夜明けより先に届くもの
「処刑の命令書を、ご覧になりましたか」
わたくしは侍従長へ尋ねました。
驚くことも、嘆くことも後でできます。夜明けは、こちらの都合で待ってはくれません。
「はい。国王印が捺されておりました。しかし、陛下の署名はございません」
「執行を担当するのは?」
「王宮北棟を占拠した黒鷲衛兵隊です。レナード殿下が金で集めた者どもにございます」
「旧宝物庫への出入口は」
「正面の鉄扉と、王室厨房へ通じる搬入口が一つ。ただし搬入口は、二十年前に封鎖されたはずです」
わたくしは壁の北境図を外し、その裏へ保管していた王都の給排水図を机へ広げました。
エルネスト様が眉を上げます。
「なぜ君の執務室に王宮地下の図面がある?」
「王宮の葡萄酒庫で、毎年、樽が帳簿より七本ずつ消えておりましたので」
「それを調べるために?」
「十六歳の頃に」
「君を無能と呼んだ者たちは、よほど幸福な目をしていたらしい」
見たくないものは何も見えないという意味なら、まことに幸福だったのでしょう。
図面上の細い線を指で辿ります。旧宝物庫の西壁。その先は使われていない貯水槽を経て、王宮御用商人の荷捌き場へ続いておりました。
「封鎖されたのは内側の扉だけです。石ではなく、鉛の留め具が三本。金槌と楔があれば外せます」
「兵を出す」
エルネスト様は即座に言われました。
「いいえ」
わたくしも即座に退けました。
「ヴェルデンの兵が国境を越えれば、これは救出ではなく侵攻になります。レナード殿下へ、失政を戦争で覆い隠す口実を差し上げる必要はございません」
「では、どうする」
「王都にいる者だけで動きます」
ハンナが、すでに便箋を三枚並べておりました。
「実家の荷札を使いますか」
「ええ。青二本を最優先。宛先は西市場のパン職人組合長、葡萄酒商会の番頭、それから葬送人組合です」
「葬送人まで?」
「荷車を夜間に走らせても、衛兵が中を確かめたがらない方々ですもの」
侍従長が咳き込みながらも、かすかに笑いました。
救出役は武人である必要などございません。王宮へ毎日入り、地下道の位置を知り、荷車を扱える者。わたくしが十年かけて支払いを遅らせず、無理な値引きをせず、名を覚えてきた人々です。
王家に仕えていたのではありません。
約束を守る相手と、仕事をしていただけです。
わたくしは三通の指示書を書き、最後に「C.A.」と署名しました。
「だが、届くのか」
「本日整えた荷車の検査制度を、そのまま急使へ転用します」
関所へ集まった商人たちの帰路は、王都へ向かっています。各宿駅で馬を替え、青い紐を二本つけた文書だけは積荷検査を免除する。昼に設けた規則へ一項加えるだけで、即席の早馬網となります。
新しい土地へ物を運ぶための仕組みが、古い国から人を救う道にもなる。
帳簿とは、ときどき剣より遠くへ届くのです。
「四時間で西市場へ届きます」
「成功の見込みは?」
「七割です」
「残り三割は」
「王宮側が搬入口の存在に気づいている場合です」
エルネスト様はしばし黙り、腰の短剣を外して机へ置かれました。
「これは持たせられない。ヴェルデン大公家の紋章がある」
「賢明です」
「代わりに、私個人の金庫から金貨を出す。馬代、口止め料、負傷者の治療費。好きに使え」
「貸付として帳簿へ記載いたします」
「贈与では駄目か」
「わたくしの決定へ、あとから恩を着せる余地を残したくございません」
「君に恩を売るつもりはない」
「存じております。ですから、きちんと返せるのです」
彼は困ったように息をつき、それから金庫の鍵をわたくしへ差し出しました。
「ならば貸そう。利息は、君が無事でいることだ」
「そのような利率は台帳にございません」
「新設してくれ」
真顔でおっしゃるので困ります。
わたくしの胸は、数字にできないものほど扱いにくいのです。
三通の指示書と陛下の私信は、青い紐を結ばれ、最初の騎手へ渡されました。
関所の鐘が三度鳴り、夜の街道へ蹄の音が消えていきます。
あとは待つしかございません。
待つという仕事は、働くよりも疲れます。
夜半過ぎ、王都から別の知らせが入りました。
レナード殿下が黒鷲衛兵隊へ約束した金貨を支払えず、代わりに王室宝物庫の銀器を渡そうとしたそうです。ところが宝物庫の鍵を持つ主計官は、陛下の直筆署名がない払出命令を拒絶。腹を立てた殿下は主計官を投獄なさったとか。
その結果、黒鷲衛兵隊の半数が持ち場を離れました。
「処刑を命じた兵が、処刑前に未払いで逃げました」
報告書を読んだハンナが申しました。
「忠誠を日雇いで買うなら、せめて日払いになさるべきでしたわね」
王座を奪う計画に、賃金支払表が含まれていなかったとは驚きです。
いえ、レナード殿下らしいと言えば、それまでですが。
夜明けまで、あと一刻。
誰も口を開かなくなった頃、机の下でわたくしの指が震えていることに気づきました。
陛下は、わたくしを守ってくださった方ではありません。婚約破棄の場でも沈黙し、王家がわたくしの働きを利用することを長く黙認なさいました。
それでも、偽造された命令で殺されてよい理由にはなりません。
助けると決めたのは、情ではなく、わたくしの判断です。
「後悔しているか」
向かいにいたエルネスト様が尋ねました。
「いいえ。ただ、怖いだけです」
「君も怖がるのだな」
「わたくしを何だとお思いですの」
「何でも一人で背負えてしまう人だと思っていた」
彼は席を立つと、机を回ってわたくしの隣へ来ました。
そして震えを隠していた右手を、両手で包まれました。
「だが、背負えることと、背負わせてよいことは別だ」
温かい手でした。
慰めの言葉ではなく、わたくしが選んだ責任を否定せず、その重さだけを分けてくださる手でした。
「結果が届くまで、離しませんの?」
「嫌なら離す」
「……では、今はそのままで」
夜明けの鐘と同時に、窓の外から馬の嘶きが響きました。
泥まみれの急使が階段を駆け上がり、青い紐を二本結んだ紙片を差し出します。
『鷹、籠を出る。パン窯にて保護。死者なし』
たった十四文字を、わたくしは三度読みました。
「陛下は救出されました」
声にした途端、全身から力が抜けました。
倒れなかったのは、エルネスト様が手を離さず、肩を支えてくださったからです。
その日のうちに、早馬網は正式な夜間輸送制度として整えました。宿駅八か所へ交代要員を雇い、商人の急報だけでなく、医師や薬も運べるようにします。
最初の一夜で要した費用は金貨十九枚。
救えた命は一つ。
けれど、その道はこれから幾百もの命を救うでしょう。
三日後、陛下を乗せた飾りのない馬車が、ヴェルデンの国境門へ到着しました。
痩せ、髪を乱した陛下は、それでもご自身の足でわたくしの執務室へ入ってこられました。
わたくしが礼を取ろうとすると、陛下はそれを手で制します。
そして王冠ではなく、一通の文書を机へ置き、わたくしの前に膝をつかれました。
「王国を救えとは言わぬ、セシリア」
文書の表題には、はっきりと『国王退位宣言』と記されていました。
「この国を終わらせる執行人に、なってほしい」
(第20話へ続く)




