銀板は銀板として
マリエルの要求を読み終え、わたくしは封書を机へ置きました。
上質とは言い難い紙から、乾ききらない泥と香油の匂いがかすかに漂っています。急いで身を隠しながらも、かつての暮らしを捨てきれなかったのでしょう。震えを隠そうとした筆跡は、終わりへ近づくほど強く紙へ食い込んでいました。
「ずいぶんと強気でございますね」
背後から覗き込んだハンナが、呆れた声を出します。
「盗品を返す代わりに身の安全を買おうとは。銀板で自分に値札をつけるおつもりでしょうか」
「それでは銀板が足りませんわ」
「お嬢様」
「冗談です」
半分ほどは。
マリエルを好ましく思っていないのは事実ですが、人の命を銀の重さで量る趣味はございません。ましてや、嫌いな相手だから規則の外へ蹴り出すような真似をすれば、規則を守る意味そのものが失われます。
ただし、亡命と盗品の返還も、同じ帳簿へ記すべきではありませんでした。
「彼女が保護を求める事情は審査します。銀板は銀板として返還を求めます。二つは別件ですわ」
「要求を呑むのではないのだな」
窓辺で封書を読んでおられたエルネスト様が確認なさいました。
「ええ。これを取引にすれば、次はより多く盗んだ者ほど有利になりますもの」
実に困った報奨制度でございます。盗人同士で勤勉さを競われては、保護する側の倉庫が先に空になりますわ。
わたくしはマリエルに、国境の共同検査所へ出頭するよう返事を出しました。身柄はその場で保護する。ただし亡命の許可は事情聴取の後に決め、銀板は王国清算人であるわたくしへ引き渡すこと。
危害を加えないとは約束しましたが、罪をなかったことにするとは一言も書きませんでした。
三日後、マリエルは現れました。
泥の跳ねた外套をまとい、飾りのない荷馬車に揺られてきた彼女は、王都で見た頃よりひどく小さく見えました。車輪が石畳の継ぎ目で止まり、軋んだ音を立てます。御者に手を借りず降りようとした彼女の靴は、片方の踵が欠けておりました。
聖女を演じていた頃の白い衣も、宝石を散らした髪飾りもありません。けれど、わたくしを見るなり顎を上げる癖だけは健在でした。
「銀板は持ってきたわ」
挨拶より先に、荷馬車を振り返ります。
「まず、共同検査所の方々へご挨拶を。ここはあなたの礼拝堂ではございませんので」
マリエルの頬が引きつりました。それでも室内の紋章と、左右に立つヴェルデンと王国双方の検査官を見回し、ぎこちなく頭を下げます。
運び込まれた木箱の中には、油を含ませた布で一枚ずつ包まれた銀板が十一枚。布を開くたび、曇った銀色が灯火を鈍く跳ね返しました。
番号、刻印、縁に刻まれた工房印を照合すると、いずれも王家の会計から代金が支払われた物でした。検査官二名にも確認してもらい、記録へ署名を添えます。
「これでわたくしを亡命させるのでしょう?」
「いいえ」
「約束が違うではないの!」
「保護を求める事情を審査するとお約束しました。銀板はあなたの所有物ではありませんから、交渉材料にはなりません」
盗んだ馬を返した者に、その馬を代金として支払う者はおりますまい。
マリエルは勢いよく椅子から立ちかけました。しかし、左右に控える検査所の者たちが一歩も退かないのを見て、衣擦れの音とともに座り直します。
「では、返さなければよかった」
「それをお決めになる機会はございました。ですが、あなたは返還を選んだ。少なくとも、その事実は審査記録へ残します」
罠にはめるつもりも、恩を着せるつもりもありません。
選んだ結果を、選んだとおりに記すだけです。それが彼女にとって有利であろうと不利であろうと、わたくしの感情で一行を増減させることはできません。
事情聴取で、マリエルはようやく王都を逃げた理由を語りました。
銀板の口座が凍結された直後、レナード殿下は彼女に、すべては聖女が勝手に行ったことだと証言するよう命じたそうです。拒めば、黒鷲衛兵隊へ引き渡すとも。
話すうちに、彼女の顎は少しずつ下がっていきました。指先は膝の上で固く組まれ、爪が白くなるほど力が込められています。
さらに彼女は、衣の内側から薄い帳面を取り出しました。汗を吸った革表紙は反り返り、綴じ糸も何度かほどかれた跡があります。
「支払いの控えよ。あの方は同じ銀板の代金を、王家の祭祀費と軍備費の両方に載せていたわ。差額は黒鷲衛兵隊に渡していた」
同じ品を二度買ったことにして、浮かせた銀貨を私兵へ流す。
