かしこまりました
「無能な君との婚約は破棄する」
第二王子レナード殿下は、よく通る声でそうおっしゃると、満足げに笑われました。
王宮の大広間には、今夜も選りすぐりの貴族たちが集っております。楽団の演奏は止まり、百を超える視線が、殿下と、その隣に寄り添うマリエル嬢、そしてわたくしへと注がれていました。
「十年も婚約者の座にありながら、君は華やかな社交もできず、聖なる力も持たない。王家に何ひとつ貢献していないではないか」
何ひとつ。
なるほど。
昨年、王都を襲った凶作の際、北部から穀物を運ぶ街道を三日で確保したのも。
塩商人たちが値を吊り上げようとした際、沿岸諸侯と直接契約を結び、価格を半分まで戻したのも。
王家の借財を七年かけて整理し、利息だけで沈みかけていた金庫を立て直したのも。
どうやら妖精の仕業だったようですわ。
「殿下、皆さまの前でそのような……」
マリエル嬢が殿下の腕にすがり、困ったように眉を下げます。その頬は、困惑しているにしてはたいそう華やかに紅潮しておりました。
「案ずるな、マリエル。私は真実を告げているだけだ。君の祝福こそ、この国に必要なものなのだから」
殿下の背後では、妹のイザベラが扇で口元を隠しながら笑っています。
「お姉さまには、帳面を眺めるくらいしか能がありませんもの。王子妃など、初めから荷が重かったのですわ」
その帳面から捻出された衣装を身にまとい、よくおっしゃいますこと。
けれど、反論する必要はございません。
言葉は、理解する意思のある方に差し上げるものです。
わたくしは殿下が差し出した婚約破棄状を受け取り、文面へ一度だけ目を通しました。
王家側の都合による一方的な破棄。
わたくしに瑕疵があるとの記載はなく、証人として三名の高位貴族がすでに署名済み。
そして婚約契約第十二条に基づき、王家には違約金の支払いと、持参財産および運用益の全額返還義務が生じる。
まあ。
見事なまでに、こちらに有利な書面ですこと。
殿下は、お読みにならなかったのでしょう。そもそも、六行を超える文章を最後まで読まれた姿を、わたくしは十年間で一度も拝見しておりません。
わたくしは破棄状を丁寧に畳み、一礼いたしました。
「かしこまりました」
「……何?」
「婚約破棄、謹んで承ります」
笑い声の消えた広間で顔を上げると、なぜか殿下のほうが呆然としておられました。
「待て。君は、それだけなのか」
「はい。殿下のお言葉は明瞭でございましたので」
泣いて縋るとでもお思いでしたのね。
十年間、わたくしが縋っていたのは殿下の腕ではなく、破綻寸前の収支でございます。
「それでは皆さま、ごきげんよう」
踵を返したわたくしの後を、侍女のハンナが何食わぬ顔でついてきました。
大広間の扉が閉まった途端、彼女は小声で申しました。
「お嬢さま、今夜の殿下は、これまでで最も王子らしゅうございました」
「まあ。どのあたりが?」
「国ひとつを傾ける決断を、笑顔でなさいました」
「言い過ぎよ」
「では、半分ほど傾ける決断で」
それならば、おそらく正確でしょう。
アッシュフォード公爵邸へ戻ると、わたくしは夜会服のまま執務室へ入りました。
壁一面の棚には、領地ごとの収支簿、商会との契約書、職人名簿、穀物と塩の流通台帳が整然と収められています。王都へ入る穀物の六割、塩の四割。その取引承認欄に記された署名は、すべて同じものでした。
――C.A.
