奇跡の代金は、働いて返していただきます
三十日目の朝、マリエルは白い聖女服を着ていませんでした。
薄灰色の簡素な服に、飾りのない髪留め。胸元からは、かつて信者へ見せびらかしていた銀の印章も消えています。
王都の臨時審査室へ入ってきた彼女は、わたくしと十二席評議会の審査役、そしてヴェルデンから同席したエルネスト様を見渡し、深く頭を下げました。
「マリエル。三十日間の仮保護は、本日の正午をもって満了します」
「はい」
「その前に、あなたの証言と財産について、最終確認を行います」
机上には三種類の書類がございました。
一つ目は、祝福用銀板十二枚の受領記録。
二つ目は、レナードが作らせた二重計上帳簿。
三つ目は、奇跡を信じて金を支払った者たちから届いた返還請求書です。
最後の束が、最も厚うございました。
人は目に見えない奇跡には喜んで祈りを捧げますが、実費、横流し額、虚偽表示による三倍返還額が並んだ請求書には、なかなか祈ってくださらないものです。
「昨日までに、あなたを聖女として擁護する嘆願は四百八十一件から十四件へ減りました」
マリエルの肩がわずかに揺れました。
「十四件、まだあるのですね」
「うち十二件は署名の撤回届が同封されていました。残る二件は、あなたに支払った寄進の返還を求める内容です」
「では、擁護は零ですか」
「数字の上では」
奇跡の代金の請求書が届けば、信者は引く。
少々寂しく、たいへん正直な結末でございます。
この動きを掴んだのはハンナでした。没落する前の実家が商家だった彼女には、王都を離れた今も帳場同士の細い縁が残っています。その人脈を通じて、寄進を集めた者、銀を運んだ者、黒鷲衛兵隊へ金を渡した者の所在まで確かめてくれたのです。
「噂は風より速いと申しますが、請求書を添えると馬より速くなります」
今朝、そう言って分厚い束を置いたハンナの顔は、実に晴れやかでした。
わたくしは受領記録を開きます。
「銀板一枚の実費は金貨九枚。そこへ一枚につき金貨三十一枚が上乗せされ、差額はレナードの二重帳簿を経て黒鷲衛兵隊へ流れました。あなたは十二枚すべての受領者です」
「認めます」
「子板は、割れた一枚の破片も含めて十一枚すべて返還されました。親板はレナードから回収され、ヴェルデンと十二席評議会の共同保管へ移されています。接続金具はすべて外され、再接続は禁止。検査記録も公開されます」
これで、銀色の水が再び井戸へ流れ込むことはありません。
奇跡と呼ばれた仕組みは、ただの魔力器具として管理されます。
「あなたは最初から、銀板が病を癒やしていたのではなく、不純物を親板へ移しているだけだと知っていましたね」
「……最初は知りませんでした」
マリエルは膝の上で指を組みました。
「けれど、三枚目を使った頃には気づきました。水の味が場所によって違ったから。レナード殿下へ尋ねると、民は仕組みではなく聖女を求めている、と」
「それで黙った」
「はい。聖女でなくなれば、わたしには何も残らないと思いました」
その言葉に、かつてのわたくしなら少しだけ心を刺されたかもしれません。
婚約者でなくなれば、公爵家の役に立たなくなれば、何も残らないと思っていた時期が、わたくしにもございましたから。
けれど、似た恐れを抱いたことと、他人へ損害を負わせたことは、同じではありません。
「事情は免罪符になりません」
「承知しています」
「ただし、あなたは銀板十一枚を自ら返還し、二重計上帳簿を提出しました。元黒鷲衛兵四十六名の投降にも、あなたの証言が役立っています。その協力は情状として正式に記録します」
マリエルが顔を上げました。
「赦して、くださるのですか」
「いいえ」
そこは曖昧にしてはいけません。
「わたくしに、あなたを赦す権利はございません。被害を受けた方々の権利を、わたくし個人の憐れみで消すこともできません」
彼女の私有財産は、引き続き保全されます。装身具、寄進で得た貨幣、衣装、銀の印章。確定した被害額に応じ、法の順位に従って返還へ充てられます。
亡命を認め、すべてを置き去りにさせる案も出ていました。
けれど、国境を越えることが責任まで消す褒美になってはなりません。
「あなたを王国法廷の証言協力者として登録します。公開審理が終わるまで、共同検査所の管理下に置きます。移動には許可が必要です。財産保全も継続。返還義務も残ります」
「その後は、牢へ?」
「刑の判断は法廷が行います。ただし、情状記録と就労案を併せて提出します」
わたくしは三枚目の書類を彼女の前へ置きました。
共同検査所の記録係。三か月の見習い。賃金は定額で、その一部を被害返還へ充当する契約です。
銀板の受領記録と二重帳簿を照合できたマリエルには、数字を読む最低限の力がありました。虚飾へ使った力を、今度は虚偽を見抜くために使っていただきます。
「聖女としてではありません。奇跡を起こす必要も、白い服を着る必要もない。一人の実務者として働き、働いた分から返してください」
マリエルは契約書を見つめたまま、長く動きませんでした。
「わたしが記録係になれば、銀板に騙された人たちは怒りませんか」
「怒る方はいらっしゃるでしょう」
「それでも、ここにいてよいのですか」
「いてよいかどうかではなく、果たすべき義務がここにあります。居場所とは、無罪の褒賞だけではございません。責任を引き受ける者にも、立つ場所は必要です」
やがて彼女は羽根ペンを取りました。
マリエル、とだけ署名します。
聖女の称号も、飾り文字もありません。
正午の鐘が鳴る直前、仮保護終了の記録と、証言協力者登録、条件付き就労契約の三通へ受領印が押されました。
偽聖女マリエルは、その時刻をもって消えました。
残ったのは、返すべきものを抱えた一人の女性です。
午後、共同検査所から最初の報告が届きました。
マリエルが銀板の過去の使用記録を照合し、水質異常が疑われる井戸を七か所特定したのです。すぐに検査員が派遣され、うち二か所では古い沈殿物が見つかりました。井戸は閉鎖せず、清掃用の迂回水路を設け、翌朝の配水を止めずに処置できるとのことでした。
借り物の奇跡が終わった翌日から、記録によって暮らしが守られる。
それで十分でございます。
すべての書類を閉じると、エルネスト様がわたくしの右手へ目を落としました。
「今日の痛みは?」
「零に近い一ですわ」
「近い、は申告書で認められる表現か?」
「では、一。ただし改善傾向にございます」
彼は満足したように包帯の端を確かめ、それからわたくしの指先へそっと口づけました。
「これは治療費に含まれますか」
「私からの任意の支払いだ」
「過払いでしたら返還いたしますけれど」
「受領を拒む」
胸の奥に生じた温かさは、帳簿へ記す科目が見つかりませんでした。
その夜、ハンナが王都から届いた旧公爵家の財産目録を運んできました。
封を解くと、宝飾品の購入証書、祝宴の未払票、空になった領地金庫の残高表が机いっぱいに広がります。
最上段に置かれていたのは、イザベラが肌身離さず持っていた、あの金庫の鍵でした。
鍵に添えられた札には、短くこう記されていました。
――金庫内残高、銀貨零枚。未払債務、なお集計中。
(第31話へ続く)




