偽りの玉座に捺す印はない
国王陛下が行方不明。
レナード殿下が玉座を封鎖し、国王印を勝手に使っている。
あまりにも大きな事実は、時として驚くより先に計算を始めさせるものです。
「伝令殿、その封書は王都のどこから?」
「近衛兵舎です。宰相閣下の書記官が、裏門から私を出しました」
「出立時刻と、途中で馬を替えた宿場をすべてお答えくださいませ」
泥まみれの伝令は面食らいながらも、順に答えました。時刻と距離に不自然な点はありません。
わたくしは新たな封書を受け取り、紙を灯りへ透かしました。
王室の公文書には、透かしへ月ごとの小さな印が入ります。今月は麦の穂。けれど、最初に届いたわたくしの拘束命令に浮かんだのは、先月の樫の葉でした。
「古い用紙を使っておりますわね」
続いて二通の印影を並べます。
国王印は同じに見えました。ただし、偽物のほうは左端がわずかに濃い。印そのものが偽造されたのではなく、本物を傾けて押した跡です。
「国王印を盗んだということか」
グレゴール隊長の声が低くなりました。
「断定はいたしません。陛下ご自身が捺されたのではない、と申し上げるだけです」
罪を裁くのは、わたくしではございません。
ましてや、かつての婚約者を玉座から引きずり下ろす趣味もありません。高い椅子へ勝手に登った方は、降り方までご自分でお考えになるべきでしょう。
ただし、偽りの王命でわたくしの客人と財産へ手を伸ばすのであれば、話は別です。
「グレゴール隊長。最初の命令書を証拠として封印し、王都へ照会を。返答があるまで、国王印のみの命令は執行しないでくださいませ」
「拒めば、反逆とされる」
「ですから拒むのではなく、確認するのです」
わたくしは臨時協定の余白へ一条を書き加えました。
王国から届く命令は、国王印に加えて宰相、近衛長、王室文書官のうち二名の副署を必要とする。副署がなければ三日間留保し、その間も民間交易は止めない。
「命令に従う意思を保ったまま、偽命令だけを通さぬ仕組みです」
「王都が副署を寄越さなければ?」
「正当な命令ではないと、自ら認めることになりますわ」
権威とは便利なものです。皆が頭を下げている間だけは。
けれど、一度でも印章の真贋を問われれば、紙切れ一枚ごとに説明を求められる。説明を嫌って威圧を重ねれば、今度は命令を運ぶ者から離れていくでしょう。
その予想は、半日も経たず現実となりました。
王都から第二の早馬が到着したのです。
命令は、国境警備隊全員に即時帰還を命じるものでした。ところが副署は一つもなく、俸給支払いの記載もございません。
グレゴール隊長は部下の前で封書を読み上げると、静かに箱へ収めました。
「照会が済むまで留保する。我々は国境と民を守る」
異を唱える兵は一人もおりませんでした。
むしろ、最初の通行税から未払い俸給の一部として銀貨が渡されると、兵たちは王都の紋章ではなく共同検査所の腕章を着けました。
レナード殿下は、わたくしを拘束するために国王印を使い、結果として北境の兵へ、ご自身の命令を疑う理由をお与えになったのです。
実に見事な采配でございます。敵を作る費用まで他人持ちとは、王族らしい豪胆さですこと。
「お嬢様、王都からもう一つ知らせが」
ハンナが商人便の小札を差し出しました。
王都の債権者十二名が、王室への追加融資を凍結。国王陛下の所在と、国王印の管理者が確認されるまで、一枚の手形も引き受けないとのことでした。
さらに宮廷へ納める予定だった肉、蝋燭、葡萄酒の商人たちも、現金払いへ切り替えたそうです。
「王宮では昨夜、晩餐が出なかったとか」
「まあ」
「マリエル様が『聖なる断食』と仰ったそうです」
「台所に食材がないことを、たいそう優雅に表現なさいますのね」
