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地下水路の足跡

 王宮の地下図面には、三種類の線が引かれていました。


 太い線は、今も使われている排水路。


 細い線は、封鎖された旧水路。


 そして点線は、王族だけが知る避難路です。


 古い羊皮紙からは黴と油の匂いが立ち、四隅は手垢で黒ずんでいました。幾代もの王族が、いざという時に自分だけは逃げ延びようと指でなぞった道なのでしょう。


「レナード殿下が入ったのは、旧水路の西口です」


 わたくしはエルネスト様と繋いだ手をいったん解き、図面の上へ定規を置きました。


 惜しいとは思いましたが、王宮の床下を王位継承権を失った方が這っている最中です。さすがに手を握ったまま処理するには、少々品のない案件でございました。


「西口から王宮地下へ入る道は二本。旧宝物庫へ向かう北路と、文書庫へ向かう南路ですわ」


「目的は財宝か、王権の証拠か」


「おそらく両方でしょう」


 王冠を捨てたのは、王位を諦めたからではありません。


 狭い水路を通るのに邪魔だったからです。


 執着とは、ずいぶん都合よく着脱できるものですこと。


 ただし、この図面だけを信じるわけにはまいりません。描かれたのは四十年以上前。改修の記録も、崩落箇所も反映されていないのです。


 わたくしは井戸の管理台帳と、王宮修繕費の支払記録を並べました。紙の端を押さえたエルネスト様が、黙って燭台を近づけてくださいます。揺れる火が、数字の列を金色に照らしました。


「地下図面ではなく、銀貨の流れを追います」


 過去十五年、石工へ支払われた費用。鉄格子、油、防鼠薬、滑車縄。品目と納入門を照合すれば、どの通路が生きているかは分かります。


 使われない道に油は要りません。崩れた先へ防鼠薬を運ぶ必要もない。反対に、帳簿で封鎖済みとされた場所へ定期的に縄が納められていれば、そこには誰かが通う理由があります。


 道は嘘をついても、修繕費までは上手に嘘をつけません。


 もっとも、王宮の帳簿は嘘をつく者ばかりでしたので、読み解く側には相応の忍耐が必要でしたけれど。


 半刻後、わたくしは図面の南路へ線を引きました。


「文書庫へは行けません。七年前に崩落し、鉄格子で塞がれています。殿下が進めるのは北路だけですわ」


「旧宝物庫か」


「ええ。ただし、その先には何もございません」


 国王陛下が幽閉されていた旧宝物庫は、救出後に十二席評議会が検分しています。王家の印章も、継承文書も、残っていた銀器もすでに目録化され、別々の場所へ移されました。


 レナード殿下が命懸けで辿り着くのは、空の石室です。


 ご自分の治世を、実に忠実に再現しておられます。


 問題は、そのあとでした。


 旧宝物庫の裏には、王宮外の貯水槽へ通じる細い保守路があります。そこから逃げられれば、王都のどこへ潜むか分かりません。


 わたくしは早馬用の青二本の荷札を取り出しました。


 第一便は十二席評議会へ。旧宝物庫を包囲すること。ただし中へ踏み込まず、投降を呼びかけること。


 第二便は井戸管理人へ。北側貯水槽の水門を閉じ、南側の排水門を半分だけ開くこと。


 第三便は王宮の文書管理役へ。すべての継承文書と国印の所在を、十二席立ち会いのもとで再確認すること。


「水を流して追い出すのか?」


「いいえ。流量を変えれば、足跡の泥がどちらへ続いたか分かります。追い詰める必要はございません。出口を一つにして、そこで待てばよいのです」


 追われた者は、予想外の道を選びます。けれど、自分で選んだと思わせた出口の先なら、争わずに待ち受けられる。


「兵には剣を抜かせません。殿下にも、投降する余地を残します」


「承知した。君の望む形で終わらせよう」


 エルネスト様はすぐに護送隊へ命令を出し、夜間早馬の交換地点を二か所追加してくださいました。


 これで王都まで、通常より一刻早い。


 さらに、給水を終えて戻るはずだった空荷の馬車十二台を、北境第一協同宿場へ留めました。樽を洗浄し、常時水を満たしておけば、井戸の事故だけでなく火災や街道封鎖にも使えます。


