逃亡者を追う道
逃げた者を追うとき、馬の速さだけを競うのは得策ではございません。
人は水を飲み、馬は飼葉を食べ、車輪は泥濘を嫌います。そして何より、金を持たぬ逃亡者は、どこかで必ず他人の信用を借りなければならないのです。
「南へ向かった馬車は一台。栗毛の四頭立てで、御者が二名。代官のほか、マリエルと護衛が六名」
報告を聞きながら、わたくしは机上の地図へ三本の線を引きました。窓から差す朝の光は薄く、倉の中には穀物と乾いた羊皮紙の匂いが満ちています。昨夜から眠っていない者も多いのに、誰一人として手を止めてはおりませんでした。
「王都へ戻る街道、修道院領へ抜ける旧道、そして国境外へ出る河岸道。可能性が高いのは河岸道です」
「王都へ庇護を求めるのでは?」
エルネスト様の問いに、わたくしは首を振りました。
「代官は軍費台帳を持ち出しております。王都にとって、彼は保護すべき忠臣ではなく、口を塞ぐべき証拠でございます」
「なるほど。マリエルも同じか」
「ええ。借り物の祝福が剥がれた今、彼女が王都へ持ち帰れるものは醜聞だけですもの」
ずいぶん軽い手土産ですこと。もっとも、王宮には似た品が山積みでしょうけれど。
わたくしは河岸道沿いの宿場を指しました。街道は途中で細くなり、山裾を縫って渡し場へ至ります。正規兵なら王都街道を封鎖するでしょう。けれど、逃げる側もそれくらいは承知しているはずです。
「追跡隊を三つに分けます。ただし、捕らえるために急ぐ必要はございません。北倉の封印札を、各宿場と渡し場へ回してください」
「封印札を?」
「新しい護送契約の試験を始めます。共同備蓄の護送人には、街道の通行証と引き換えに、通過した馬車の時刻、人数、車軸の状態を記録させます。宿場には情報一件ごとに銅貨を。虚偽が判明すれば契約から外す旨も添えてくださいませ」
昨日まで倉を襲おうとしていた者たちは、地図にない抜け道まで知っています。彼らをただ縄で縛っておくより、その知識に正当な値段をつけたほうがよろしい。
忠誠を声高に誓わせるより、働きに見合う報酬を払うほうが、よほど長持ちいたします。王都の方々には難解すぎたようですが。
隊長は少し離れた場所で話を聞いていましたが、やがて地図を覗き込み、節くれ立った指を一本の細道へ置きました。
「河岸道の手前に、乾いた沢を渡る細道がある。四頭立てなら通れるが、北側の車輪に負担がかかる。昨夜の雨で石も浮いているはずだ」
「では、あなたはそこへ。捕縛より先に、車輪が外れた場合の救助をお願いします」
「救助?」
「台帳が谷底へ落ちては困ります。人命も同様です」
隊長は一瞬だけ目を見開きました。周囲の護送人たちも、互いに顔を見合わせます。敵を捕らえよではなく、助けよと命じられるとは思わなかったのでしょう。
けれど、死者は証言いたしませんし、壊れた馬車は穀物を運びません。感情で勘定を狂わせるほど、わたくしは器用ではございません。
隊長はやがて胸へ拳を当てました。
「承知した、雇い主」
命令が走り出すと、倉の庭は瞬く間に中継所へ変わりました。
騎手が封印札を革袋へ収め、倉番が出発時刻を記し、護送人たちは二人一組で散っていきます。蹄が土を蹴る音と、荷車の軋み、短い号令が朝の空気を震わせました。
荷馬車には通常どおり穀物を積ませます。逃亡者一台のために山間部への配給を止めれば、それこそ代官の望んだ混乱を完成させてしまいます。
「追跡と配給を同時に動かすのか」
「道も人手も同じですもの。片方しか運べない仕組みのほうに問題がございます」
エルネスト様は地図と庭を見比べ、わずかに口元を緩めました。
「君の指示を聞いていると、危機まで資産に見えてくる」
「危機そのものに価値はございません。後始末から何を残すかが重要なのです」
「そこに気づける者を、私は価値ある人材と呼ぶ」
あまり真っ直ぐに告げられると困ります。能力への評価は数字と同じで、受け取り方を心得ているはずなのに。この方の声で聞くと、なぜか胸の内に余計な利息がつくのです。
昼過ぎには、最初の報告が戻りました。
逃亡馬車は王都街道を通っていない。
次に、修道院領の関所から該当なし。
そして日暮れ前、河岸道の宿場から、栗毛四頭に水を求めた者がいたとの札が届きました。車体は右へ傾き、護衛は苛立ち、代金として差し出されたのは王家会計院発行の軍票。
けれど宿の主人は受け取らなかったそうです。
代官が兵の俸給を滞らせたという話は、すでに北倉から護送人の口を通じて広まっております。支払いに使えぬ軍票を、ありがたく受け取る者はいません。
王家の紋章が刷られた紙も、約束が守られなければ薪より役に立たない。薪ならば、せめて一晩は人を温めますもの。
信用というものは、築くときには牛車のように遅いくせに、失うときだけ随分と足が速いのです。
「河岸道へ向かいます」
わたくしが外套を取ると、エルネスト様も立ち上がりました。
「私も行く」
「大公殿下が逃亡者一人を追われる必要はございません」
「君の隣へ行くと、昨夜約束したばかりだ」
「早速の履行でございますか」
「契約は初日が肝心だろう?」