祈りで満腹になれるなら、王室料理人は全員解雇してもよろしいでしょう。もっとも、料理人のほうが先に職場を変えそうですが。
旧王国が空腹へ立派な名前をつけている間にも、こちらでは荷車が列を作っておりました。
臨時協定が周辺の村へ伝わり、麦、塩、薪、乾燥薬草が集まり始めたのです。
問題は、検査に時間がかかることでした。
わたくしは積荷を危険度で三つに分けました。封を切らず重量だけを量る低危険品、見本を抜き取る中危険品、全数を確認する武具と薬品。荷札にも白、黄、赤の紐を結び、読み書きのできない者でも列を間違えないようにいたしました。
三百六十二名の新住民から、荷運びに三十四名、計量に十二名、炊き出しに二十名を雇います。子どもを抱える者には交代制を設け、老人には紐と荷札の準備を任せました。
夕刻には、荷車一台あたりの検査時間が半分以下となりました。
通行税、宿泊料、飼葉代を合わせた一日の収益は、全員の食費と賃金を払ってなお銀貨百七十六枚。
「明日から薬草商へ共同倉庫を貸し出せば、さらに二割増やせます」
「逃げてきた者たちが、一日で税を生む住民になったか」
帳簿を覗き込んだエルネスト様が感嘆しました。
「税を生むために住民になるのではございません。暮らしを守れる場所で働いた結果として、税が生まれるのです」
「順序を間違えるな、ということだな」
「はい。王都には、ぜひ百回ほど筆写していただきたい言葉ですわ」
エルネスト様は声を立てて笑われました。
夜、旧関所の二階に臨時の執務室が整えられました。
窓際には、わたくしの母の算盤を置ける机。壁には北境の地図。書棚には関税台帳と住民名簿。
扉には新しい銅板が掛かっていました。
『ヴェルデン大公府筆頭顧問 セシリア・フォン・アッシュフォード』
「試用期間中に、ずいぶん立派な銅板をお作りになりましたのね」
「外すつもりがないので、木札では無駄になる」
「試されるのはエルネスト様です、と申し上げましたでしょう?」
「だから私の机も運ばせた」
室内の奥には、もう一つ机がございました。
大公が使うには質素で、しかもわたくしの席と向かい合わせです。
「監視なさるおつもりですか」
「逆だ。君が私を試しやすいようにする」
あまりに真顔で答えられ、わたくしは言葉に詰まりました。
エルネスト様は執務室の鍵を、わたくしの掌へ置きます。
「この部屋の決定権は君に預ける。私を追い出す権利も含めて」
「大公殿下を廊下へ?」
「君の仕事を邪魔した時は」
「では、夜更けまで居座られた場合は行使いたします」
「君も残るなら、居座るのではなく付き合う」
掌の鍵が、不意に熱を持ったように感じられました。
能力を買われて与えられた席です。それが嬉しいことに偽りはありません。
けれど、同じ部屋で同じ夜を越えることを、当然のように望まれた。その事実は、銀貨百七十六枚より計算が難しゅうございました。
「……まずは夕食をお取りくださいませ。聖なる断食を真似されては困ります」
「命令か?」
「筆頭顧問としての最初の決定です」
「喜んで従おう」
向かいの机で二人分の温かいスープをいただき、食後には明日の倉庫割り当てを決めました。
鐘が二つ鳴った頃、階下で馬が激しくいななきました。
扉が開き、グレゴール隊長とハンナが、一人の老紳士を支えて入ってきます。裂けた外套の下に見えたのは、王室侍従長だけが着用を許される濃紺の礼服でした。
老紳士は血の滲んだ手で、一枚の羊皮紙をわたくしの机へ置きました。
そこには国王印ではなく、陛下が私信にのみ用いる鷹の私印が捺されていました。
「セシリア様……陛下は生きておられます」
侍従長は息を絞り、続けました。
「王宮地下の旧宝物庫に幽閉されています。処刑は、明日の夜明けです」
(第19話へ続く)




