空の金庫にも、持ち主はございます
鍵は、空になった金庫まで満たしてはくれません。
もっとも、イザベラは長らく逆だと信じていたようでございます。
王都から届いた旧公爵家の財産目録を、わたくしは朝から一枚ずつ確認しました。
窓の外では細い雨が石畳を濡らし、執務室には紙と封蝋の乾いた匂いが満ちています。書類箱の底には、見覚えのある真鍮の鍵が一本、証拠品として収められておりました。かつてわたくしが毎月末に預かり、残高とともに返していた金庫の鍵です。
宝飾品の購入証書、祝宴の料理代、楽士への未払票、王都の仕立屋からの督促状。数字を合計するたび、空の金庫が見事なほど重くなってまいります。
「未払債務、銀貨四万六千八百二十枚。まだ増える見込みだそうです」
向かいで書類を仕分けていたハンナが、冷ややかに申しました。
「空の箱から、ずいぶん豊かな収穫がございましたね」
「残念ながら、刈り取られるのは麦ではなく宝石ですわ」
目録の端には、金庫の開閉記録が添えられていました。
わたくしが旧公爵領を離れた後、金庫の鍵を受け取ったのはイザベラ本人。最初の七日で祝宴費を三度引き出し、その後は衣装、馬車、室内装飾と続いております。
日付と署名は、どれも明瞭でした。とりわけ最初の数行は、長年欲しかった玩具をようやく手にした子供のように、羽根ペンの運びまで弾んでおります。帳簿というものは、書いた本人が望まずとも、そのときの浮かれ具合まで保存してしまうのです。
冬越し税を三倍にした日の午後にも、銀貨二千枚が宴会用の葡萄酒へ消えていました。
税を納める者が凍えようと、杯の底だけは乾かしたくなかったのでしょう。統治者としての優先順位が、たいへん明瞭で助かります。
さらに、追放された領民三百六十二名の名簿と、残留領民百九名から出された耕作放棄の申請を重ねます。
昨年まで旧公爵領が得ていた農産税、工房税、街道使用料から、失われた収入を算出しました。
「年間で銀貨三万一千枚余り」
ハンナが眉を上げました。
「債務を返す収入そのものを、イザベラ様が追放なさったと」
「ええ。働く方々を数字の下に置かれたのでしょう。ですが、数字とは働く方々がいて初めて生まれるものです」
金庫の鍵を握れば、金庫の中身まで自分のものになる。
税を三倍にすれば、収入も三倍になる。
人を追い出せば、口答えする者だけが減る。
どれも帳簿を一頁めくれば誤りと分かることでした。けれど、鍵の金色ばかり眺めていた妹には、空になっていく箱の底が見えなかったのでしょう。
いいえ。見ようとしなかった、と申すべきかもしれません。
金庫の底を覗けば、自分の望みより先に、冬を越すための種麦や、橋を直すための木材や、働いた者へ渡す賃金が見えてしまいますもの。知らなければ責任を負わずに済むという考えは、貴族社会でたいへん人気がございます。残念ながら、債権者には通用いたしません。
イザベラからは、すでに三通の異議申立書が届いております。
一通目には、旧公爵家の債務は領民税で返すべきだと。
二通目には、自分が購入した宝飾品は公爵家の威信を保つための公費だと。
三通目には、姉であるわたくしが不足分を補填すべきだと書かれていました。
三通とも、筆跡だけはたいへん力強いものでした。紙を突き破りそうなほど強く書けば、理屈まで強くなると思われたのでしょうか。羽根ペンには、そこまでの権能はございません。
わたくしは十二席評議会の承認書を横へ置き、清算決定を書き始めます。
追放と耕作放棄によって失われた税収を、残った民へ増税して埋めさせてはならない。
祝宴、宝飾品、衣装、装飾馬車の代金は旧公爵家の奢侈債務として確定する。
返済には、旧公爵家が保有する宝飾品、余剰馬車、別邸の調度品を充てる。売却後も不足する分は、イザベラ個人の将来所得から一定額を差し引く。ただし衣食住を奪う額にはしない。
そして、金庫の鍵は清算対象財産とともに十二席評議会へ返還する。
封蝋へ評議会印を押すと、柔らかな蝋が静かに縁から盛り上がりました。人の声は立場によって大きさを変えますが、正式な印章は誰の前でも同じ形を残します。わたくしは、その公平さを好ましく思っております。
「ずいぶん穏当でございますね」
ハンナが言いました。
「宝石を売られて、なお三食と寝台が残るのですから」