セシリア・アッシュフォード。
殿下は一度として、その署名が誰のものか尋ねませんでした。
「ハンナ、公証人を。商業組合長と東倉庫の責任者にも、予定を繰り上げると伝えて」
「予定、でございますか」
「契約というものは、始める時より終える時のほうが揉めるでしょう? だから最初から、終わらせるための書類も整えておくものよ」
引き出しから三束の書類を取り出します。
第一は、母から相続した三領の収益金と、その運用益を王家の会計から切り離す通知。
第二は、わたくし個人が出資した交易契約の名義変更。
第三は、専属職人、会計官、運送業者たちへ提示する移籍契約でした。
誰ひとり強制はいたしません。それぞれに残留と移籍の条件を示し、自ら選んでいただきます。
結果、夜半までに、会計官十二名全員、職人二十八名中二十五名、契約商会十七社すべてが移籍を希望しました。
「ずいぶん慕われていらっしゃいますね」
「待遇の良い雇い主が好まれているだけよ」
「三年前、病に倒れた職人の家族へ、お嬢さまが十年分の薬代を前払いした件は?」
「あれは熟練工を失わないための投資です」
「左様でございますか」
ハンナの返事には、まるで信じていない響きがございました。
明け方前、公証人が最後の封蝋を押した時、王宮から使者が駆け込んできました。
「セシリア様! 至急、王家名義の支払保証書へご署名を!」
差し出されたのは、明朝入荷予定だった塩五百樽の代金保証書です。
「以前の保証人欄には、わたくしの個人商会が記載されておりますね」
「はい。ですが商人どもが、先ほど突然、王家との掛け取引には応じられぬと……」
「突然ではございません。本日、婚約が破棄されましたので、契約の付帯保証も失効しただけです」
「では、塩はどうなるのです!」
「王家が現金で代金をお支払いになれば、予定通り届きますわ」
使者は青ざめました。
王家の金庫に、すぐ動かせる現金がほとんどないことを、ようやく思い出したのでしょう。
わたくしは何も止めておりません。塩商人を脅してもいませんし、街道を塞いでもおりません。
ただ、わたくしの信用を、今後も無償でお貸しする理由がなくなっただけです。
「殿下へお伝えくださいませ。破棄状は確かに受領し、条項に従った手続きはすべて完了した、と」
使者が王宮へ引き返すころ、東の空が白み始めていました。
持ち出す荷は驚くほど少なく、衣装箱が二つと書類箱が五つ。それから、母の形見である小さな算盤だけ。
玄関前には、移籍を望んだ者たちを乗せる馬車が並んでいます。
「公爵閣下には?」とハンナが尋ねました。
「書面を残したわ。イザベラがいるのですもの。無能な長女がいなくても、何もお困りにはならないでしょう」
馬車は朝霧の王都を抜け、北の国境へ向かいました。
夕刻、隣国ヴェルデンの関門へ着くと、二十台もの荷馬車が列を作っていました。役人たちが、保証金の不足を理由に足止めしているようです。
荷は春蒔き用の種麦。このまま夜露に濡らせば、国境沿い三郡の作付けが遅れます。
「保証金を荷車ごとに取るから不足するのです。同じ商会の荷なら一契約としてまとめ、積荷証券を担保になさいませ。関税額は変わりませんし、未払い時には全量を差し押さえられます」
わたくしが台帳の余白へ計算を書き込むと、関税官は目を見開き、すぐさま上役を呼びました。
半刻後、二十台すべての通関が終わりました。
「三日はかかると思っていたのに」と、年老いた御者が何度も頭を下げます。
国境を越えた先には、大公家の紋章を掲げた迎えの馬車が待っていました。
従者から渡された入国許可証には、若き大公エルネスト殿下の直筆で、こう添えられていました。
『客人としてではなく、財務顧問候補として迎える。働く場所も、去る時も、あなた自身が選んでよい』
わたくしの意思を、最初から勘定に入れてくださる方。
それだけのことが、今は不思議なほど胸に沁みました。
わたくしは母の算盤を膝に置き、遠ざかる祖国の城壁を振り返ります。
「――さて、王家の金庫は何日保つかしら」
(第2話へ続く)




