二文字の前に、王冠は頭を下げる
対外債務台帳の連帯保証人欄にある「C.A.」は、わたくしが十六歳のときに記した署名です。
王家が北境の凶作を理由に、国外から穀物と薬を買い入れた際のものでした。
ただし、わたくしが保証したのは王家の浪費ではございません。
契約書の附則には、返済原資を王都の穀物・塩の流通収入に限定し、その収入を優先的に債権者へ振り分ける実務保証であると明記してあります。
ところが王家は、わたくしを追い出したあと、その流通収入を戴冠式や祝宴、黒鷲衛兵隊の雇い入れへ流用しました。
収入を使い果たしておきながら、保証人の署名だけは残した。
ずいぶん便利な記憶力でございますこと。
翌朝、ヴェルデン大公府の大会議室には、十二席評議会、共同交易組合、対外債権者の代理人たちが集まりました。
王家側の席には、王家財産を管理する会計官たちと、正式に退位した国王が座っています。
国王の衣服に王冠も金糸もありません。護衛ではなく、評議会の監督官が左右に立っていました。
エルネスト様はわたくしの隣席に着きましたが、書類には触れませんでした。
「これはアルデンツ王国の清算であり、署名を求められているのは君だ。私は隣にいるが、君に代わって答えない」
「ありがとうございます」
守ることと、選択を奪うことは違う。
彼はその境を、いつも正確に見極めてくださいます。
対外債権者の代理人が立ち、回答書を読み上げました。
「王家債務、銀貨二十七万枚。国境封鎖に伴い即時返済条項が発効しております。ただし、流通の停止が民生を損なうことは我々の望むところではありません。返済計画の再締結には、当初の連帯保証人と同一の署名を求めます」
王家の会計官が差し出した再建案には、王家の公印が押されていました。
債権者たちは誰も手を伸ばしません。
王冠の印では、荷車は動かない。
王命では、空の金庫に銀貨は湧かない。
そして今や、対外債権者が清算署名として受理するのは「C.A.」ただ一人でした。
「セシリア・フォン・アッシュフォード殿」
退位した国王が、わたくしの名を呼びました。
かつて王宮で呼ばれたときとは、声の響きが違います。
あの頃のわたくしは、帳簿を整えても名を記されず、失敗が起きれば公爵家の無能な娘と呼ばれるだけの存在でした。
レナード殿下が笑いながら婚約を破棄した夜も、国王は止めませんでした。
王家にとって、わたくしは黙って数字を差し出す道具だったのでしょう。
けれど、道具は自分の住所を選びません。
わたくしは選びました。
王都を去り、ヴェルデンに住み、自分の名で仕事をすることを。
国王が席を立ちました。
「王家を代表して、署名を願う」
会議室の全員が見守る中、彼は深く頭を下げました。
会計官たちも続きます。
王家が、公然と、かつて無能と扱った娘の署名を乞うている。
もしこれが復讐の場であったなら、胸がすくところなのかもしれません。
けれど、わたくしが見ていたのは彼らの頭頂部ではなく、机上の返済案でした。
そこには、塩への追加税、北境の通行税、各村への臨時徴収が並んでいます。
頭を下げる角度は申し分ございませんが、数字は落第です。
「この案には署名いたしかねます」
王家側の席に動揺が走りました。
「では、何を差し出せばよい」
「差し出す者が違います」
わたくしは用意していた条件書を配りました。
「第一に、返済原資へ民への新税を用いないこと。第二に、王家保有の宝飾品、離宮の調度、式典用馬車を売却し、初回返済へ充てること。第三に、王家直轄の狩猟権、祝祭興行権、国外向け酒類専売権を十二席評議会の管理下で貸し出すこと」
頁をめくります。
「第四に、返済は七年の分割とし、清算の第一順位から第三順位までを侵さないこと。未払賃金、食糧と医療と孤児院、国内小口債権者への支払いが先です。第五に、すべての入出金を四半期ごとに公開すること」