「債務の清算は、飢えさせるために行うものではございません。支払うべき者と、支払われるべき者を正しい場所へ戻すためのものです」
イザベラへ会いに行く必要はありませんでした。
叱責も、嘲笑も、勝利の宣言も不要です。
彼女が自ら追放した三百六十二名。
自ら失わせた銀貨三万一千枚余りの年収。
自ら鍵を開けて使った銀貨。
自ら署名した購入証書。
すべてが、誰の責任であるかを過不足なく語っております。
わたくしは決定書へ署名し、旧公爵家の財産目録に受領印を押しました。
これで、イザベラの浪費は民の負担ではなく、イザベラと旧公爵家の債務として清算されます。
鍵は最後まで、正直でございました。
誰が金庫を開けたのか。それだけは、一度たりとも偽らなかったのです。
昼過ぎ、今度はヴェルデンから北境第一協同宿場の収支報告が届きました。
旧公爵領を追われた三百六十二名は、全員が自由民契約者として働いております。
街道整備、荷車修理、冬麦の作付け、宿場の炊事、倉庫管理。得意な仕事ごとに組を分け、共同交易組合から銀貨で賃金を支払う仕組みは、すでに二度目の支払日を終えていました。
報告書には、賃金を受け取った者たちの署名と印が並んでいます。字を書けない者の印も、震えた文字も、すべて等しく一人分。追放者という一語で括られていた方々が、ここでは職人、御者、農夫、炊事人として数え直されておりました。
宿場の今月の収入は予測を一割上回り、共通規格の車輪を修理できる職人も九名増えています。
わたくしは余剰分の使途として、共同井戸の増設と冬麦用倉庫の補修を承認しました。
「追放した側は年に銀貨三万一千枚を失い、追放された側は新しい収入を作ったのですね」
「人は、金庫へしまう銀貨ではございませんもの。場所と契約が正しければ、自分で明日の分を生み出せます」
その明日が、誰かの気まぐれな鍵一つで奪われない仕組みにする。それが、新しい土地でわたくしの成すべき仕事です。
わたくしが報告書を閉じたところで、執務室の扉が開きました。
入ってきたエルネスト様は、机上の鍵と、わたくしの右手を順にご覧になりました。
「痛みの申告を聞きに来た」
「本日は零でございます」
「確認しても?」
わたくしが手を差し出すと、彼は包帯をゆっくり解きました。掌の赤みは、ほとんど消えております。
それでも彼は指先で傷の周りを確かめ、わたくしの手をすぐには離しませんでした。触れ方はひどく慎重なのに、包む掌は温かく、逃がすつもりがないかのように確かです。
「君は今日も、誰も飢えさせずに責任だけを正しい場所へ戻したのだな」
「帳簿どおりに処理しただけですわ」
「君はいつも、優しさを帳簿の言葉へ置き換える」
「数字のほうが、異議を申し立てにくいものですから」
「では私から異議を申し立てよう」
彼は包帯のなくなった掌へ、自分の手を重ねました。
「君が守った者の数に、君自身が入っていない」
胸の奥を、指摘されては困る未記帳項目がそっと叩きます。
「では、どの順位へ入れればよろしいでしょう」
「私の希望では第一順位だ」
「十二席評議会の承認が得られそうにございませんわ」
「大公府なら、全会一致で通す」
「大公お一人の全会一致では?」
「反対者がいるなら連れてきてくれ」
思わず笑うと、彼も笑いました。
わたくしは自分から指を絡めます。
「それでは暫定措置として、本日の残り一刻は公務をいたしません」
「承認する。行き先は?」
「中庭を歩きたいですわ。あなたと」
これは休暇申請ではなく、わたくしの選択です。
雨上がりの中庭には、濡れた土と若葉の香りが漂っていました。わたくしたちは仕事の数字を一つも口にせず、石造りの回廊をゆっくり歩きます。繋いだ手は途中で離れてもよかったはずなのに、どちらからも離しませんでした。
その一刻を終えて執務室へ戻ると、机上には対外債務台帳が開かれていました。
最終頁には、王家債務銀貨二十七万枚の連帯保証人欄。
そこに残る古い署名は、ただ二文字。
――C.A.
欄外には、対外債権者全員の回答が追記されていました。
清算署名として受理するのは、同一署名者によるものに限る。
かつてわたくしを無能と笑った王家は、民の暮らしを止めないため、今度はこの二文字を必要としているのです。
わたくしは新しい羽根ペンを一本、台帳の上へ置きました。
「明朝、署名の条件を王家へ提示いたします」
(第32話へ続く)




