王命にも受領印を
門は、人ひとりが通れる幅だけ開けました。
朝靄の向こうで、馬のいななきと鎧の擦れる音が重なっております。冷たい風が細く開いた門を抜け、机上の書類の端を震わせました。
王国の騎兵は二十名。対するこちらは、武装した国境守備兵が三十名。
けれど、人数を競う必要はございません。
国境で最も強いものは剣ではなく、どちらの法が、どこまで届くかでございます。
「使者殿。ここから先はヴェルデン大公国です。武器を預け、徒歩でお入りくださいませ」
先頭の騎士が兜の奥で息をのみました。背後では騎兵たちが手綱を引き絞り、馬蹄が硬い地面を落ち着きなく叩いております。
「罪人を前に、我らへ剣を置けと?」
「罪人かどうかをこれから確かめるのでしょう? 結論を持参なさったのなら、審理ではなく誘拐ですわ」
背後でハンナが小さく咳払いしました。笑いを隠す時の癖でございます。
騎士はしばらくわたくしを睨んでおりましたが、やがて剣帯を外しました。金具が鳴り、預かり役の兵の手へ重い剣が渡ります。部下を門外へ残し、一人で入ってきました。
名はグレゴール。王国北境騎士隊の隊長でした。
旧関所の机に、王命書が置かれました。古い木の机には幾筋もの傷があり、その中央で鮮やかな封蝋だけが不似合いに威張っております。
わたくしは拘束を拒むより先に、右下の日付を確認しました。命令の声がどれほど大きくとも、書面の不備まで消してはくれませんもの。
「横領したとされる財産の目録は?」
「後日、王都の審問で示される」
「領民を扇動したとする書状、証言、支払記録は?」
「それも審問で――」
「では、証拠はお持ちでないのですね」
「王命が証拠だ!」
大変便利な理屈ですこと。空の皿へ『晩餐』と書けば、腹も満たせそうです。
わたくしはハンナへ合図し、革箱から三冊の帳簿を出させました。厚い表紙が机へ重なるたび、乾いた音が旧関所に響きます。
一冊目は持参財産の返還目録。
二冊目はアッシュフォード領収入の帰属証明。
三冊目は王家との交易契約終了に伴う精算書です。
「わたくしが王国から持ち出した財産は、こちらです。馬車、銀貨、証券、在庫品まで、一点ずつ王室財務局の検査を受けております」
すべての頁に、受領官三名の署名と王室財務局の印がございます。印影の位置も、使われた朱の色も、控えと寸分違いません。
グレゴール隊長の顔から、みるみる血の気が引いていきました。わたくしではなく、帳簿を相手に剣を抜くわけにもまいりませんでしょう。
「この印を偽物とお考えなら、王命書へその旨を追記してくださいませ」
「なぜ私が」
「横領を立証するには、王室財務局が虚偽の証明を出したと認める必要がございますから」
わたくし一人を罪人にするため、王家の財務記録すべてを信用できないものにする。
レナード殿下なら、たいした問題ではないと思われたのでしょう。
なにしろ殿下にとって帳簿とは、金額の隣へ署名するための紙束でしたもの。
「扇動についても同じです」
わたくしは三百六十二名の登録票を机へ載せました。紙束は王命書よりはるかに厚く、一人ずつの意思の重さを目に見える形で示しております。
「全員が自ら滞在先を選びました。帰国を希望する者には、馬車と七日分の食糧を支給すると明記してあります」
「追放された者へ選択などあるものか」
「だからこそ、わたくしは選択肢を用意したのです」
記録係となった娘が進み出て、登録の手順を説明しました。老農夫も、石工も、織り手も、自らの署名か指印を示します。皺の深い指、石粉の残る指、糸で荒れた指。どれも誰かに押させられた印ではございません。
誰も、わたくしを聖女とは呼びません。
命の恩人とも申しません。
ただ、契約内容を理解し、自分で残ると決めた。それで十分でございます。感謝で人を縛れば、鎖の材質が鉄から恩義へ変わるだけですもの。
グレゴール隊長は王命書を握り締めました。上等な羊皮紙に深い皺が寄ります。
「拒絶するなら、王国側の門を封鎖する」
「その場合、こちらの書面も受領なさいますか?」
わたくしは、十二名の債権者が署名した合意書を差し出しました。
国境封鎖、戦争、または王命による交易妨害が生じた場合、王家の対外債務は期限の利益を失い、即時返済となる。
先の債権者との会談で、彼らが最初に要求した条項でした。
商人は王命に逆らいません。
