王国の清算人
国王陛下が、わたくしの前に膝をついておられます。
窓から差し込む朝の光が、床に落ちた王の影を長く伸ばしていました。王冠こそお召しではありませんが、その御方が一国の主であることに変わりはございません。
あまりにも扱いに困る光景でした。
忠誠を示す臣下なら感涙すべきなのでしょう。けれど、わたくしの頭に浮かんだのは、この姿を誰かに見られた場合の証言記録と、陛下の膝を痛めぬうちに話を終える方法だけでした。
「陛下、どうぞお立ちくださいませ」
「返答を聞くまでは立たぬ」
「では先に申し上げます。お断りいたします」
陛下が顔を上げ、ハンナが背後で小さく息をのみました。
エルネスト様だけは黙ったまま、わたくしの手元を見ておられます。わたくしが何を選ぶか、口を挟まずに待ってくださっているのでしょう。
「わたくしは執行人にはなりません」
「王国を見捨てるのか」
「いいえ。国を終わらせることと、王家の都合を片づけることを、同じ箱へ入れないでいただきたいのです」
机上の退位宣言を取り上げました。上質な羊皮紙から、まだ新しい墨と封蝋の匂いがいたします。
陛下の署名も王璽も本物です。退位の意思、レナード殿下の継承権剥奪、王家直轄領の統治権を十二席評議会へ移すことまで記されている。
けれど、肝心なものがございません。
「王室債務の返済順位がない。兵士と下働きの未払い賃金も、孤児院への給付も、退役兵の扶助金も抜けております。王家が終わった途端、すべて消えるおつもりですか」
「そのつもりは――」
「つもりでは金貨一枚も支払えません」
王国を終わらせるなどと大きな言葉を使う方ほど、薪代やパン代を書き忘れます。華麗な歴史書には記されなくとも、冬の薪が届かなければ人は凍え、パンが焼けなければ朝は始まりません。
国とは王冠ではございません。
明日の朝に焼かれるパンと、それを運ぶ荷車と、働いた者へ渡される賃金です。
「陛下がお望みなのは、王国の終焉ではなく、王家による統治の終了です。でしたら必要なのは執行人ではございません」
母の形見の算盤を取り出し、珠を弾きました。乾いた音が、息苦しい静寂を一つずつ割ってゆきます。
「清算人です」
陛下はしばらくわたくしを見つめたあと、ようやく立ち上がられました。膝についた埃を払うこともなさらず、掠れた声で問われます。
「引き受けてくれるのか」
「条件がございます」
王家の宝物、直轄地、徴税権、鉱山権益を一覧にし、売却可能な資産と公共のため残す資産を分けること。
第一順位は未払い賃金。第二順位は食糧、医療、孤児院など命に関わる支出。第三順位は国内の小口債権者。外国債務は条約に従って整理し、王族個人の奢侈による債務を民へ転嫁しないこと。
そして、十二席評議会の承認なしに、わたくし一人の名で財産を処分しないこと。
「権限を求めぬのか」
「権限は必要です。独占は不要です」
数字を扱える者が一人しかいない仕組みは、わたくしが去ったあとのアッシュフォードと同じです。
あれを二度作るほど、わたくしは親切ではございません。
陛下は修正を受け入れ、その場で新たな宣言書へ署名なさいました。エルネスト様がヴェルデン側の立会人となり、ハンナが乾いた砂を振りかけます。
紙の上で墨が乾いてゆく間にも、数百年続いた王家の治世が静かに過去へ変わってゆきました。剣も怒号もございません。ただ、条文が増え、署名が並び、責任の所在が定められてゆくのです。
王璽を押す直前、陛下の手が止まりました。
「これで、我が一族の治世は終わる」
「はい」
「慰めてはくれぬのだな」
「慰めで未払い賃金が減るのでしたら、喜んで」
王璽が紙へ沈みました。赤い蝋がわずかにはみ出し、王家の紋章を縁取ります。
その日の午後、王都から届いた報告によれば、レナード殿下は陛下の不在を理由に、自らの戴冠式を強行なさったそうです。
ところが、王冠を保管する宝物庫の主計官は投獄中。予備鍵を探した侍従たちは、扉を壊す費用すら職人に前払いできませんでした。
結局、殿下は舞台用の金箔冠をかぶり、マリエル様の祝福を受けて玉座へ座ったとか。遠目なら立派に見えたかもしれません。王冠も威厳も、近くで確かめられなければ便利なものです。
式の途中で燭台の蝋燭が半分消えたそうです。
