、商人に利用されたのでしょう」
「では、誰も罰しないと?」
「責任の確認は必要です。けれど、先に穴を塞ぎます」
悪人を一人吊し上げれば、仕事をした気にはなれます。
けれど、穴の開いた桶から水を盗んだ者を追いかけても、穴は塞がりません。罪人の名を大きく書くより、規則を明瞭に書くほうが、よほど長く効くのです。
「本日から申請書を一種類に統一し、還付対象を関税のみと明記してください。荷には商会ごとの刻印を押し、三十日以内の再入荷は旧記録と照合すること。過払い分は、今後の還付金と相殺する形なら商会も受け入れやすいでしょう」
「拒まれた場合は?」
「正規の検査を、規定どおり時間をかけて行うだけですわ」
わたくしは微笑みました。バルク殿も、なぜか同じように微笑みました。
昼までに新しい書式を作り、午後には主要七商会の代表を集めました。
彼らは初めこそ渋い顔をしましたが、検査時間を半分にする代わりに記録の統一へ応じるよう提案すると、視線の色が変わりました。商人にとって、荷車が一日止まる損失は、紙一枚を書く手間よりはるかに重いものです。
最後の一人が署名すると、待合室に張りつめていた空気がほどけました。
夕刻には滞留していた荷車四十七台が国境を通過し、倉庫の外にできていた列は消えました。車輪が石畳を打つ音と御者の掛け声が、暮れかけた街道の向こうへ遠ざかっていきます。
「一日で関税局を作り替えてしまいましたね」
「大げさですわ。書式を一枚変えただけです」
「その一枚を、こちらでは三年かけて会議していたのですが」
バルク殿のお言葉には、聞かなかったことにすべき情報が含まれておりました。
夕食の支度が整うころ、祖国から最初の報せが届きました。
差出人は、王都南市場の塩問屋を束ねる商業組合長です。わたくしの移籍に同行せず、祖国に残ることを選んだ方でしたが、長年の契約に対する礼として状況を知らせてくださったのでしょう。
封を切ると、塩五百樽は王都へ入らなかった、とありました。
王家が現金を用意できず、保証人も立てられなかったため、商人たちは契約どおり荷を西方の自由都市へ回したそうです。
南市場では一日で塩の値が三倍になり、王宮の厨房へ納める分さえ確保できていない。
レナード殿下は商人を「王家に逆らう守銭奴」と叱責し、イザベラは晩餐に塩味が足りないと皿を下げさせた、とも記されていました。
実に仲睦まじい兄妹でいらっしゃいますこと。
空の金庫へ怒鳴れば銀貨が湧くと信じている点まで、よく似ております。
「王家は塩商人へ、納入を命じるのでしょうか」
ハンナが手紙を覗き込みます。
「命令はできても、仕入れ代金までは命令から生まれませんわ」
誰も塩を止めてはいません。
商人は代金を払う相手へ売り、わたくしは失効した保証を更新しなかった。それだけです。
王家の信用を支えていた保証状は、婚約者としてのわたくしがアッシュフォード家の資産を担保に発行していたもの。婚約を破棄なさった以上、その効力が切れるのは契約書の記載どおりでした。
自分たちで手放した傘がないから雨に濡れた、と怒られても困ります。
手紙には、もう一つ奇妙な追記がございました。
混乱する市場を鎮めるため、聖女マリエル様が中央広場で『豊穣の祝福』を披露したというのです。
銀色の光が群衆を包み、人々は歓声を上げた。しかし、祝福の後も空の塩樽は満たされず、値札も元へは戻らなかった、と。
「祝福で塩が増えるなら、商人は苦労いたしませんね」
「信仰は心を支えるものですもの。帳尻まで支えさせるのは酷ですわ」
ただし、同封されていた広場の見取り図には気になる記述がありました。
マリエル様は祝福の間、胸元の銀の聖印を両手で強く握り、光が途切れた瞬間には、付き添いの神官ではなく侍女が聖印を箱へ戻したというのです。
本物の祝福に、魔力を蓄える銀器など必要ございません。
もっとも、今のわたくしには関係のないこと。
違和感だけを覚えておき、手紙を畳みました。疑念は証拠になるまで、声に出すものではありません。
その時、大公府の従者が大きな木箱を運び込んできました。
中には、関税局、港湾局、穀物院の過去五年分の写し。それから大公家の深緑の封蝋が押された任命状が入っています。
『セシリア・フォン・アッシュフォードに、三局の帳簿を閲覧し、改善案を提出する権限を与える。ただし、就任の受諾は本人の自由とする』
末尾には、昨日の入国許可証と同じ、エルネスト殿下の署名がございました。
まだ一度もお会いしていない異国の大公が、わたくしに命令ではなく選択肢を差し出している。
しかも宝石でも花束でもなく、五年分の帳簿を。
「これは口説かれておりますね」
ハンナが真顔で言いました。
「財務顧問として、でしょう」
「お嬢さまにとっては、花束より効果的かと」
否定しようとして、箱の奥に収められた新しい算盤へ目が留まりました。
使い込んだ母の形見と同じ、小ぶりな寸法です。珠は指に吸いつくようになめらかで、枠には華美な飾りもない。けれど同封の紙には、『古い道具を捨てる必要はない。これは手が足りない時のために』とだけ記されていました。
大切なものを手放せとは言わず、その隣へ新しいものを置く。
能力を使えと命じるのでも、過去を忘れろと促すのでもない。わたくしが何を守り、何を選ぶのか。その余地ごと認めてくださっている。
その気遣いに、胸の奥がほんの少しだけ温かくなりました。
「任命状へ署名なさいますか?」
「ええ」
わたくしは自分の名を記し、母の算盤と新しい算盤を並べました。二つの木枠が触れ合い、小さな音を立てます。
「働く場所は、自分で選ぶと決めましたもの」
署名を終えた直後、廊下から慌ただしい足音が近づき、扉が三度叩かれました。
「セシリア様。大公殿下より、明朝の謁見を今夜へ繰り上げるとのご命令です」
従者は息を整え、一通の急報を差し出しました。
「王国側が国境を閉鎖しました。残る移籍希望者百二十三名が、橋の上で足止めされております」
(第3話へ続く)