その代わり、王命によって生じる損失には、きちんと値札をつけます。
「封鎖の宣言と同時に、王家へ銀貨二十七万枚分の返済義務が発生いたします」
「二十七万……」
グレゴール隊長の声がかすれました。門外の騎兵たちにも数字は届いたらしく、さざ波のような動揺が広がります。
「なお、現在の王室金庫残高では、利息の四分の一にも届きません」
隊長は沈黙しました。
やがて、門外で待つ部下たちを振り返ります。磨かれているはずの鎧には細かな傷が増え、馬具にも繕った跡が見えました。
「我々は二か月、俸給を受け取っていない」
低い声でした。
王家は、わたくしの財産を奪い返して兵の俸給へ充てるつもりだったのでしょう。
けれど、奪う対象を先に罪人と呼んでも、空の罪状から銀貨は湧きません。ご立派な王命書も、兵の家族が煮る鍋へ入れれば煙になるだけでございます。
「封鎖以外の選択肢がございます」
わたくしは白紙を一枚取り出しました。
王国側とヴェルデン側から各二名の検査官を置き、積荷を共同で確認する。武器と兵糧の大量輸送は止める一方、民間の塩、麦、薬草、薪は通す。
通行税は従来の半額。その一部を、国境警備隊の未払い俸給へ優先的に充当する。
「王国の面目を潰さず、民も兵も飢えさせない臨時協定です。三十日間の効力といたします」
「私に王命を覆す権限はない」
「北境緊急条項に基づき、三日間の暫定運用を決める権限はお持ちです。その間に王都へ裁可を求めればよろしいでしょう」
隊長は驚いたようにわたくしを見ました。
「なぜ我が隊の規則を知っている」
「十年間、北境への補給費を計算しておりましたので」
誰が何を食べ、何頭の馬を飼い、冬までに薪を何束必要とするか。
王都の方々が忘れても、帳簿は覚えております。そして、帳簿を整える者がいなくなった結果まで、数字はたいそう正直に語るのです。
エルネスト様が、わたくしの隣へ大公印を置きました。銀の台座が朝の光を受け、静かにきらめきます。
「ヴェルデンは、セシリアの提案を受諾する」
「まだわたくしは署名しておりませんが」
「君が署名する案だから受諾するのだ」
あまりに迷いのない声で告げられ、指先が止まりました。
「内容をご確認くださいませ」
「確認した。だが最後に信じたのは内容だけではない。敵国の兵まで飢えさせまいとする、君の判断だ」
能力を認められることには慣れつつあります。
けれど、何を選ぶ人間なのかまで見つめられることには、まだ慣れておりません。
胸の奥が、灯りへ近づけた蝋のように柔らかくなりました。それを悟られまいとペンを持ち直しましたが、隣に立つ方の目はごまかせそうにございません。
わたくしが署名し、グレゴール隊長も続きました。
夜明けには共同検査所が設けられ、最初の塩荷車が門を通過しました。白い塩袋を積んだ車輪が軋み、止まっていた往来へ再び音が戻ります。三百六十二名のうち、読み書きのできる七名を検査補助員として雇い、御者十二名には荷の振り分けを任せました。
難民を雇用へ、封鎖を新しい交易路へ。
北境第一協同宿場は、一晩で収益を生む拠点となりました。
最後の書類を閉じた時、エルネスト様がわたくしの右手を取りました。
夜通し筆を握っていた指を、労るように両手で包まれます。冷え切っていた指先へ、彼の掌からゆっくり熱が移ってまいりました。
「大公府筆頭顧問の席を、正式に君へ預けたい」
「責任の重い席ですわ」
「だから君以外には預けられない」
「また選択をわたくしへ返してくださるのですね」
「君を望むことと、君の意思を奪わないことは両立する」
わたくしは彼の手の中で指を返し、握り返しました。
「お引き受けいたします。三か月の試用期間つきで」
「私の試用期間か?」
「もちろんでございます」
エルネスト様は困ったように眉を下げながらも、わたくしの手を離しませんでした。
その時、王国側から早馬が駆け込んできました。
泥まみれの伝令がグレゴール隊長へ新たな封書を渡します。荒い息とともに馬の鼻から白い蒸気が立ちました。隊長は封を切り、一読すると、先ほどの王命書を机へ伏せました。
「この拘束命令を出したのは、国王陛下ではない」
旧関所から、物音が消えました。
隊長は王国の紋章を外し、はっきりと告げました。
「陛下は三日前から行方不明だ。レナード殿下が玉座を封鎖し、国王の印を勝手に使っている」
(第18話へ続く)




