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奇跡より、交代勤務

「井戸を封じてください。北境第一協同宿場だけではありません。七枚の銀板を設置したすべての井戸を、直ちに」


 わたくしが告げると、エルネスト様は理由を問い返すより先に、呼び鈴を二度鳴らしました。


 扉の外で待機していた文官が駆け込みます。室内には濡れた土に似た臭いが漂っていました。机上の木箱に収められた銀板――いまは墨を塗ったように黒ずんだそれから発しているのでしょう。


「宿場と三か所の車軸交換所へ早馬を出せ。飲用、調理、家畜用を問わず取水を止める。代替の水は上流の泉から運ばせろ」


「煮沸も禁じて!」


 マリエルが叫びます。椅子を蹴るように立ち上がった拍子に、淡い金髪が頬へ張りついていました。


「銀色に光る水は、火にかけると蒸気まで光るわ。吸い込めば喉が焼ける。あの板は濁りを消していたのではないの。親板へ送り返していたのよ」


 つまり七枚の銀板は、井戸の不純物をその場で消していたのではなく、細い魔力の流れを通じて親板へ移していた。


 見た目が綺麗になったからといって、汚れそのものが世から消えるわけではございません。


 帳簿と同じですわね。頁から数字を消しても、借金は礼儀正しく残ります。しかも忘れた頃に利息まで伴って。


「親板はどこにありますの?」


「王宮地下の祭祀室。わたくしが触れられたのは子板だけ。親板はレナード殿下が管理していたわ」


 直前の呼び方を聞き逃すほど、わたくしは親切ではありません。


 マリエルは彼を『殿下』と呼びました。過去の威光に縋ったのではなく、恐怖が口を滑らせたのでしょう。長く身についた呼称は、鎖を外しただけでは消えてくれないものです。


「壊されたと断言できる根拠は?」


「親板が満ちたなら、子板は一枚ずつ鈍くなる。でも一斉に黒くなるのは、繋がりが途中で断たれたときだけよ」


 声は震えていても、説明は明瞭でした。ならば今は、その知識を使わせていただきます。


 エルネスト様が机上の地下図面を広げました。羊皮紙の四隅を燭台で押さえる手に、迷いはありません。


 七つの井戸から伸ばした印を逆に辿ると、すべて王都の地下水路へ集まります。


 王宮の祭祀室は、その水路の真上でした。


「親板に集められていた不純物は、壊れればどこへ流れますの?」


 マリエルの顔から血の気が引きました。唇が動いたものの、最初の一度は声になりませんでした。


「一番近い水へ戻るわ」


 近い水。


 すなわち王宮地下を通り、王都の共同井戸へ続く水路です。


 胸の奥が冷えましたが、恐怖に割く時間はございません。恐怖は後でも味わえますが、水は今この瞬間にも汲まれているのです。


 早馬網へ青二本の荷札を回し、王都の十二席評議会にも同じ封鎖命令を送りました。井戸ごとに封印時刻、最後に水を汲んだ者、運搬先を記録させます。水樽は封蝋の色で安全な泉水と区別し、煮炊き場には二人一組の確認役を置きました。


「混乱を避けるため、理由は伏せますか」


 文官の問いに、わたくしは首を横へ振りました。


「『銀色の水と蒸気に触れるな』と明記してください。理由のない禁止は破られます。危険を知らせたうえで、代わりの水が届く時刻も添えるのです」


 止めるだけでは人は従いません。暮らしを続ける道を同時に示してこそ、命令は働きます。


 夜明け前、蹄の音とともに最初の返答が届きました。封蝋には霜がこびりつき、使者の外套から白い冷気が立ちのぼっています。


 北境第一協同宿場と車軸交換所では、警告が間に合いました。銀色に変わった水へ触れた者はなく、貯水槽も隔離済み。上流の泉から荷車十二台分の水を運び、朝の炊き出しにも支障はないとのことでした。


 安堵で力を抜くのは、すべての報告を読み終えてからです。


 一方、王都から届いた報告は、あまりにレナードらしいものでした。


 公開審理を待つ間、彼は王族専用の避難路を使って身柄の拘束を抜け出し、王宮の一角へ立て籠もったのです。そして祭祀室から親板を引き抜き、『偽聖女の証拠』として台座の封を槌で砕かせたそうです。


 マリエルの奇跡を偽物だと示せば、自分は騙された被害者として扱われる。


 そうお考えになったのでしょう。


 ご自身が彼女を聖女として持ち上げ、戴冠式まで強行なさった事実は、金箔の冠とともに記憶から剥がれ落ちたようです。ずいぶん都合のよい記憶ですが、そのような品を国庫で買った覚えはございません。


 親板が引き抜かれた直後、王宮前の共同井戸が銀色に光り始めました。さらに三つの井戸が使用不能となり、王宮の厨房と酒造所は操業を停止。命令を受けた黒鷲衛兵隊は、残っていた者の半数が槌を置き、十二席評議会へ親板強奪の経緯を証言したとあります。


