鎖より先に切るべきもの
鎖で繋がれた人々を前にして、最もしてはならないことは、正義に酔って矢を放つことでございます。
「弓兵に射撃禁止を。投石機も動かさないでください」
東門の楼上へ着くなり、わたくしは申し上げました。
隣に立つエルネスト様は、眼下の松明を見据えたまま即座に命じます。
「聞いたとおりにしろ。門前二百歩以内へ入るまで、こちらから攻撃はしない」
「わたくしの意見を聞かずに決めてよろしいのですか」
「君はもう、撃たせない理由を数えている顔をしている」
随分と妙なところで信頼されてしまいました。
もっとも、正解でございます。
黒鷲衛兵隊は三列。およそ二百名。先頭には盾兵ではなく、鎖で腕を繋がれた王都の民が置かれております。老人も、職人らしい男も、子を抱いた女性もいる。
一方、兵士たちの槍先は揃っておりません。革鎧は手入れされているのに、靴は擦り切れ、腰の食糧袋は薄い。進軍する軍というより、帰る場所を失った一団です。
やがて、白布を掲げた使者が門前へ進み出ました。
「偽王の退位宣言を破棄し、清算人セシリア・フォン・アッシュフォードを引き渡せ! 従わぬ場合、反逆者どもを一人ずつ処刑する!」
偽王。
正式な退位宣言を出した国王をそう呼ぶのであれば、レナード殿下にとって本物とは、鏡に映るご自分だけなのでしょう。
「返答をなさいますか」
「ええ。ただし、要求への返答ではございません」
わたくしは携えてきた清算台帳を開きました。
黒鷲衛兵隊はレナード殿下が金で集めた部隊です。忠誠ではなく契約で働く者に、忠義を説いても意味はございません。
ですが、契約で結ばれた者には、契約の言葉が届きます。
「大公府の印をお借りできますか」
「好きに使え」
「印璽を好きに使わせてはいけませんわ」
「君なら、私より丁寧に使う」
信用が重い。
胸が温かくなるより先に、胃が痛くなる種類の信頼でございます。
わたくしは文書を二通作りました。
一通は、鎖で拘束された王都民全員の保護を宣言するもの。
もう一通は、黒鷲衛兵隊に対する未払い賃金の受付証です。
清算の第一順位は未払い賃金。その原則は、わたくしを捕らえに来た兵士にも適用されます。好悪で支払い順位を変えるなら、それは清算ではなく私刑です。
「門前へ長机を十二脚。共同検査所の腕章を持つ者を配置してください。温かいスープと水、それから毛布を」
「敵兵にもですか」と役人が目を見開きました。
「武器を置いた後は、債権者です」
役人は一瞬だけ固まり、すぐに駆けていきました。
東門の小窓を開き、わたくしは使者へ文書を読み上げます。
「王国清算人として告知いたします。黒鷲衛兵隊の未払い賃金は、王家資産から第一順位で支払います。武器を置き、拘束した方々の鍵を渡した者から、氏名と雇用期間を登録なさい」
使者の顔が歪みました。
「買収か!」
「いいえ。支払期日の過ぎた給与です」
「殿下は戴冠の後、三倍を払うと約束された!」
「支払日は?」
使者が黙りました。
額ではなく、日付を尋ねられると弱い約束がございます。
「契約書は?」
さらに沈黙。
金箔の冠は作れても、給与明細までは輝かせられなかったようです。
わたくしは続けました。
「今夜登録した方には、未払い額の四分の一を確認金として銀貨で支給します。残額は王家資産の売却後、登録順ではなく勤務期間に応じて支払います。なお、人質を傷つけた者の請求は、損害賠償額を確定するまで保留いたします」
今度のざわめきは、鎖の向こうではなく、黒鷲衛兵隊の列から起こりました。
後方で、レナード殿下の紋章旗が激しく振られます。進軍命令なのでしょう。
しかし、兵士は動きません。
