帰る場所は、門の外に
王都の北門をくぐったとき、沿道から歓声は上がりませんでした。
石畳の両側に並ぶ人々が抱えているのは、花束ではなく空の水桶です。誰もが黙って、ヴェルデンの紋章を掲げた馬車を見つめていました。
「歓迎としては、ずいぶん実用的ですわね」
向かいに座るハンナが窓の外を一瞥します。
「お嬢様を無能と呼んだ王都らしいお出迎えです。今になって、空桶の数だけ己の愚かさを並べております」
「桶に罪はございませんわ」
「桶だけには、でございますね」
わたくしは返事の代わりに、膝の上の水路図へ目を落としました。
王都へ入る前に、エルネスト様は大公国の護衛を門外へ残しておられます。他国の兵を率いて清算人が帰還すれば、救援も威圧に見えるからです。
それでも彼ご自身は、当然のように同じ馬車へ乗っていらっしゃいました。
「ここから先は、王国清算人の職務です」
わたくしが念を押すと、エルネスト様は頷かれました。
「承知している。私は口を出さない」
「では、なぜ同行を?」
「君が三日眠らず働いた前例を知っているからだ」
信用されているのか、されていないのか、判定に困るところです。
旧王宮の会計室には、十二席評議会が集めた台帳が積まれていました。
祭祀費の納品記録、地下水路の補修記録、銀板の点検簿。三つを日付順に並べると、親板が壊れるまでの経緯は、奇跡などという曖昧な言葉を必要としないほど明瞭でした。
二年前、点検係は親板を支える石枠に三本の亀裂を見つけています。翌年には、銀板の縁が石へ触れ、振動のたびに削れていると報告していました。
修理に必要なのは銀貨四千二百枚。
申請書には、却下を示す赤い線が引かれていました。
その下にある署名は、レナード。
さらに同じ日、同額の銀貨が戴冠式用の装飾費へ移されています。金箔冠、緋色の敷物、祝宴用の葡萄酒。そして、マリエルが祝福を行うための白い壇。
まだ王ですらなかった方の戴冠式は、王都の飲み水より四千二百枚だけ高価だったようです。
「こちらが、却下時の議事録です」
評議会から派遣された書記が、一枚の紙を差し出しました。
欄外には、レナード自身の筆跡で短く記されていました。
『聖女の祝福を受けた板が壊れるはずはない』
なるほど。
壊れないと書けば、石の亀裂まで文字を読んで塞がると思われたのでしょう。王家の教育には、石工の先生も加えるべきでしたわね。
わたくしは三冊の台帳へ番号を振り、修理申請書と議事録を証拠箱へ収めました。
「旧王族の奢侈債務として確定します。水路修復費を民へ負担させてはなりません」
評議会の承認印が順に捺されます。
これで、金箔冠の代金を井戸税へ付け替える案は退けられました。冠を被った本人がいなくとも、その請求書だけは民の頭上へ載せようとしていたのです。まったく、最後まで重い冠ですこと。
とはいえ、請求先を正しただけでは喉は潤いません。
わたくしは祭祀費の納品記録から、七枚の子板を設置した日を抜き出しました。次に、水路図へそれぞれの設置場所を書き込みます。
銀色の沈殿が見つかった井戸は二十六か所。しかし、すべてが同じ濃さではありません。
濃い井戸は、いずれも旧王宮から東へ延びる祭祀用水路に繋がっていました。一方、北側の生活用水路では、二本の井戸にしか沈殿が出ていません。
「親板の水がすべてへ流れたのではございません。祭礼の噴水へ送るため、東側だけ水門を開いたのでしょう」
「祭礼は半月前に中止されています」
「ええ。けれど水門を閉じる係は、その三日前に未払いを理由に辞めています」
華やかな式を命じる方はいても、式の後に栓を閉める方はいなかった。
王都が干上がった理由としては、あまりに王都らしい結末でした。
わたくしは北側水路の井戸を一つずつ再検査させました。透明な小瓶へ水を取り、白布の上で沈殿を確かめ、異常のない井戸には青い縄を結びます。
東側は全面封鎖。ただし水をせき止めれば、沈殿が一か所へ溜まります。そこで旧王宮の噴水池を空にし、石灰と砂を重ねた仮の沈殿池へ作り替えました。
水路の底をさらう者には、蝋を染み込ませた革手袋と長靴を支給します。作業は半刻ごとの交代制。集めた沈殿は乾燥箱へ封じ、銀板と同じ番号で管理させました。
さらに、北境第一協同宿場で使った水樽用の荷車六台を王都まで延長します。帰路には空樽ではなく、修復に使う砂と石灰を積むことにしました。
二日目の夕刻、北側の井戸十八か所が再開しました。
配給所では家族の人数を木札へ刻み、一人につき朝夕一杯ずつ。貴族家の使用人が樽を買い占めようとしても、木札がなければ一滴も渡しません。
かつて夜会でわたくしを笑った方々も、今は平民と同じ列に並んでおられます。
わたくしが並ばせたのではございません。
水が爵位を読まなかっただけです。
三日目の朝、王都のパン焼き窯が再び火を入れたとの報告が届きました。診療所と孤児院には優先して水樽が運ばれ、東側の沈殿も目に見えて薄くなっています。
仕事を終えて旧王宮を出ると、石段の下でエルネスト様が待っておられました。
本当に評議会へ口を出さず、ただ毎朝、わたくしの机へ温かな湯を置き、夜になると筆を取り上げに来るだけでした。
「本日の睡眠時間は確保済みですわ」
「まだ尋ねていない」
「お顔に書いてございます」
「君ほど帳簿を読むのが得意ではないが、顔を読む方は少し上達した」
並んで石段を下ります。
ここを出て行った夜、わたくしは一人でした。
正確にはハンナも、職人も、商人もいてくださいました。それでも、自分がどこへ行くのかを決める責任だけは、誰とも分けられませんでした。
今もそれは変わりません。
けれど、決めた道を隣で歩く方を選ぶことはできます。
「エルネスト様」
「何だ?」
「帰りも、同じ馬車へお乗りになりますか」
彼は足を止めました。
「大公としての護衛は、もう必要ございません。水路も評議会へ引き継げます」
「では、何として乗ればよい?」
わたくしは手袋を外し、自分から彼の手を取りました。
「わたくしが、一緒に帰りたい方として」
大きな手が、壊れ物を確かめるようにゆっくりと指を重ねます。
「その役目に、任期はあるのか」
「まずはヴェルデンまでです」
「短いな」
「延長は働き次第でございます」
「ならば、全力で務めよう」
彼の親指が、わたくしの指先を一度だけ優しく撫でました。
王都へ戻っても、奪われたものを取り返したいとは思いませんでした。
わたくしの机も、部屋も、婚約者という立場も、すでに必要ございません。
帰る場所とは、かつていた場所ではなく、自分で選んだ先にあるものです。
そのとき、北門の鐘が三度、激しく鳴りました。
駆け込んできた早馬の使者が、鞍から転げるように降ります。その手には青二本の荷札が結ばれていました。
「王国清算人へ緊急報告! レナードが黒鷲衛兵隊の残党を率い、ヴェルデンへ向かう水樽六台を奪取――北門の外で、荷車に火を放ちました!」
(第28話へ続く)




