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井戸に王冠は映りません

 青二本の荷札を結んだ十三通の文書は、朝の鐘が鳴り終わる前に国境を発ちました。


 十二通は王都の井戸を管理する各組合へ。


 残る一通は、十二席評議会へ。


 命令ではございません。ヴェルデン大公国の筆頭顧問として命じる権限はなく、王国清算人としても井戸を封鎖するには評議会の承認が必要です。


 ですから、文書には事実だけを記しました。


 レナード殿下の遺棄した鉄箱から、十二の井戸に赤印を付した地図が発見されたこと。


 同行していた黒鷲衛兵隊の荷から、油紙に包まれた灰色の粉末が十二袋押収されたこと。


 粉末の用途が判明するまで、井戸水の使用を止め、縄と滑車を外し、見張りを二名ずつ置いていただきたいこと。


 そして、封鎖によって生じる飲み水の不足には、共同交易組合が給水樽を送る用意があること。


「毒、と断定なさらないのですね」


 文面を読み返していたハンナが尋ねました。


「確定していないことを確定したように書けば、こちらの信用まで濁りますもの」


「井戸水だけに?」


「ハンナ」


「失礼いたしました」


 まったく反省していない顔でございます。


 灰色の粉末は、大公府の薬師に調べさせました。結果が出るまで半日はかかります。けれど、人の口へ入る水に関しては、疑いだけで止めるに足ります。


 問題は、王都の一日分の水でした。


 十二の井戸を一斉に封じれば、民は喉の渇きより先に不安へ駆られます。水を求める列は争いを生み、争いは根拠のない噂を育てるでしょう。


 わたくしは母の算盤を机へ置きました。


 王都の推定人口、病院と孤児院の必要量、荷車一台に積める樽の数、国境から王都までの所要時間。


 玉を弾き終えたところで、エルネスト様が地図の脇へ別の台帳を置かれました。


「ヴェルデン側の給水樽は、今朝の時点で百八十六。街道沿いの交換所から空樽を集めれば、夕刻までに三百を超える」


「兵站用の馬をお借りしても?」


「貸すのではない。共同で運ぶ。水は国境を越えても敵にならない」


 わたくしは顔を上げました。


 国境を侵犯された翌朝に、侵犯した側の都へ水を送る。


 甘い判断だと責める者はいるでしょう。けれど、鎖で連れてこられた民と同じく、井戸の水を飲む民も、レナード殿下の命令を書いたわけではございません。


「では、代金は王家直轄領の清算勘定から」


「不要だ」


「エルネスト様」


「君なら、飲み水を盾に利息を取る相手とは二度と契約しないだろう」


「当然ですわ」


「私も同じだ」


 あまりにも迷いなく言われ、わたくしは算盤の玉へ指を置いたまま黙りました。


 この方は、わたくしの計算を信頼してくださいます。


 けれど近頃は、計算を始める前のわたくしの選択まで、先回りして理解してしまわれる。


 それは少々、困ります。


 胸の内を隠しておく帳簿が、日に日に薄くなってしまいますもの。


 給水隊は、北境第一協同宿場を中継地として組み直しました。定住した三百六十二名のうち、桶職人と荷車の扱いに慣れた者が樽の点検を申し出てくれました。元護送兵二十三名は街道の警護を、共同検査所の王国北境兵は王都側の引き継ぎを担当します。