 給与も水も与えず、それでも忠誠だけは湧いて出るとお思いだったのでしょうか。


 残念ながら、忠誠は井戸水より管理が難しいものですわ。権威という蓋を載せても、空の桶からは何も汲めません。


「わたくしのせいよ」


 報告を読んだマリエルが、震える声で言いました。紙を握る指先が白くなっています。


「奇跡に見せたくて、子板の仕組みを隠した。親板が壊れたときのことも、誰にも教えなかった」


「では、今から知っていることをすべて書いてくださいませ」


「責めないの?」


「責任は調査の後で決めます。今は一杯の安全な水の方が先です」


 許したわけでも、忘れたわけでもございません。ただ、順番を間違えないだけです。


 悔恨は水桶を満たしません。


 けれど、正確な証言ならば人を救えます。


 マリエルはしばらくわたくしを見つめ、それから新しい紙を引き寄せました。最初の一文字こそ歪みましたが、その後の筆致に迷いはありませんでした。


 彼女の説明によれば、子板との繋がりを完全に切れば、逆流は半日ほどで止まるとのことでした。そこで七枚を井戸から引き上げ、石灰を敷いた乾燥箱へ一枚ずつ収めます。黒い表面は削らず、布にも触れさせず、箱ごと番号を付けて保管させました。


 同時に、銀板へ頼らない水の管理へ切り替えます。


 上流の泉から宿場まで水樽専用の荷車を六台定期運行させ、井戸の脇には透明な小瓶を置きました。朝夕二度、汲み上げた水を瓶へ取り、色、沈殿、匂いを記録するのです。異常があれば、銀板が黒くなるのを待たず井戸を閉じられます。


 三日後、北境第一協同宿場ではすべての炊事場が再開しました。鍋から上がる湯気を見て子どもたちが歓声を上げた、と報告書の余白に小さく記されていました。


 五日後には、泉水を運んだ帰りの荷車が洗浄済みの空樽と診療所の使用済み布を回収するようになり、従来二往復していた運搬が一往復で済むようになりました。浮いた費用は、井戸番の常雇い二名分に充てられます。


 奇跡を失った結果、水は以前より安定して供給され、異常を見つける者には賃金まで支払えるようになりました。


「聖女がいなくても、水は守れるのね」


 マリエルが小さく呟きました。その声にあったのは寂しさよりも、肩から重荷を下ろした者の戸惑いでした。


「ええ。必要なのは聖女の名ではなく、毎日瓶を見る方です」


 華やかな祝福より、朝夕の確認。


 奇跡より、交代勤務。


 物語にはなりにくくとも、暮らしを守るのは大抵こちらです。


 最後の報告書へ署名したとき、窓の外はすでに暗くなっていました。燭芯の焦げる臭いが鼻につき、文字の列がわずかに滲みます。


 立ち上がろうとして、足元が揺れました。


 床へ手をつくより早く、エルネスト様の腕が背を支えます。外套越しにも伝わる体温が、ひどく確かなものに思えました。


「三日で眠った時間を答えてくれ」


「質問の前提に悪意を感じますわ」


「答えられない程度には眠っていない、と理解した」


 反論しようとしましたが、彼はわたくしを椅子へ戻し、温かな湯の入った杯を手渡しました。乾燥させた香草が一枚浮かび、柔らかな香りが立っています。


「君が皆を支えることを止めるつもりはない。だから、君を支える役目を私から奪わないでくれ」


 命令ではなく、願いでした。


 わたくしの働きを取り上げるのでも、弱い者として囲うのでもない。ただ支えることを許してほしいと、この方は仰るのです。


 わたくしは杯を両手で包みます。温かさが指へ移り、張り詰めていたものが少しずつほどけていきました。


「では、一刻だけお借りいたします」


「一刻でよいのか?」


「今夜は、です」


 わたくしが隣の椅子を示すと、彼はそこへ腰を下ろしました。


 肩が触れるほど近いのに、エルネスト様は勝手に距離を詰めません。ですから、わたくしの方から彼の肩へ額を預けました。


 一瞬、彼の呼吸が止まります。それでも腕を回すことはせず、ただわたくしが選んだ距離を守ってくださいました。


「これは、筆頭顧問としての休息です」


「ならば大公として、動かず務めよう」


「一人の男としては?」


「朝までこのままでいたい」


「却下いたします」


「厳しい審査だ」


 そう仰る声は、ひどく嬉しそうでした。


 約束の一刻が終わる直前、廊下を急ぐ足音が静けさを破りました。十二席評議会からの正式な書状が届いたのです。


 王都の地下水路には、砕けた親板から流れ出た銀色の沈殿が残っている。除去には旧王家の会計台帳と祭祀費の納品記録を照合できる者が必要であり、王国清算人セシリア・フォン・アッシュフォードの帰還を求める――。


 かつて追い出された王都へ戻ることに、未練はございません。


 けれど、飲めない水を置き去りにする理由もございませんでした。


 わたくしは背を起こし、帰還要請書へ承諾の署名を入れました。隣に立ったエルネスト様は止めません。ただ、すでに同行する者の顔で書状を見下ろしています。


 乾く前の署名へ砂を落とし、わたくしは彼へ告げました。


「明朝、わたくしは王都へ戻ります」


(第27話へ続く)

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