三百六十二人の新しい住所
国境へ向かう荷馬車には、穀物より先に鍋を積みました。
空腹の方へ麦袋をそのまま渡しても、粉を挽く水車も、火を起こす薪もなければ食事にはなりません。必要なのは善意の重さではなく、温かな一杯が手に届くまでの手順でございます。
「大鍋二十四、薪百束、乾燥豆十樽。医師を二名、産婆を一名。毛布は一人二枚で」
「穀物二百袋を全部使うのですか?」
組合の書記が青ざめて尋ねました。
「いいえ。七日分は六十八袋で足ります。残りは売ります」
「売る?」
「三百六十二名を、いつまでも救済されるだけの方々にしておくおつもりですか」
人は食べなければ働けません。けれど、働ける方へ食事だけを与え続ければ、やがて自尊心のほうが先に飢えます。
国境沿いには、先月の洪水で荷捌き場を失った宿場町が三つございます。道を直す者、倉庫を建てる者、馬を世話する者、炊事を担う者。新組合には人手が要り、領民には仕事が要る。
ならば両方を同じ帳簿へ載せればよろしいのです。
「六十八袋を救援費。八十袋を労賃の前払い。残り五十二袋は国境市で売却し、材木と工具を買います」
「では、彼らが働けなかった場合は」
「病人と子供と高齢者は救援費の対象です。働ける者の不履行だけを組合が負います」
「担保は?」
「わたくしの報酬を」
書記が絶句したところで、隣から別の声が割り込みました。
「大公府が保証する」
振り向くと、エルネスト様が外套をまとって立っておられました。右手の包帯は昨日より薄くなっておりますが、騎乗してよい傷ではございません。
「お留守番をお願いしたはずですが」
「聞いた覚えがない」
「目で申し上げました」
「私はまだ、君の視線を正確に翻訳できない」
「では今後、請求書にしてお届けいたします」
そう返しながら、わたくしは彼の保証を契約書から外しました。
「なぜ消す」
「大公府の慈善事業に見えてしまいます。これは新組合と、新たな働き手との契約です」
「だが、君一人の報酬を担保にはさせられない」
「失敗した時に困るのは、わたくしでなければなりません。成功だけを自分の手柄にし、損失を国へ預ける者を、わたくしは財務官とは呼びません」
遠い王都では、その反対をなさる方が玉座の近くに大勢いらっしゃいましたけれど。
エルネスト様はしばらく契約書をご覧になり、やがて保証人の欄ではなく、監督者の欄へ署名なさいました。
「損失は君が負う。ならば私は、君が不当に損をしないよう監督する」
「権限の使い方がお上手になりましたわね」
「良い教師がいるので」
困ったことに、そのお言葉は冬の外套より温かく感じられました。
国境の旧関所へ着いたのは、日が傾き始めた頃でした。
三百六十二名は、風を避けるように石壁へ身を寄せていました。泣く力も残っていない子供、裸足に布を巻いた老人、家財を背負った母親。わたくしが十年間、帳簿の数字として守ってきた方々です。
数字には、顔がございました。
「お嬢様……」
最前列にいた老農夫が、わたくしを見るなり膝をつきました。続いて、後ろの方々まで地面へ伏せようとします。
「お立ちくださいませ」
声が、思ったより強く出ました。
「ここには、アッシュフォード家の領主も領民もおりません。頭を下げる相手をお間違えです」
老農夫の顔から血の気が引きました。
わたくしは一歩進み、彼へ登録票を差し出しました。
「皆様はヴェルデンの保護を求めて国境を越えた自由民です。わたくしは新組合の財務責任者として、働き手を迎えに参りました」
「帰れと……仰らないのですか」
「帰りたい方を止めはいたしません。残る方には、七日分の食事と住居、八日目からの仕事をご用意します。選ぶのは皆様です」
救うという言葉は使いませんでした。
選択肢を奪われてきた方々へ、わたくしまで恩情という名の命令を押しつける気はございません。
最初に登録票を受け取ったのは、その老農夫でした。