 かつて追放された者が、追放した国の民へ水を運ぶ。


 わたくしは美談として記録するつもりはございません。


 彼らには働いた分の銀貨を払い、危険手当を加え、望まぬ者には断る権利を明記しました。


 善意に値札はつけられませんが、労働にはつけるべきです。


 昼過ぎ、最初の返書が届きました。


 十二席評議会は全会一致で井戸の一時封鎖を承認。各井戸の管理人も、滑車を外して水汲みを止めたとのことでした。


 さらに、王都側の検分で、井戸の縁に見慣れぬ封蝋の欠片が見つかったとあります。


 封蝋には、金箔冠の印。


 レナード殿下が戴冠式を強行した際に作らせた、あの王冠の印でした。


 ご自分で王位を名乗るだけでは足りず、王都の水にまで所有印を残したかったのでしょうか。


 王冠とは、随分と喉の渇く被り物ですこと。


 ほどなくして、薬師の検分結果も届きました。


 灰色の粉末は毒ではありませんでした。


 ただし、水へ入れると腐った卵に似た臭いを放ち、腹痛と嘔吐を引き起こす鉱物粉。井戸そのものを長く使えなくするほどではないものの、混乱を起こすには十分です。


 押収された黒鷲衛兵隊の一人が、評議会の聴取に応じました。


 命令は、王都へ戻ったのち十二の井戸へ粉を投じること。


 その後、「ヴェルデンが水源を汚した」と触れ回り、民を再び集めること。


 署名はありませんでしたが、命令書には金箔冠の印が押されていました。


 レナード殿下は国境で兵を失い、王都へ戻れば水を汚して敵を作り直すおつもりだったのです。


 民を鎖に繋いでも軍にならなければ、今度は喉を人質にする。


 実に効率の悪い統治でございます。人を従わせるたびに、ご自分の足場を一枚ずつ燃やしておられるのですから。


 夕刻までに給水樽三百十二が王都へ入りました。


 配給は病院、孤児院、乳幼児のいる世帯を第一順位とし、各井戸の管理台帳をそのまま受領簿へ転用しました。井戸ごとの世帯数が残っていたため、必要量の計算も重複の確認もできます。


 翌朝までに十二の井戸は洗浄され、検査用の銀片にも変色はなし。


 王都で水を原因とする死者は一人も出ず、騒乱も起きませんでした。


 代わりに、金箔冠の印がある命令書の写しが、十二席評議会の掲示板へ貼り出されました。


 レナード殿下が王都へ入ろうとした時、門を開ける者はいなかったそうです。


 わたくしは何も閉ざしておりません。


 あの方が、ご自分で最後の井戸と最後の門を失っただけです。


 報告書へ受領印を押すと、肩から力が抜けました。昨夜から数えて、眠っていない時間を考えるのはやめておきましょう。数字は正直すぎて、ときに品がございません。


「終わりましたわ」


「では、約束の一刻だ」


 エルネスト様が待ち構えていたように羽根ペンを取り上げました。


「昨日の一刻は、すでにいただきましたけれど」


「日付が変わった」


「そのような数え方をなさるとは、大公府の財政が心配です」


「筆頭顧問がいるから問題ない」


 反論の隙がございません。


 彼は窓辺に二脚の椅子を運び、湯気の立つ茶を置きました。公務について話さないという契約なので、わたくしたちはしばらく黙って、給水隊の空荷の馬車が国境へ戻ってくるのを眺めました。


 やがて、エルネスト様の指が椅子の間で、そっと上を向きました。


 昨日は非常時でした。冷えた手を温めるという、立派な理由もございました。


 今日は、理由がありません。


 ですからわたくしは、自分の意思でその手に指を重ねました。


「これは公務ではございませんわね」


「ああ」


「契約上の義務でも?」


「ない」


「では、わたくしが選んだことにしておいてくださいませ」


 握り返された手は、昨日よりも静かで、それだけに逃げ道がありませんでした。


 けれど、不思議と逃げたいとは思いませんでした。


 一刻が終わる直前、王都から十三通目ではない早馬が到着しました。


 届けられたのは文書ではなく、金箔の剥がれた王冠でした。


 内側には乾いた泥が付き、添えられた紙には一行だけ記されていました。


『レナードは王冠を捨て、旧水路から王宮地下へ侵入した』


 わたくしはエルネスト様の手を離さず、空いている手で王宮の地下図面を引き寄せました。


(第23話へ続く)

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