王家の会計官が青ざめました。
「王家の体面が保てません」
「体面は食べられませんし、傷口にも塗れませんわ」
室内の一角で、ハンナが咳払いをしました。笑いを隠すには、少々明るい音でした。
国王は条件書を最後まで読み、低く尋ねました。
「この条件を受ければ、署名するのか」
「いいえ。もう一つございます」
わたくしは古い契約書を開き、連帯保証人欄を示しました。
「C.A.の保証は、流通収入を返済へ振り分ける仕組みに対して行ったものです。今後、わたくし個人の財産も、ヴェルデン大公国の財産も、王家債務の穴埋めには用いません。その旨を再契約へ明記していただきます」
王家がわたくしの署名を必要とするからといって、わたくし自身まで差し出すつもりはございません。
婚約破棄の夜に持ち出したものを、別の紙一枚で奪い返されては困ります。
「承認する」
最初に答えたのは国王でした。
十二席評議会が採決し、十二席すべての承認札が上がります。対外債権者側も、七年の分割と利率の固定を受け入れました。
王家の公印は、契約の主役ではなく、条件に従う当事者の印として押されました。
最後に羽根ペンが、わたくしの前へ置かれます。
エルネスト様が小さく問いました。
「署名するのか」
「はい」
「彼らのために?」
「いいえ」
窓の外には、朝の荷車が並んでいました。
穀物、塩、薬草、井戸の清掃道具。どれも王家の食卓を飾る品ではありません。明日の暮らしを止めないための荷です。
「王家のためではございません。王家の失敗まで背負わされる民のために署名いたします」
わたくしは再契約書の条件をもう一度確かめました。
新税なし。
王族の奢侈債務を民へ転嫁しない。
清算順位を侵さない。
個人財産による無制限保証なし。
すべて相違ございません。
わたくしは最終頁へ、二文字を記しました。
――C.A.
債権者の代理人が即座に受領印を押します。
鐘が一つ鳴るより早く、国境の共同検査所へ再契約成立の青い荷札が送られました。
正午には止め置かれていた穀物車二十四台と薬草車四台の通行が再開され、夕刻までに北境第一協同宿場へ到着する予定です。
さらに、王家財産の売却予定額を初回返済へ組み入れたことで、七年間の返済中も清算の第一順位から第三順位までを予定どおり進められることになりました。
王冠を守るための借金が、王冠を売って返される。
まことに、帳簿は身分へ遠慮をいたしません。
会議が終わり、最後の出席者が退出すると、エルネスト様は署名したばかりのわたくしの手を取りました。
「皆はその二文字を求めた」
「ええ」
「だが、私が隣にいてほしいのはC.A.ではない」
彼の親指が、羽根ペンの跡が残る指先を静かになぞります。
「セシリア。君だ」
呼ばれた名が、胸の奥へまっすぐ届きました。
「では、署名がなくても受理してくださいますか」
「何度でも」
「審査は?」
「私のほうが受ける立場だろう」
あまりに真面目な顔でおっしゃるので、わたくしは笑ってしまいました。
彼はわたくしの手を引き寄せ、指の背へ額を触れます。
頭を下げられたのは、本日二度目です。
けれど、一度目が署名を得るための礼なら、こちらは何も奪わず、何も求めず、ただわたくしの選択を尊ぶための仕草でした。
わたくしは空いた手で、彼の髪へそっと触れました。
「審査結果は、まだ保留ですわ」
「厳しいな」
「ですが、現在までの評価は良好です」
顔を上げた彼の笑みに、わたくしも自分から一歩近づきました。
そのとき、廊下を急ぐ靴音が止まり、封書が一通届けられます。
王国法廷の印が押された、公開審理の開始通知でした。
開廷は明日。
罪状書の第一行には、もはや殿下という敬称のない名が記されていました。
――被告人、レナード。
(第33話へ続く)