旗が二度、三度と振られるたび、槍が一本ずつ地面へ置かれていきました。
最初に前へ出た兵士が、腰から鉄の鍵束を外します。続いて二人、五人、十人。
やがて、槍の落ちる音が雨のように街道へ広がりました。
契約を破ったのは、兵士ではございません。
二か月も給与を払わず、さらに民を盾にしろと命じた雇い主のほうです。
黒鷲の旗が引き倒された直後、後方の馬車が急に向きを変えました。金箔の王冠を描いた旗だけを連れ、王都の方角へ逃げていきます。
レナード殿下は、ご自分を守るために集めた兵を、誰より早く置き去りになさいました。
実に指揮官らしいお振る舞いですこと。
兵士たちは逃げる馬車を追いませんでした。
彼らが運んできたのは忠誠ではなく、請求書だったのです。
門が開くと、わたくしは共同検査所の者たちと外へ出ました。エルネスト様も当然のように隣へ並びます。
「危険ですわ」
「だから一緒に行く」
反論としては乱暴です。
けれど、先へ立って庇うのでもなく、後ろから命じるのでもなく、同じ歩幅で歩いてくださる。その距離が、今はありがたく思えました。
鎖は八人ごとに一つの錠で繋がれていました。
鍵を受け取った役人たちが順に外し、解放された人々を門内へ案内します。北境第一協同宿場へ送る荷車を転用し、怪我人と子どもを優先して乗せました。
水車小屋から届いたばかりの紺色の毛織物は、外套になる前に毛布として使われました。さらに職人たちは余り布を細く裂き、保護を受けた者の腕へ結びます。
紺の布をつけた者には、食事、寝床、治療を重ねて配らない。
名前を申し出られない者も、まず保護する。
夜明けまでに、鎖で連れてこられた二百四十七名全員の受け入れが完了しました。重複配給は一件もなく、家族が離された場合の照合欄も作られました。
臨時の措置ではございますが、この仕組みはそのまま国境緊急保護規程として残せます。
侵攻は領土を一歩も奪えず、代わりにヴェルデンへ新しい受け入れ制度を一つ置いていきました。
戦争まで帳簿の改善材料にされるとは、レナード殿下もお気の毒なことでございます。
最後の鎖が外れた頃、わたくしの指は冷え切っていました。
羽根ペンを持とうとして、うまく曲がりません。
するとエルネスト様が、わたくしの手からペンを抜き取りました。
「今夜の分は終わりだ」
「まだ支給額の照合が」
「週に一度、公務について話さない一刻を設けると、君自身が契約書へ書いた」
「今は非常時です」
「非常時だから破る約束なら、最初から契約に入れるべきではない」
正論を、よりにもよってわたくしへ返してくるとは。
エルネスト様はご自分の手袋を外すと、わたくしの両手を包みました。戦場の名残が消えない門前で、その手だけが驚くほど温かい。
「君が皆を鎖から外すなら、私は君を仕事から外す役を引き受けよう」
「随分と困難な役目ですわよ」
「三年契約だ。覚悟はしている」
大公ではなく、一人の契約者として告げられた言葉に、胸の奥が小さく鳴りました。
わたくしは自分から指を動かし、彼の手を握り返します。
「では今夜の一刻は、手を離さないでくださいませ」
「ああ。君が離したくなるまで」
夜が明けたあと、黒鷲衛兵隊から引き渡された荷を検めました。
武器、鎖、空の食糧袋。そして、レナード殿下が逃げる際に置き去りにした鉄箱が一つ。
清算人として鍵を開けたわたくしは、中にあった王都の地図を机へ広げました。
赤い印が付けられていたのは、穀物倉でも兵舎でもございません。
王都の十二か所すべての井戸でした。
わたくしは直ちに、青二本の荷札を十三枚、机上へ並べました。
(第22話へ続く)