蝋燭商組合が、三か月分の代金未払いを理由に納入を止めたためでした。
「即位式が薄暗かったそうです」
報告書を読み上げたハンナが、澄ました顔で申しました。
「ご威光まで掛け売りになさったのでしょうか」
「信用限度を超えたのでしょうね」
戴冠式とは、王になるための儀式ではございません。
王であると周囲に認めさせる儀式です。
職人へ蝋燭代すら払えない方を、誰が国の支払人として信じるのでしょう。闇の中で輝くはずの王冠が金箔なら、さぞ火を惜しみたくもなったことでしょう。
もっとも、わたくしが口を挟むことではございません。
わたくしは何一つ止めておりません。商人たちが自分の勘定を守っただけです。支払わない者に売らない。それは反逆ではなく、ごく平凡な商いの作法でございます。
退位宣言の写しは、整備したばかりの夜間輸送網で各地へ送りました。
同時に、ヴェルデンでの仕事も止めるわけにはまいりません。
三百六十二人の新住民のうち、七十四人は織工と染色職人でした。一方、北部の倉庫には輸送先を失った羊毛が積まれている。
人はいる。材料もある。足りないのは、最初の賃金と売り先だけです。
そこで空いていた水車小屋を大公府が半年だけ貸し出し、商人組合から注文を先に募りました。ただし、前金の半分は設備ではなく職人の賃金口座へ入れる契約です。
仕事を与えるという言葉は美しいものですが、無給で働かせれば、ただの搾取でございます。感謝を賃金の代わりに差し出す雇い主ほど、他人の空腹には鈍いものです。
五日後、最初の紺色の毛織物が織り上がりました。
水車の音と織機の規則正しい響きが小屋を満たし、染め上げた羊毛の匂いが鼻をくすぐります。厚く、軽く、雨をよく弾く布です。窓辺で広げると、深い紺が夕暮れの空のように光を含みました。
国境警備隊が冬用外套として二百反を注文し、残りは商隊が北へ運ぶことになりました。
七十四人全員へ最初の賃金が支払われ、水車小屋では新たに十八人を雇うことも決まりました。硬貨を受け取った職人たちの安堵した顔こそ、どの勲章より確かな成果でございます。
「王家を畳みながら、工房を一つ開くのか」
夕刻、帳簿を閉じたわたくしへ、エルネスト様が呆れたようにおっしゃいました。
「終わらせる仕事ばかりでは、手が冷えますもの」
「君は、終わった後を必ず作るのだな」
「終わりだけを作るのは、仕事とは申しません」
彼はわたくしの机へ、一枚の契約書を置きました。
大公府財務顧問としての正式な任用状でした。期限は三年。報酬、権限、休暇、辞任の条件まで明記されております。どの条項にも曖昧な美辞麗句はなく、わたくしを所有物ではなく、一人の契約者として扱う文面でした。
最後の一項だけ、空欄でした。
「希望する条件を書いてくれ」
「随分と危険な契約ですわね」
「君を縛る契約にはしたくない。君が選んで残る契約にしたい」
胸の奥が、ゆっくりと温かくなりました。
必要だから置くのではなく、選ぶ余地ごと差し出してくださる。
以前のわたくしなら、報酬か監査権限を書き足したでしょう。けれど、それらはすでに不足なく記されています。ならば空欄に望むのは、数字では測れないものでもよいのかもしれません。
わたくしは羽根ペンを取り、一文を書き加えました。
『週に一度、日没後の一刻は、公務の話をしないこと』
「これは休暇条項か?」
「違反なさいます?」
「しない。その一刻を、私がもらっても?」
合理性の欠片もない質問です。
けれど、わたくしは自分の意思で署名しました。ペン先が紙を擦る音が、妙に大きく耳へ残ります。
「毎週とは申しません。まずは今夜、お試しで」
エルネスト様の指が、署名を終えたわたくしの手にそっと重なりました。強く引き留めるのではなく、望めばいつでも離せるほどの触れ方でした。
「では、最初の一刻を大切にする」
その約束から、まだ半刻も経っておりませんでした。
東の城壁から、国境侵犯を告げる七つの鐘が鳴り響きました。
低く重い音が窓硝子を震わせ、工房から戻ったばかりの穏やかな空気を打ち砕きます。
窓辺へ駆け寄ると、夕闇の向こう、街道を埋める松明の列が見えます。
先頭に掲げられていたのは、金箔の王冠を戴くレナード殿下の旗。
その後ろには、黒鷲衛兵隊と、鎖で互いの腕を繋がれた王都の民が並んでいました。
(第21話へ続く)