そのように言われては、会計を預かる者として拒めません。
馬を並べて河岸道へ入る頃には、細い雨が降り始めていました。湿った風が頬を撫で、木々の葉から落ちる雫が外套を小さく叩きます。道は次第に狭くなり、片側には黒い岩肌、もう片側には雨に煙る谷が口を開けていました。
濡れた坂道でわたくしの馬が一度足を滑らせると、エルネスト様の腕がすぐに伸び、手綱ごとわたくしの手を支えます。革手袋越しにも伝わる力は確かで、けれど乱暴さは少しもありませんでした。
「お怪我は?」
「ない。昨夜、君に巻いてもらった包帯も無事だ」
「それは結構でございます」
「君のほうは」
「驚いただけですわ」
答えると、重なった手がゆっくり離れました。エルネスト様はそれ以上触れようとはせず、ただ馬を半歩、谷側へ寄せます。
必要な支えであったはずなのに、離れた後のほうが妙に意識されます。数字なら空欄はすぐ埋められるのですが、この胸の空白には何を記せばよいのでしょう。
少なくとも、未処理として放置するには落ち着かない案件でございます。
やがて乾いた沢へ続く分岐で、壊れた馬車を見つけました。
隊長の読みどおり、北側の車輪が外れています。車体は岩へ傾き、栗毛の馬たちは白い息を吐いていました。護衛たちは剣を抜いていましたが、周囲を取り囲むのは、昨日まで同じ王国の兵だった護送人たちです。
雨粒が刃を伝い、泥へ落ちます。
けれど、彼らが争うことはありませんでした。
護衛の一人が、代官へ吐き捨てたからです。
「軍票をよこしておいて、宿で一枚も使えないと分かった。俺たちも半年、騙されていたんだな」
別の護衛も唇を噛み、剣先を下げました。
「妻には、次の支給で薬を買うと言った。あの紙が金になると信じていたんだ」
剣が次々と地面へ置かれました。金属が石へ触れる乾いた音は、王都への忠誠が剥がれ落ちる音にも聞こえます。
わたくしが彼らから何かを奪ったわけではございません。支払うべき者が支払わず、守るべき約束を守らなかった。それだけのことです。
代官は泥の中へ座り込み、胸に台帳を抱えておりました。マリエルは外套の裾を汚しながら、馬車の陰で震えています。
「セシリア様、どうかお助けください。わたくしは代官に無理やり――」
「そのお話は会計院でどうぞ」
「わたくしは聖女です!」
「でしたら、虚偽のない証言もお得意でしょう」
マリエルは口を開いたまま言葉を失いました。奇跡というものは便利ですけれど、帳簿の数字までは書き換えてくれないようです。
わたくしは代官の前へ進みました。
「その台帳は王家の所有物です。差し押さえ執行中に持ち出した以上、返還を求めます」
「渡せば、私は殺される」
「渡さなくとも、あなたが横領した金額は変わりません」
「王都の命令だった!」
「では、その証拠も含めて提出なさいませ。命令者、日付、金額、受領先。あなたを救うのは、わたくしへの懇願ではなく、正確な記録です」
長い沈黙の末、代官の腕から力が抜けました。
差し出された台帳は雨を吸い、革表紙が冷たく濡れていました。わたくしは頁を開かず、すぐに防水布で包んで護送箱へ収めます。
人も馬も死なず、剣も交わらず、失われた荷は零。さらに護送人が集めた通行記録によって、北倉から河岸道までの所要時間と、二か所の危険な車道が判明しました。
翌日から車軸交換所を設け、沢の手前に予備の縄と板材を置けば、救荒穀物の輸送は半日早くなるでしょう。宿場へ支払う情報料も、遅延で傷む穀物の損失よりはるかに安い。
逃亡者を追うために作った仕組みが、そのまま人々へ食糧を運ぶ道になる。
実務とは、騒動の後始末ではございません。次の騒動を起こさせぬ形へ整えることです。
帰路の仮営で、わたくしはエルネスト様とともに台帳を開きました。天幕を打つ雨音の下、卓上の灯火が湿った頁を照らします。エルネスト様は包帯を巻いた手で紙端を押さえ、わたくしが項目を追う間、急かすことなく待ってくださいました。
対外債務の頁には、王家が諸外国の商会から借りた総額と返済期日が並んでおります。軍費、宮廷費、祝典費。どれも見事に膨らみ、返済の記録だけが痩せ細っていました。
そして連帯保証人欄には、わたくしの名ではなく、こう記されていました。
『第二王子妃となるセシリア・フォン・アッシュフォードの持参収入、および婚姻後に王家へ帰属する全交易利益』
婚姻を前提とした保証。
つまりレナード殿下が一方的に婚約を破棄し、持参財産の全額返還を確定させた瞬間、王家は自ら担保を消していたのです。
わたくしから奪ったつもりで、わたくしが支えていた床を自ら切り抜いた。実に殿下らしい、豪快なご決断でございます。
「返済期日は?」
エルネスト様に問われ、頁の最下段を確かめます。
胸の内で数字がつながりました。王家の債務、空になった担保、行き場を失う十二の商会。そして今、ヴェルデンには整えたばかりの護送路と、信用を取り戻しつつある働き手がいる。
わたくしは台帳を閉じ、立ち上がりました。
「明日の正午です。債権者十二名へ席をご用意くださいませ――王家抜きで、新しい交易契約を結びます」
(第15話へ続く)