帳簿の数字が二倍になれば、奇跡まで二倍になるとお考えだったのでしょうか。残念ながら、増えるのは横領額だけでございます。
控えにはレナード殿下の私印と、受領者の署名が残っていました。印影の癖も、以前わたくしが処理した王家の支出命令書と一致します。
十二席評議会へ写しを送ると、その日のうちに王家祭祀口座の全支出が停止されました。翌朝には、三か月分の給与が祭祀費から支払われると信じていた黒鷲衛兵隊のうち四十六名が、王都の検査所へ武器を預けたとの報告が届きます。
封蝋を割り、淡々と人数を確認しただけなのに、ハンナは「見事に崩れましたね」と息を吐きました。
わたくしは彼らを唆しておりません。
支払われるはずのない給与を、支払われると偽った方がいただけです。
虚偽という柱は、寄りかかる者が増えるほど見事に折れるものですわ。
マリエルには三十日間の仮保護が認められました。その間に証言を照合し、彼女自身が関与した不正を調べることになります。寝所と食事は与えられますが、移動には制限があり、帳面も証拠として預けねばなりません。
「わたくしを裁くつもり?」
「わたくし一人では裁きません。証拠と規則に従って決めます」
「あなたは、わたくしが憎くないの?」
「憎しみで審査結果を変えれば、あなたと同じ舞台へ上がることになりますもの」
マリエルは唇を噛み、やがて目を逸らしました。
赦したわけではありません。救ったつもりもありません。ただ、彼女にも規則を適用しただけです。
持ち込まれた十一枚の銀板は、大公府で検査しました。
七枚は水に混じる微細な濁りを沈める板、三枚は弱い保温板、一枚は効力を失っていました。水用の七枚を北境第一協同宿場と新しい車軸交換所の井戸へ設置すると、煮沸に使う薪が一日あたり荷車二台分減りました。
さらに六日後、宿場の診療記録では、腹を壊して運び込まれる旅人が十八人から三人へ減っていました。薪を運んでいた者たちは空いた荷車で乾草を運べるようになり、宿場の管理人からは、冬支度が予定より早く進むとの添え書きまで届きます。
借り物の奇跡でも、置き場所と管理者を正しく決めれば、誰かの暮らしを支える道具になります。
これで十一枚は、ようやく聖女の飾りではなく、人のために働き始めました。
「君は自分を傷つけた相手にまで、公平でいられるのだな」
報告書を閉じたエルネスト様が、静かに仰いました。
夕暮れの執務室には、わたくしたち二人だけでした。窓から差す茜色の光が、机に積まれた書類の角を細く照らしています。
「公平であろうとしているだけです。心の中まで清らかとは申し上げませんわ」
「安心した。君が聖人なら、私は隣に立つ資格を失う」
「大公殿下が資格審査を恐れるとは存じませんでした」
「君の審査だけは、いつも恐ろしい」
冗談めいた口調でしたが、彼はすぐに表情を改めました。
「私は初め、C・Aという署名の持ち主を欲した。ヴェルデンに必要な才だと思ったからだ」
「存じております」
「だが今は、才だけでは足りない」
机を回り込んだエルネスト様が、わたくしの前で足を止めます。近づきすぎず、けれど手を伸ばせば届く距離でした。
「傷ついても他者の選択を奪わず、赦せなくても規則を曲げない。そんな君自身のそばにいたい。一人の男として、そう願っている」
逃げ道を塞ぐ言葉ではありませんでした。
答える権利を、わたくしへ残してくださる告白でした。だからこそ、その言葉はどの命令よりも深く胸へ届きます。
わたくしは差し出された彼の手に、自分の手を重ねました。
「では、次のお休みも、わたくしの隣を歩いてくださいませ」
「それは許可と受け取ってよいのか?」
「わたくしが選んだお返事です」
彼はわたくしの手を持ち上げると、問いかけるように一度止まりました。
わたくしが頷くと、指先へそっと唇が触れます。
礼式より長く、欲深さより短い口づけでした。
触れた場所から熱が広がり、顔を上げれば、彼もまた平静とは言い難い目をしております。それを知っただけで、胸の奥が少し軽くなりました。
胸の鼓動を数えている途中で、執務室の外から緊急鐘が三度鳴りました。
わたくしたちは同時に扉を振り返ります。
扉が開き、青二本の荷札を付けた急報が届けられました。
北境第一協同宿場で、設置した七枚の銀板が一斉に黒く変色した。
報告を聞いたマリエルは、椅子を蹴って立ち上がりました。
「親板が壊されたのよ。日没までに井戸を封じて――銀色に光った水には、誰にも触れさせないで!」
(第26話へ続く)