「残ります。働かせてください」
その後ろで、三百六十一の手が上がりました。
大鍋から豆と麦の粥が配られる間に、わたくしは家族構成と職能を記録しました。石工二十九名、大工十八名、農夫百四十一名、御者十二名、織り手四十三名。読み書きのできる者が七名。そのうち一名は、かつて領主館の納税記録を写していた娘でした。
人材とは、椅子に座って勲章を眺める方のことではございません。何ができ、どこで力を発揮できるか。それを見つけられて初めて、人は帳簿の費目から未来の収益へ変わるのです。
日没までに、旧関所は臨時宿泊所へ変わりました。
空荷だった十七台の荷馬車は壁代わりに並べ、中央へ炊事場を設置。石工と大工には翌朝から宿場の倉庫修復を、農夫には街道沿いの休耕地を貸し出します。織り手には毛布の補修を依頼し、その代金は組合証書で支払うことにしました。
紙切れではございません。国境市で塩、粉、薪と交換でき、三十日後には銀貨への換金を保証する証書です。
三百六十二名の難民は、その日のうちに三百六十二名の契約者となりました。
同じ日の夕刻、ハンナの情報網からアッシュフォード領の報告が届きました。
イザベラは、没収した畑を王都の貴族へ売れば大金になると考えていたそうです。
ところが買い手は一人も現れませんでした。
当然でございます。畑は舞踏会の首飾りとは違い、土だけでは収益を生みません。耕す者、種を選ぶ者、水路を直す者、収穫を運ぶ者が揃って初めて価値を持ちます。
しかも追放された三百六十二名の中には、水路番と種籾庫の管理人が全員含まれておりました。
領主館は慌てて税率を三倍から五倍へ引き上げたとのこと。
収入が足りなければ数字を大きく書けばよい――実に勇ましい算術です。空の畑からは、五倍どころか五十倍の税も取れませんけれど。
「追加報告です」
ハンナが淡々と読み上げます。
「残った領民のうち百九名が、今朝、耕作放棄を申し出ました」
「理由は?」
「税を払うために働くより、畑を捨てたほうが借金を負わずに済むから、と」
わたくしは報告書を閉じました。
わたくしは妹から畑を奪っておりません。領民へ逃げろと手紙を送ったこともございません。
ただ、こちらへ来た方へ扉を開けただけです。
扉の向こうがましに見えたのなら、壁を築いた側が理由を考えるべきでしょう。
夜半、最後の家族を寝床へ案内した後、わたくしは登録簿の表紙へ新しい名称を書きました。
『北境第一協同宿場』
その下へ責任者として署名しようとした時、エルネスト様が灯りを掲げてくださいました。
「昨日の申し出を、覚えているだろうか」
「帳簿に載せていない案件も、忘れはいたしません」
「君は今日、この国の民を三百六十二人増やした」
「まだ滞在許可は仮のものです」
「ならば正式にする。君が望むなら」
望むなら。
彼はいつも、最後の選択をわたくしへ返してくださいます。
わたくしは責任者欄へ、自分の名を書きました。
続けて住所欄の『アッシュフォード公爵領』を二本の線で消し、その下へ記します。
『ヴェルデン大公国』
「お申し出への、最初のお返事です」
エルネスト様の手が、灯りを持ったままわずかに揺れました。
「最初、ということは」
「残りは働きぶりを拝見してから査定いたします」
「厳しいな」
「一生分の利息をお支払いになるのでしょう?」
彼は空いている左手を差し出しました。
今度は傷を確かめるためではなく、わたくし自身の意思でその手を取りました。
その瞬間、国境の警鐘が三度鳴りました。
夜の門前へ、王国の紋章を掲げた騎兵が到着したのです。
使者が読み上げた王命は、三百六十二名の返還要求ではございませんでした。
「アッシュフォード公爵令嬢セシリアを、王室財産横領および領民扇動の罪により拘束せよ。抵抗する場合、ヴェルデンとの国境を封鎖する」
わたくしはエルネスト様の手を離さず、門を開くよう命じました。
(第17話へ続く)