 王都の井戸騒ぎから始まった臨時の給水隊を、ヴェルデンと十二席評議会が共同で管理する常設の救援隊へ改める。


 費用は交易税の一部から折半し、御者と樽の管理人には待機日も賃金を払う。


「仕事がない日の賃金まで保証するのか」と問う評議員への返答には、こう記しました。


『待つことも任務の一部です。飢えた御者に、緊急時だけ忠実であれと命じる方が高くつきます』


 夜明け前、双方の承認が届きました。


 十二台の給水馬車と三百十二の樽は、その日から国境救援隊の共有財産となりました。


 危機が去ったからと人も仕組みも捨てるのは、浪費でございます。役目を変えて働いていただく方が、数字にも人にも優しいのです。


 そして日の出直後、王都から報告が届きました。


 レナード殿下は旧宝物庫へ到達していました。


 空の棚を倒し、石壁を剣で叩き、隠し金庫を出せと叫んでいたそうです。


 どなたに命じていたのかは、報告書にも書かれておりません。同行者は一人もいなかったのですから。


 かつては一声で何十人もの侍従が走った方が、空の石室で石壁へ命令を下す。権威とは、従う者がいなくなれば音の大きな独り言にすぎません。


 包囲を告げられると、殿下は保守路へ逃げ込みました。しかし排水門から入った細い流れが、泥の上に足跡を浮かび上がらせました。


 待っていたのは、かつて二か月も給与を払われなかった王国北境兵でした。


 殿下は国王印を掲げて道を開けるよう命じたそうです。


 けれど、その印は無断使用が明らかになった時点で失効しています。北境兵は共同検査所の規則に従い、印章を受領し、受領証まで殿下へ差し出しました。


 受け取る手が泥まみれだったため、受領証は地面へ落ちたとのこと。


 お気の毒に。


 紙の方が、ではございますが。


 レナード殿下は傷一つ負わず拘束されました。


 黒鷲衛兵隊の残党も、助けには現れませんでした。金で集めた者は、金が尽きれば去る。それだけのことでございます。


 十二席評議会からは、身柄をヴェルデンへ移して裁くべきだという意見も届きました。


 わたくしは却下しました。


「殿下が害したのは王国の民です。王国の法廷で、公開の審理を受けていただきます。特別な牢も、特別な刑も必要ございません」


 復讐のために国境を越えさせれば、王国の失敗をヴェルデンへ持ち込むことになります。


 わたくしは、自分のものだけを持って王国を去りました。


 レナード殿下の罪まで、引き取るつもりはございません。


 返書へ印を押したところで、指先が震えていることに気づきました。蝋の上に落ちた印影が、ほんのわずかに歪んでいます。


 眠気ではありません。


 あの方が捕らえられたと知って、ようやく恐ろしかったのだと分かったのです。


 失敗すれば誰が傷つくか。逃げられれば何を奪われるか。考えるべき項目へ細かく分けている間は、恐怖にも帳簿の一欄でいてもらえました。


 けれど終わってしまえば、もう数字の陰へ隠してはおけません。


 エルネスト様は何も問わず、わたくしの前へ片膝をつきました。目の高さが同じになり、逃げ道のないほど真っ直ぐに見つめられます。


「セシリア。君は恐れてもいい」


「筆頭顧問としては、あまり推奨されない状態ですわ」


「今は公務ではない」


 その言葉は、わたくしが鎧代わりにしていた肩書きを、丁寧に外しました。


「では……少しだけ、そばにいてくださいますか」


「少しでは足りない」


「契約外の長時間勤務になりますけれど」


「私が望んで残る」


 迷いのない声でした。命令でも保護でもなく、彼自身の選択を差し出す声。


 わたくしは、自分から彼の肩へ額を預けました。


 支える腕は強く、それでいて、わたくしが離れようと思えばいつでも離れられるほど静かでした。


 だからこそ、もうしばらく離れないことを選びました。


 耳を澄ませば、彼の心音は落ち着いていました。その一定の響きを聞いているうちに、わたくしの指先からも少しずつ震えが消えていきます。


 やがて次の早馬が到着し、拘束時にレナード殿下から押収した品の目録が届きました。


 短剣。失効した国王印。空の革袋。


 そして、マリエルが祝福に用いていた魔道具と同じ紋様を刻んだ、割れた銀板。


 裏面には、王宮の備品番号が残っていました。


 借り物の奇跡を購入した代金は、王家の会計から支払われていたのです。


(第24話へ続く)

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